層 乙
;E寄 伊達宗泰の屋
敷
元和6年 (1620年)
の開 元禄年 間
(17C末
〜18C初
頭)さも不明である。 この宗泰の屋敷の北側は、竹林であった ことが、同 じく『東奥老士夜話』に 記 されている (図
6‑1)。
元和6年
(1620年)に
は、徳川家康の七男松平忠輝に嫁いでいた 政宗の長女五良焉八姫が、忠輝が改易処分 となった ことに伴い帰仙す ることとなったため、五郎 八姫の居館である西屋敷が造営 され る (図6‑2)。
寛永15年 (1638年)、 二代藩主伊達忠宗 は、 もとの伊達宗泰の屋敷地において二の丸の造営を始める。幕藩体制の安定 とともに本丸の 山城的な立地は不便 となった ことが、二の丸造営の理 由と考 えられている。二の九の北隣に は、五郎八姫の西屋敷が存続 している (図6‑3)。
二の丸が完成 して後、仙台藩の政治・諸儀式の中心はここに移され、二代藩主以降はその居 館 ともなる。寛文元年 (1661年
)に
は五郎八姫が死去 し、西屋敷のあった場所は「天麟院様元 御屋敷」 と呼ばれ、蔵や作業場、下級藩士の居所な ど、実務的な空間 となる (図6‑4)。
さ らに元禄年間には、四代藩主綱村によって二の丸は大改造 され、 もとの西屋敷の敷地を取 り込 んで拡大 され る (図6‑5)。
その後い くたびかの災害や火災を被 るが、その度に再建 され、二の丸は幕末まで、事実上仙台城の中枢 として機能 してい く (仙台市教育委員会1967)。
版籍奉還の粥治
2年
(1869年)に
は、二の九に勤政庁が置かれ、明治4年
(1871年)の
廃藩 置県後は、仙台城が明治政府・兵部省の管轄下に移 るとともに東北鎮台(後に仙台鎮台 と改む)が置かれ る。 この頃に本丸の建物群は取 り壊 され るが、二の九建物群は依然 として残 ってい る。 しか し、 この二の丸建物群 も、明治15年 (1882年
)の
火災によって、ほ とんどが焼失 して しまう。その後、当地には陸軍第二師団が置かれ、敗戦まで続 くこととなる。敗戦間近の昭和 20年 (1945年)7月
、仙台空襲の際に、大手門などわずかに残 った建物 も焼失 し、仙台城の建 物は全て失われて しま う。戦後は米軍の駐留地 とな り、昭和32年 (1957年)、 米軍 より返還 さ れてのち東北大学がこの川内地区に移転 し、現在に至 るのである。(2)1989年
度までの調査仙台城二の九 ・武家屋敷跡である川内地区の発掘調査は、仙台市教育委員会、東北大学考古 学研究室によって小規模な調査が行われたことがあるが、組織的・継続的に行われるのは、東
】ヒ大学に埋蔵文化財調査委員会が置かれる1983年度以降のことである。委員会による川内地区 の発掘調査は、 これ までに
8地
点を数える。 この中で特に第2地
点では、二の九の中心である 小広間付近の建物 と推定される礎石建物跡が発見されている。第3地
点では小広間の南西の元 御書院の周辺の建物が検出されている。第4地
点 ・第6地
点では、それぞれ二の九の北東 ・西 の外郭付近の遺構が発見されている。第7地
点では二の丸東方の蔵にかかわる遺構が発見され てお り、第8地
点では二の九北側の堀 (池)が
発見 されている。また、第4地
点の調査では、二の九造成時の大規模な整地層の下層か ら、伊達宗泰の屋敷に関連すると考えられる遺構 も検
出 され てい る。第
5地
点では、元禄年間の拡張後 の中奥 の、北側 の門 とその周辺の遺構が発見 され、元禄年 間の整地層 の下層か らは、五郎八姫 の西屋敷 の遺構 も検 出されている (年報1、3、 4・ 5、 6、 7)。
(9
調査地 点 の位置第
9地
点は、法学部棟 の東側 にあた り、緑地 として利用 され ていた場所 である。 これ までの 調査結果を もとに した絵図 との対比では、二の丸の裏門である「 台所門」が今回の調査区の】ヒ 東隅付近 にあた る と考 え られ る。「 台所門」 の位置は、二 の九造営以降、元禄年間の大改造を 経 て も、その位置は大 き く変わ らなか った ことが絵 図か ら うかがえる。そのため今回の調査区 は、二の丸造営以降、一貫 して「 台所門」の脇か らその周辺にあた る区域 と考 え られ る。1987年 度 に実施 した第
4地
点 の調査 では、その調査 区の南端 で、大規模 な整地層 の下層か ら、溝状の遺構 が検 出され てい る (年報5)。 この整地層 が二 の九造営時の整地層に相当す る と考え られ、その下層 の溝状 の遺構が、伊達宗泰 の屋敷 とその北側 の五郎八姫 の西屋敷を区画 す る施設 と考 え られ る。今回の調査区は、 この区画施設 の南端付近 と、それか らさらに南側 の 伊達宗泰 の屋敷 に入 った部分に相当す る。い
)調
査方法 と経過本調査 に先立 って、1989年 度に約 1ケ 月間の試掘調査を行 った。1988年度に本調査を実施 し た図書館造営に伴 う第
5地
点 の調査において、試掘調査段階での計画が、本調査を開始す ると 大幅な変更を余儀 な くされた ことの反省に立 ち、今回の試掘調査では、建築計画区域 の全域を 対 象 として、精査 が必要 な遺構面 の数、遺構 の残存状況、遺物 の残存状況を把握 し、本調査の 計画 を詳細 にたて ることを 目的 とした。当初 は、予定区域 のほぼ全域 の約500m2を
対 象 とし たが、予定地 内の歩道 ・立木 ・埋設管な どの支障物 の移設が完了 していなか った ことや、排土 置場 の確保 が難 しか ったため、予定 の約半分 の260m2を
対象 に試掘調査 を行 った。調査 に際 しては、建物予定区域 に沿 って基準線を設定 し、
4mの
グ リッ ドを組んだ。以後、翌年 の本調査 に至 るまで、すべて この グ リッ ドに基づいて調査 を行 ってい る。 グ リッ ド設定の 際 の基準点 の国土座標値 は下記 の とお りで、基準線は北か ら17°22'56″西偏 している (図7)。
原 点
NM9引
③X=‑193665.500
原 点NM9引
②X=‑193663.119 Y= 1991.380 Y= 1998.986
まず、重機に よって大学 ・米軍による盛土を排除 し、明治時代の第二師団期の遺構面を露出 させた。一部区域については、師団面を掘 り下げ、二の丸期の遺構面を精査 し、遺構の分布状 況を確認 した。 また、撹乱を利用 して深掘 りを行い下層の状況 も確認 した。その結果、後世の