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登 :雑

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報8 (ページ 57-63)

埋上 25Y5/3 黄褐色 4層 がグライ化 14号柱列柱2

   P5960m

̲開

Om

埋± 10YR4/4 褐色

 

ンル ト

 

黄褐色粘上プロック を多く含む

15号柱 列柱2

l匡 コ亡監

:;!≒

埋上 10YR4/3 にボ い黄褐色

 

粘上質 ンル ト 細砂・炭化物 。4層ブ ロックを含む

16号柱 列

¬   

6030m

見 欧 帥 m

埋上 10YR4/6 褐色

 

粘上質 ンル ト 細砂 を合む

9号溝 当

  

ド 5970m

二■

ゴ下

̲5950m

埋± 10YR4/3 1とボ い黄褐色

,鮨上質 シル ト

 

炭化物・地山ブロック を少量合む

12号浦 ̲59 90m

̲ 5940m

10YR4/1 褐灰色

 

ンル ト 4層起恢 の黄褐色ブロックを多 く合む 10号溝

半又食― =と こざ路 饂

埋上 25Y4/2 暗黄灰色

 

ンル ト

 

礫を多く含む

rW′5990m

埋L 10YR3/3 暗褐色

 

粘L質ンル ト 4層ブロックを多く含む

♀ ‑ 1 

15 

9地

III期断面図 Fig 15 Cross sections of phase  ⅡI at Nふ/19

25Y4/2 暗灰支色

 

ンル ト

 

柱痕跡

11号溝

の深 さは約

20 cmで

あ る。北側 は立 ち上が りが確認 され てい る。南側 は進駐軍 の ゴ ミ穴 に よ って破壊 されてい るが、方 向、特徴が本溝 の南で検 出 された

8号

溝 に一致す ることか ら、両者 は本来一連 の遺構 であ った と考 え られ る。

8号

溝 】(図9。 14、 図版9・ 10)

AE‑7・ 8区

で検 出 された南北方 向の溝 であ る。北側 は進駐軍 の ゴ ミ穴 に よ り破壊 されて お り、南側は調査区外 に延びてい る。上幅約 1.Om、 下幅約

06mで

、南壁 断面 の観察に よれ ば、掘 り込み面か らの深 さは約

70 cmあ

る。方 向は、

N‑25°

Wで

あ る。礎石 は存在 してい ないが、北端部が急に立 ち上が る点や、溝 の幅 と深 さが他 の布掘 に類似す る点か らみて、本来 は柱列 であ った可能性 もあ る。

9号

溝 】(図14。 15)

AF‑8区

で検 出 され た東西方 向の小溝 であ る。幅は約 H cm、 深 さ 6cm、 断面 は長方形 を呈す る。木質部 は残 っていないが、形状 と規模か らみて、木樋 が埋設 されていた と考 え られ る。 なお西側は、

6号

柱列 の柱穴

3に

よ り破壊 され ている。

【10号溝 】(図 9。 14・ 15、 図版7。 9)

3号

建物跡 の西側 に隣接 して検 出 された南北方 向の溝である。 12号 柱列 と重複 してお り、柱 穴 に よる破壊が著 しいが、部分的 に側石が残 ってい る。側石は本来、溝の両側 に存在 していた が、東側 の ものは南端部 に残存す るのみで、ほ とん ど失われている。側石 はいずれ も溝の内側 の面を揃 えて据 え られ てお り、側石 の掘 り方 の中には、小礫が詰 め られている箇所 も認め られ る。本溝 は東側 で

3号

建物跡 の布掘 と接 してお り、東側 の側石 の掘 り方は布掘 に切 られてい る が、 これが両者 の新 旧関係を示す ものなのか、それ とも単 に作業工程上 の時間差 を示す ものな のか は判然 と しない。側石 と側石 との間隔は約

50 cmで

、 そ の中間点か ら、確認 されてい る 西側 の掘 り方 ライ ンまでの距離 は約

70 cmで

あ る。埋土か らは磁器 ・陶器 ・土器 ・瓦等が比 較 的多 く出土 してい る。磁器 では、

163040年

代 に比定 で きる肥前産 中皿 があ る。陶器 には17 世紀代 の瀬戸 ・美濃産括鉢 がある。瓦 では、雪持笹 (細棄)十唐 草

2類

を瓦 当に もつ軒平瓦が 出上 してい る。

【11号溝】(図14・ 15)

AC‑8区

で検 出された、10号 滑 に平行す る溝 であ る。調査時には、埋土上部を別 の溝 と誤 認 して しまってい る。 また、調査時には12号 溝 と一緒 に掘 りあげてい るが、断面等 の記録がな く、両者 が本来一連 の遺構 であ った のか、新 旧関係 にあ る別 の遺構 であ った のか判然 としな い。 しか し、掘 り込み面 ・底面 の レベル とも同 じであ り、両者 は直交す る方 向にあ ることか ら、一連 の遺構 であ った可能性が高い と考 え る。溝 の幅は約 0.45m、 確認面か らの深 さは約

50 cmで

、壁 はほぼ垂直に立 ち上が る。

【12号溝】(図14・ 15)

AC‑8区

で検 出された、11号 溝 に直交す る溝 である。前述の通 り、

H号

溝 と一連 の遺構 で あ った可能性が高い。上幅約 lm、 下幅約

0,6mで

、確認面か ら底面 までは約

50 cmで

あ る。

溝 の底面には一箇所だけであるが礎石 と考 え られ る扁平な河原石があ る。溝 の幅・深 さ、断面 形 は他 の布掘 に類似す ることか ら、本来は、11号 溝 と一連 で、直角に曲が る塀 であ った可能性 がある。埋土か らは、17世 紀代の瀬戸 ・美濃産灰釉盤 の破片が出土 してい る。

【13号溝】(図14)

3号

建物跡柱 9と 14号 柱列柱 1と を結ぶ、東西方 向の小溝である。独立 した別 の溝 として扱 ったが、本来は礎石を据 えるための布掘 であ って、それ らの遺構 の一部になる可能性が高い。

【14号溝】(図9・ 14)

AB‑8区

で検 出された、東西方 向の小溝 である。西側で

3号

建物跡柱1に繋 が ってお り、

13号 溝 同様、

3号

建物跡 の一部 であ った可能性が高い。埋土か らは、17世 紀後美〜18世 紀代 と 考 え られ る、完形 の肥前産磁器小瓶が 出土 している。

【20号土坑 】(図9。 14)

AB‑8区

、排 水管区の北西隅 で検 出 された。本来、本体区側 に も延 びていたはず であ る が、本体区調査時には確認 で きていない。壁 の立 ち上が りの緩やかな皿状 の落 ち込みである。

【1号石列遺構】(図10・ 14)

4号

柱列 の北側、

AC‑3区

において、人頭大 の石が

3個

、南北に列んで検 出 された。掘 り 方が確認 で きていない上、北壁 に近 く、南側 も土管 に よって破壊 されてお り、全体 の形状が判

らない。

)Ⅳ

期 の遺構

Ⅲ期 の遺構 同様、

4層

上面 で検 出 され、

 3c層

が存在す る場所 では、上部 を

3c層

に覆われ てい る。調査 区の中央 よ り西には

2号

池が大 き く広が ってお り、東には多数 の上坑が存在 して い る。本期 の下限については、土坑 お よび池 の埋土 に含 まれ る遺物の製作年代か ら、19世 紀初

yHaと推定 され た。本期 の遺構か ら出土 した古銭 は、元豊通宝

1点

、古寛永

2点

、新寛永 18点

(うち文銭

3点 )で

あ り、圧倒 的 に新寛永 の比率が高い。本期 に属す る池の底面 の廃材 な どか ら、本期 の終末 の段階に、建物等 の解体が行われ ていることが推測 され る。 また、本期 の遺構 を覆 ってい る 3b・

3c層

は比較的多 くの瓦片や炭化物 を含む整地層 であ る。 これ らの事実か ら、本期 の下限の年代 としては、二 の丸殿舎を全焼す る大火災の発生 した文化元年 (1804年)

が適当 と思われ る。

2号

池】(図 9・ 16、 図版II)

AF・ AG‑4〜 8区

で検出 された。東側 は、

V期

の1号池 ・

1号

井戸や進駐軍 の ゴ ミ穴 に よ り大 き く破壊 されてお り、輪郭が捉 え られていない。西側 では調査区外へ広が りを持つ。北 側 では

4列

5列

の境付近 に岸があ り、

 3号

溝 に接続 してい る。底面 の レベルは南西部が最 も 低 く、その部分 では、地 山

(9層 )面

まで掘 り下げている。底面の傾斜か ら考 えて、池 の中心 は調査 区 よ りも西方にあ った可能性が高 く、池全体 の規模 は、

 1号

池 に比べか な り大 き くなる と推定 される。埋土は、① ・② ・①の

3層

に細分 された。埋土③層 と①層は、炭化物や植物遺 体を多 く含む植物層であ り、ある程度 自然に堆積 した と考えられる。埋土②層は部分的に施さ れた盛土が グライ化 したものと思われ る。池の底面では、多量の廃材が検出された。享和二年 (1802年

)御

家作御絵図写や、文化元年 (1804年

)御

造営御絵図写には、二の丸台所門の北西 に当たる場所に、中島を有す る大 きな池が示 されている。製作年が近接 しているにも関わ ら ず、両絵図で池の形に違いが見 られる。その原因は、絵図を作る際に、建物等に比べて池の位 置や形に十分な配慮がなされていなか った、あるいは、実際、池の形状が変わ りやすい状態に あった、のどちらかであろ う。いずれにせ よ、

2号

池が絵図に示された池 と関連を有 していた 可能性は高い。陶磁器は埋土①・②層に多 く、瓦 と木製品は埋土③層に多い。陶磁器は、18世 紀後棄〜19世紀前葉のものが主体を占める。土師質の皿 も多量に出上 している。

3号

溝】(図10。 16、 図版11)

AF・ AG‑4区

で検出された溝で、南側は

2号

池に接続する。溝の幅は、狭い部分で0.8

m程

度、調査区の北壁際で東西に広が ることが確認 されてお り、調査区の北側に池が存在 し ていた可能性がある。溝の方向は、二の九期の建物等の軸線 より若千西に傾いて清 り、

N‑34

°一

W程

度である。溝の埋土の状態か ら、最終的に溝は、埋め戻 された と考え られ る。埋土か らは、18世紀後〜末葉の肥前産磁器丸碗な どが出土 している。瓦 もある程度出土 してお り、雪 持笹 (太葉

)+唐

2類

を瓦当にもつ軒平瓦が見 られ る。

4号

溝】(図16、 図版12)

AC・ AD‑7区

で検出された、石組溝である。北側は

V期

1号

池によって破壊 されてい る。南側は鉄管による撹乱のため破壊 されている。溝は鉄管による撹乱の南側にも延びていた と考えられるが、検出されていない。南側にある19号土坑が、本溝の一部であった可能性 もあ る。溝の方向は、

3号

溝同様、二の九期の建物等の軸線 より若干西に傾いてお り、

N‑34°

W程

度である。側石は、溝の内側の面を揃えて据え られている。側石 と側石の間は約

0.5m

で、側石の掘 り方 まで合めた幅は、およそ

1.4mを

測 る。底面には小礫が敷かれていた と考 えられ、その一部が残存 していた。

1号

池に よって破壊 されているため、

2号

池 と本溝が繋が っていたか どうかは不明であるが、方向が

3号

溝 と一致す ることから、

3号

溝同様、

2号

池に

関連 した施設であった可能性が考えられる。埋土か らは、瓦当に四弁花十唐草

6類

を もつ軒平 瓦が出土 している。

5号

溝】(図16)

4号

溝の東側で検出された溝で、西側を

4号

溝によって大 きく破壊 されている。所 々に側石 と思われ る人頭大の石が残存 していることか ら、石組溝であったと推定される。方向も

4号

と一致 してお り、本溝が

4号

溝に作 り替えられた可能性が高い。埋土か らは18世紀代の瀬戸・

美濃産陶器や碁石が出上 している。

【10号土坑】(図10・ 16)

AD‑3区

で検出された上坑で、調査区の北壁にかかる。掘 り込み面か らの深 さは、約80

Cmで

ある。

11号土坑】(図16)

AB‑4区

で検出された浅い土坑で、調査時には

3d層

の落ち込み としていた遺構である。

12号土坑】(図16)

土管およびそれが接続する桝に より大 きく破壊 されているため、調査時には東側の一部分だ けが遺構 として認識 されていた。図面を整理す る段階で、遺物の出土状況や、土管による撹乱 の壁の断面図か ら、本土坑の輪郭を推定 した。まとまった量の陶磁器や土師質土器の皿が出土 している。時期的には、18世紀後葉か ら19世紀前葉に製作 されたものが主体を占め、肥前産磁 器、瀬戸・美濃産陶器、大堀相馬産陶器、小野相馬産陶器等が多 く認められ る。

13号土坑】(図16、 図版II。 13)

AB・ AC‑5区

で検出された土坑で、底面には角材が井桁に組んで据えられている。角材 の交差す る部分は和釘が打たれている。土坑の輪郭は、組まれた角材に沿 った形を塁 してい る。南側は共同溝によって壊されているが、井桁に組 まれた ものとは別の角材の一部が残 って お り、角材は単に丼桁に組むだけでな く底面を縦横に張 り巡 らされていた可能性がある。埋土 は角材の上面か ら上 と下で

2層

に分かれる。埋上下層は

4層

起源の上で、角材を据えた後に隙 間に埋め戻 された と考えられ る。角材は、一辺が約 10 cmの 太 さである。角材の上には板等 は残 されていなかったが、おそ らく角材は、床を支えるための桟の役 目を果た していた と考え られる。江戸遺跡から検出されている穴蔵 (地下式土坑

)に

は、 これに類似す る基礎を持 った ものが存在す るが、本遺構の場合、壁 の立ち上が りは

50 cm程

度 しかないため、地上に上屋 を持つ構造物の基礎である可能性が高い。埋土か らは、陶磁器、土器、瓦が比較的多 く出土 し ている。12号土坑に比べ、土器の出土量は少な く、瓦が多い。陶磁器は18世紀後葉の資料が多い。

14号土坑】(図16、 図版11)

AC・ AD‑5区

で検出された土坑で、東側を土管により破壊 されている。平面は楕円形を

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報8 (ページ 57-63)

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