寒風沢は、松島湾口に帯状に連なる浦戸諸島の一つ、寒風沢島の集落である。浦戸諸島は、松 島湾を塞ぐように連なっており、東日本大震災の津波についても、防波堤の役割を果たした。
戸数は 100 戸ほどで、湾内でのカキ、ノリなどの養殖漁業を営んでいる。また、島内の平地 には田地が広がっており、農業も盛んである。江戸時代は寒風沢浜で一村をなしていた。石巻方 面から仙台方面に向かう船が暴風にあったときなどの風待ち港として利用されていたとされる。
地区内に幕府が御城米蔵を設け、仙台藩も御穀改所を設けるなど、交通の要衝でもあった。
地区の鎮守は神明神社で、檀那寺として真言宗寒風寺、臨済宗松林寺がある。
東日本大震災では、地区の多くが津波被災により流出した。塩竃市の復興計画では高台への集 団移転が予定されている。
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-1 塩釜市浦戸寒風沢地区 2011 年 12 月 21 日(水)
報 告 者 名 相澤 卓郎 被調査者生年 1936 年(男)
被調査者属性 寒風沢区長 調 査 者 名 酒井 朋子
補助調査者 相澤 卓郎
寒風沢の被害の概要および被調査者について
寒風沢地区は浦戸諸島を構成する島の一つで、人口は 200 人ほどである。この地区も震災に より大きな被害を受けている。90 戸近くあった家屋の約半数が流出、半壊した。津波による死 亡者は 3 名である。現在は多数の住民が、寒風沢にある旧浦戸第一小学校敷地の仮設住宅や、
いわゆる「本土」の仮設住宅に住んでいる。
話者は、塩竃市教育委員会に寒風沢調査の相談を行ったさいに紹介された人物である。津波で 自宅が流され、現在は本土の仮設住宅に住んでいる。調査者および補助調査者の 2 名に教育委 員会の方が 1 名同行し、合計 3 名で話者の暮らす仮設住宅を訪れ、2 時間弱にわたって聞き取 りをおこなった。
寒風沢地区には、国・県・市の指定する無形民俗文化財はとくにない。よって、年中行事や生 業の様子について全体的に話を聞いた。以下に聞き取りの概要をまとめる。
寒風沢の年中行事
寒風沢には昔から続けられてきた年中行事が多く残っている。それぞれの行事につき毎年当番 が決まっており、一つの行事につき 5 人から 7 人が当番となり、順番に回っていく仕組みである。
新風講は寒風沢を南・中・北の 3 区域で構成している葬儀の互助で、1 月 17 日におこなわれる。
これは東北地方でみられる契約講と似ている。
12 月 15 日には、秋葉山大権現で火伏の神に火災防止の祈祷をしていた。今では、仕事の都 合で人を集めるのが難しく、新風講とまとめてやってしまおうということで、本来の祭日から 1 月 17 日にずれ込んでいる。
2 月 10 日には百万祭(念仏講)がある。ここでは先祖の霊を慰めるために念仏を唱える。念 仏の唱え方は、高齢の女性が集まって輪をつくり、1 本の数珠を回しながら念仏を唱えていく。
この、複数回に及んで念仏を唱えていく様子を「百万回念仏を唱える」として百万祭と呼ばれて いる。
8 月 29 日には施餓鬼供養がおこなわれる。これは海難者の供養で、鐘を鳴らしながら念仏を 唱えるものである。寒風沢の区の行事として行っている。施餓鬼供養では灯篭も用意する。寒 風沢では 150 個近くの灯篭を当日に作り上げる。15 人前後の役人が、当日の 13 時くらいから 集合して、灯篭ややぐらをすべて作っていくのである。年齢にして 50、60 くらいの人たちで、
これらの年中行事に共通した問題は、高齢化が進み、後継者が見つからないことである。たと えば施餓鬼供養は以前は 30 人ほどで行っていたが、しだいに数が少なくなり、一時期は行事が 中止されることもあった。だが重要な伝統行事であるからということで、50 代の人を集め、知っ ている人に教わるなどして復活させた経緯がある。この後継者不足は津波以前からの大きな問題 であり、震災の影響ではない。津波の直接的影響としては、寒風沢漁港の被害などがある。今年 は施餓鬼供養を例年通り漁港で行うことができず、松林寺の本堂をかりておこなわれた。また、
住宅以外にも祭礼の時に使われる道具を管理していた倉庫も流されてしまっている。
浦戸諸島の過疎化
昭和 36 年には、浦戸諸島全体での人口は 2,000 人近かった。それが今では 600 人未満へと 減少している。寒風沢の仕事のほとんどは一次産業になるが、法律の制約をうけてそれも難しく なっている。浦戸諸島でおこなえる漁業は、海苔やカキの養殖など、いわゆる 3K と呼ばれる仕 事になってきている。海苔やカキは働きの割には利益が少ない。そのため現在の寒風沢では、本 島に働きに行く人が 10 人超いる。
島と本島の行き来も難しくなってきている。市の定期船は一時期勤め人が多くなったというこ とで、本数が増え、8 便ほどが運営されていたが、人口の減少と共に便数は減っていき、今回の 震災でますます少なくなってしまった。
島間の交流
島間での交流は活発ではない。上に述べてきた催事も、島内の住人のみでおこなわれる。祭礼 のときには岩切の八坂神社から宮司が来るが、基本的にそれ以外のときには宮司はおらず、区長 が神社の管理をしている。寒風沢から本島への移住も少なく、また、縁もゆかりもない人が浦戸 に来ることも珍しい。
浦戸諸島では一つ一つの島が個々に共同体を作っていて、外部との関わりはあまり持たない。
「我が島意識」のようなものを、それぞれがもっている。この「我が島意識」は財産というもの に強く表れていて、例えば野々島の人は島外の人間に財産(土地)を持っていかれることを強く 嫌っていた。また、学校の統合に関しても、親が別の島の子どもと自分の子供が一緒の学校に通 うようになることに抵抗を示したという。
このような意識の中、寒風沢はどちらかといえば他の島と交流があったほうだといえる。野々 島-寒風沢間で渡し船があったのも一因だろう。また、寒風沢の場合は外部から嫁として入って くる女性たちも多かった。話者の母親も妻も松島の出身である。
3 月 11 日以降の寒風沢
話者も震災後 2 か月ほどの間は寒風沢の避難所にいた。避難所になったのは旧浦戸第一小学 校体育館である。避難所には最大で 160 人くらいの人が寝起きしていた。最後まで避難所に残っ た 8 世帯の人たちは浦戸第一小学校に作られた仮設住宅に住んでいる。中には、現在家の 2 階 を改造して住んでいる人たちもいる。
から仮設住宅に入った人たちに優先して配られ、自宅に戻った人たちの手にはなかなか届かない。
震災後、本島に移っていった人もいるが、地理的距離(物理的距離)の他に人と人の気持ち(精 神的距離)が離れてしまい、地域コミュニティに亀裂が入ってしまっている。
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-2 塩釜市浦戸寒風沢地区 2011 年 12 月 23 日(金)
報 告 者 名 酒井 朋子 被調査者生年 1936 年(男)
被調査者属性 漁業従事(カキ養殖)
調 査 者 名 酒井 朋子
補助調査者 相澤 卓郎
被調査者について
塩竃市教育委員会から紹介を受けて聞き取りを行うことができた。寒風沢地区で生まれ育ち、
ずっとこの地区に住んできた人物である。聞き取りは、調査者および被調査者の 2 名で、1 時間 半程度にわたっておこなった。場所は寒風沢の臨時の船着き場の待合室である。これは本来誰に でも開かれている公共スペースであるが、聞き取りの最後 10 分程度になるまで、他の利用者は いなかった。
寒風沢地区には、国・県・市の指定する無形民俗文化財はとくにない。よって、年中行事や生 業の様子について全体的に話を聞いた。以下に聞き取りの概要をまとめる。
寒風沢の神明神社例大祭の震災による中止
寒風沢地区の年中行事としてたいへん重要なものに、神明神社の例大祭がある。例年であれば 年に 2 回、4 月の第 1 日曜日の春季大祭、および 9 月の第 2 日曜日の秋季大祭がおこなわれる。
本来の祭日は、春季大祭が 4 月 3 日、秋季大祭が 9 月 9 日である。
神明社は明治 39 年に村社に指定され、浦戸諸島の中心として機能していた。昭和 21 年には 指定は廃止されている。祭神は天照皇大神で、春は豊作祈願・秋は豊穣の祭りとしておこなわれ ている。また、航海安全の神としても祈願されている。
大祭の開始は 11 時からで、13 時には神輿と渡御が開始される。浦戸諸島では大祭は航海安 全の意味合いが強いこともあり、海岸線に沿って進んでいく経路をとる。神輿は、左右で 4 人ずつ、
それが前後合わさり計 16 人でかつがれる。住宅地では 5、6 軒の家が休憩所となり、そこでは 食事や酒が提供される。出される料理は様々で、刺身や煮付け、果物など多種に及ぶ。昔は各家 で作ったものを出していたが、最近はスーパーなどで買ってきたものを出す家もある。
住宅地を一通りまわった後に、御輿は南側の海岸を通る。そして、寒風沢を一周すると 17、
8 時を過ぎており、そこで神輿渡御は終わる。
この大祭は部落で一番大きな行事であるが、今年はおこなわれなかった。震災があったため中 止すると役員会で決まったためである。祭りを開くと多くの家が料理や酒を提供することになる が、それが震災のためただでさえ困難な生活の負担を増大させるから、という理由だった。
神明社の大祭は何百年も続けられてきた祭りで、話者の知る限り中止は初めてのことである。
雨などで神輿渡御が中止になることはあっても、可能な範囲でおこなわれてきたのである。来年