高瀬笠野地区は、山元町の中央部沿岸部、JR 山元駅のそばに位置する。江戸時代は高瀬村の 一浜である。戸数はおよそ 250 戸で、旧家は県道の東側一帯に集住する。現在は県道の西側か ら山元駅近辺に新興住宅地が形成されてきている。
現在の主要な生業はイチゴ栽培を中心とした畑作農業である。戦前までは漁業が中心で定置網 漁を営んでいた。漁港がないことから漁業が衰退し、砂浜を利用した農業に転換した。
地区の鎮守として八重垣神社があり、また檀那寺として曹洞宗徳泉寺がある。7 月末に行われ る八重垣神社の夏祭りは笠野のお天王さまとして知られ、多くの参拝客が来たという。本祭りで は神輿の浜降りが行われる。
東日本大震災では、地区のほぼ全戸が壊滅した。山元町の復興計画では地区の多くが居住禁止
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-1 山元町高瀬笠野地区 2011 年 12 月 12 日(月)
報 告 者 名 山口 睦 被調査者生年 ① 生年未確認(男)、② 1948 年(男)
被調査者属性 ① 山元町教育委員会生涯学習課主査、② 山元町笠 野地区副区長
調 査 者 名 山口 睦
補 助 調 査 者 兼城 糸絵
山元町の被災状況
山元町の 3 分の 1 が浸水、死者 600 名、2,500 世帯が被災(全半壊一部損)した。復興計画 が平成 23 年 12 月 12 日から議会にかけられており、浸水地域は、新築の住居は不可、倉庫、
神社などは再建、新築可能な第 1 種に指定された。
12 月 5 日に文化財保護委員会の町内の文化財の被災状況についての調査が行われた。笠野地 区の八重垣神社はすべて津波で流出、町の有形文化財の指定を受けていたが、解除の方向性(平 成 24 年 1 月末の教育委員会で審議予定)である。しかし、お神輿が見つかったため、夏祭りで 行われる神輿を使った「浜降り神事」を無形文化財として指定する方向を模索している。
ただし、祭りを無形文化財化すると、継承者の問題がある。新たな新築住居は不可能だから、
地区に住んでる人がいない状況でどうやって伝えていくか。昔住んでいた人、地域にかかわる人 など、誰を継承者とするのかが問題となる。
町の祭りはできる形で開催している。6 月ふれあいまつりは、産業祭であり、各地から寄付で 物産市を行い、売り上げを全額寄付してくれた。11 月 3 日に行った中浜の秋祭りは、商工会が 中心になって、いちご、りんご、ほっきなど町内の物産を売りだした。
笠野地区概況
話者 ② は、笠野地区の副区長でもあり、現在東田仮設住宅の行政連絡委員をつとめている。
行政連絡委員とは昔の区があったときと同じように、役場からの配布物のとりまとめなどの仕事 をする。東田仮設住宅には 267 軒が住んでいる。話者 ② 自身は震災後角田市に身を寄せていた ものの、9 月からは東田仮設住宅へと移った。
笠野地区はもともと 240 軒・820 名ほどの人口であったが、そのうち 44 名が震災で亡くなっ た。建物も高台に建てられていた 2 軒を残して、その他は全部流された。笠野地区の住民は、
東田仮設住宅へ 35 軒ほど入っており、一番多いのは町民グラウンドの仮設住宅だという。その 他の仮設住宅地などバラバラになっている。町外に出たり、よそでマンションを買ったりという 人もいる。
話者 ② は笠野地区の人たちの動向は大体把握しているという。震災から 2 日後、笠野地区で は話者 ② らを中心にすぐに安否確認が始められた。役場のところに掲示板のように紙を貼って、
「誰がいる」「誰をみかけた」などがわかるようにした。役場で働いていたという経験から、「こ
認を行うようになったのは、震災から 1 週間が経過してからだった。3 月いっぱいは役場の安否 確認を手伝った。ただ、安否確認をする場合、皆住所をもとに照会にやってくる。私のような年 配者だと頭の中に他の地域の小字名まで入っているから、すぐに的確に答えることができる。と いうことで、小字名を把握できない若い人たちが対応するよりは、と思い安否確認を手伝った。
地区によってはまとまらなかった地区もあるらしい。隣の花釜は 1,000 戸以上あるので、そ れだとまとまらない。笠野は昔からいた人が 100 軒ぐらい、新しい人が 140 軒ぐらいで、班の 人たち同士も面識がある。そういう意味では普通の地区よりもまとまりやすかったんじゃないか なと思う。
笠野地区の民俗文化財について
現在の八重垣神社の総代長は A さんという方が務めている。八重垣神社は 1200 年祭を 4、5 年前に行った。話者 ② 自身も仕事で文化財に関わったことがある。
笠野地区には笠浜甚句保存会がある。石投げ甚句といって、舟を出してホッキをとっていた。
本当は資料があるはずだが、私のところにあった資料はすべて流されてしまった。町側には何ら かの資料が保管されていると思う。甚句保存会は、今では歌と踊りの保存会で、農協婦人部(JA 宮城亘理笠野支部)の人たちにお願いしている。それの予算は部落総会できちんと計上している。
11 月 3 日に行われる山元町文化祭で踊りを披露するのが主な活動。14、5 人でハッピを着て踊 る。踊り手はすべて女性である。現在は道具も衣装もすべて流されてしまったので、休会という ことになっている。区費も徴収していない状態なのと、このような状況で「踊りなんて…」とい う声があることも確かである。そのこともあって、部落の皆の了解を得て、休会にした。個人的 には、一時的に無くすとなると、継続に不安を感じるが、もう少し時期をみていきたい。
八重垣神社でのお祭りについて
旧暦 6 月 15 日に行われる。笠野と新浜区が合同で行っている祭り。夜には花火を打ち上げて いた。夜店も出ていた。区の総会時に八重垣神社の総会も行う。区の中にも入っていない人もい るが、区としては八重垣神社のお祭りを区をあげて応援していくという体制をとっている。だか ら、班長もそれぞれ役割を担っていたりする。ただ、確実にその日に行われる訳ではなく、週末 にあわせて行うことが多い。
笠野地区は昔からきゅうりは食べなかった。その昔、きゅうり畑に隠れて命を守られた村人が いた。そのため、笠野の人たちはきゅうりを栽培し売るということはしても食べなかった。少な くとも、話者のひとつ上の世代は食べなかったようだ。
他には、1 月 1 日に八重垣神社へ新年のあいさつを行う。地区の主催で行われ、新浜・笠野両 地区の役員を集めて祈祷する。あとは、台風シーズンである 9 月にそれぞれの部落の境のとこ ろにお札をはる(台風前に行う)。それも B さんが拝んで、境に貼っていく。
今年の 1 月 1 日に祈祷を行うのか、という問いに対しては、祈祷料などの問題があるからど うなるのかはわからない、という。笠野の区長は名取にいるし、新浜の区長との話し合い次第で はないかと思う。ある程度のお金も準備しないといけないし、区としても悩むところではある。
題があるからだという。かつて公会堂を作るために 1 軒あたり 6 万ぐらい積み立てをしていた。
10 年ぐらいかかったが、住民の中に反対派がいたりなどあって色々揉めた。その後、宝くじ事 業の助成を受けて建てられるということになったが、その後震災もあって結局建てられなくなっ たので、1 万円を区で徴収して、皆に 5 万ずつ返した。そのお金や特別積立金として残しておい たお金を切り崩しながら、現在は区に関する経費として使っている。
笠野地区の今後について
現在、町に対して 笠野" としてまとまって住めるような場所を与えてくれないかと求めてい るが、実際には 1 人 1 人にヒアリングをしてほしいと考えている。やはり、移転するにしても、
金銭的に余裕があるか無いかが問題になるのではないか、と思う。金が無いと、やはり町営住宅 に入るしか無いんじゃないのか。色々と意見はあるかもしれないけど、笠野地区としてのまとま りを配慮してほしいと考えているし、そう訴えている。
個人的な活動だけど、やはり皆家をなおしてでも戻りたいといっている人が多い。でも、法律 で阻まれている。現在笠野地区は 1 種、2 種、3 種というように災害建築法に基づいて土地がわ けられている。戻りたい人がいるという状況を踏まえて、法律を柔軟に変える必要がある。新築 を許可する代わりに自己責任制にしてほしいと考えている。人が戻ってきて住んでいいというの ならば、なぜそこを(法律で)限定してしまうのか。その辺りがわからないところである。
今取り組んでいる活動
農地の復活を目指している山元町復興組合というものがある。これは 10 月から 2 月にかけて 農家の方々に出ていただいている。主に、ガレキの撤去作業を行い、農地の整備を行っていく。
ガレキ拾いには 1 日 100 人ぐらい出てもらっている。
今後に関して言えば、復興までは大変だと思う。農業を再開するにあたって、畑をきれいにす るだけでは足りない。水利系の整備や、農機具の問題など様々な手当が必要になってくる。その あたりをどう解決するか、という点について苦慮している様子がみられた。