寺島は阿武隈川河口左岸に位置する。阿武隈川が蛇行してできた舌状の河岸段丘状に集落が広 がっている。地区の中央部を貞山堀が流れる。江戸時代は寺島村として一村をなし、寺島、蒲崎、
新浜の 3 つの集落からなる。合計戸数は 200 余りである。主要な生業は農業である。江戸時代 の記録では阿武隈川のサケ・マス漁が盛んであったことが知られる。
地区内の鎮守として蒲崎に神明社、新浜に神武神社がある。また、集落内の湊神社は蒲崎、新 浜住民の信仰対象であり、かつては安産、子授け祈願の神様として市内全域から広く崇敬を集め ていた。檀那寺は早股の高林寺および蒲崎の専光寺である。
震災では、蒲崎、新浜が壊滅的な被害を受けた。寺島集落も全壊、半壊など大きな被害を受け た。岩沼市の復興計画では、寺島地区一帯が農村文化的景観保全地域に設定されており、一部集
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-1 岩沼市寺島寺島地区 2011 年 12 月 21 日(水)
報 告 者 名 滝澤 克彦 被調査者生年 1927 年(男)
被調査者属性 農業(以前は副業として電気屋)
調 査 者 名 滝澤 克彦
補助調査者 兼城 糸絵
話者について
農業をする傍ら、副業として 60 代頃までの 23 年間電気屋をしていた。50 代の頃に区長代 理を務めた経験あり。その他にも民生委員、農協幹事、交通指導員などを務めてきた。また、趣 味で狩猟を 50 年ほどやってきた(キジ・ハト・カモなど)。息子が、亘理で整備工、農協の支 部長や監事、消防団長なども務めている。
部落の概要と社会組織
大字寺島には寺島・蒲崎・新浜という 3 つの部落があり、それぞれに契約会がある。公会堂 もそれぞれ別にもっている。行政区の蒲崎はさらに北と南に分かれるため、区長は蒲崎に 2 人、
寺島と新浜にそれぞれ 1 人ずつとなる。各地区の役員が集まる大字寺島全体の役員会が年 2 回 開催される。かつては玉浦小学校の寺島分校があったが、児童数が少なくなったため廃校となり、
送迎バスで玉浦小学校へ通っている。
部落としての寺島では町内会長、区長、日月堂総代を同一人物が兼ねている。「町内会」は「契 約会」の新しい呼び方で、中身は同じである。町内会の集まりは 2 月第 1 日曜日に開催され、「総 会」と呼ばれている。
青年会がありかつてはバレーボールや野球を行っていたが、最近ではほとんど活動していない。
消防団は第 11 部隊、番立てで団長を務める。
葬式の組は寺島部落内でカミ、ナカ、シモに分かれており、話者宅はシモにあたる。その組に 対する呼び名は特にない。葬式の祭には、キメシとホリマイという役割があり、キメシは死者が 出た時に各家庭に知らせに回る係で、ホリマイとは遺体を埋める穴を掘る係である。もっとも、
現在は火葬なので、ホリマイは墓石を動かす役目を担っている。キメシは死者が何月何日に亡く なったということと、葬儀の日程について一軒一軒まわって告知すると同時に、線香代として 20 円を徴収している。キメシとホリマイは年に 1 度の総会の時に区長が管理する台帳をもとに 決められる。キメシは 1 人で、ホリマイは 2 人。ホリマイにはバールや手ぬぐい、スコップな ども与えられる。5〜6 年前までは、自宅で葬儀を行っていた。最近はほとんど岩沼にある会館 で行っており、津波の後は特に会館(岩沼と名取)で葬儀をするようになった。しかし、シラセ などは以前と同様に行う。仮設住宅に住んでいる場合はまだいいが、仮設を出てマンションなど に身を移した人に連絡をするのが少し大変である。一応電話で連絡している。
日月堂
大字寺島のなかでも寺島部落は日月堂、蒲崎と 新浜は湊神社を祀っている。日月堂の拝殿が震災 により倒壊してしまったのでいまでは解体してし まった。また、鳥居と旗竿があったが地震(振動)
により壊れてしまった。祭神は日天月天であると いい、八幡旗が昔あったのでそれがご神体だった のではないかと思う。
日月堂の祭日は 9 月 8 日、餅をついたり、お こわを炊いたりして食べる。神楽などは特に行っ ていない。これまで 2、3 回頼んで早股から神楽
に来て貰った記憶がある。岩沼の竹駒寺の住職が別当を務めている。別当は今年も祭を行って欲 しいという考えであったが、住民側がこんな状況では無理であると主張し、行わないこととなっ た。
現在は鏡が置かれている。本殿の脇に天神があり、そこに子ども神輿がある。子ども神輿は子 ども会が参加単位となって行われたが、これは祭りとは別に行う行事であり、毎年 3 月頃に行う。
もともとは男児だけで担いでいたが、今では女児も担ぐ。今年は地震の前にしたようなしていな いような、記憶が少し曖昧である。
講
コバハラサンへの代参講が 30〜40 年前ぐらいまではあった。1 か月にいくらか決まった金額 を積み立てる。その他に月山参りなどもした。女性だけで信心する山の神があり、小牛田の山神 社に行き、安産祈願などを行う。これは現在でも行われている。
寺院
寺島部落は、ほとんどが高林寺の檀家であり、うち 23 軒ほどが専光寺にハカショをもってい る。ハカショとは、専光寺に墓をもっているということだけであって、檀那寺は高林寺というこ とになる。
部落のお祭
3 月 1 日と 11 月の何日かに祭がある。それぞれの家庭で行う。エンナカの人たちが皆やって きて、魚料理や御馳走を作って楽しむ。これは村落単位ではなく、各家庭それぞれが行うもので ある。かつては旧暦で行っていたが、今は新暦で行う。
被災状況
大字寺島のうち、蒲崎は震災前に大体 128 軒ぐらいあり、そのうち 60 〜 70 軒が津波によっ
写真 拝殿が倒壊した日月堂
もとの家に住んでいるのは 2 軒のみ。寺島は死者を出さなかったが、蒲崎と新浜はそれぞれ 10 数人亡くなった。寺島地区の 42、3 世帯のうち半数が仮設に入っている。
地震直後、寺島では、消防団長を努めていた話者の息子を含め消防団が中心となって避難を促 していた。話者は、阿武隈川の堤防に上って津波の難を逃れることができた。見たことも無い大 きな波が襲ってきて本当に恐ろしかったという。辺りは瓦礫が 6 尺の高さで積み上がり、家も 1 階部分が浸水し瓦礫などでめちゃくちゃな状態になっていた。母屋の建物自体は持ちこたえたも のの、海側の作業場は全壊した。ボランティアの人たちに自宅のガレキや床下のノロ(泥)をか きだしてもらった。ボランティアの人たちには本当に感謝している。
壁を張り替え、箪笥を取り出して塗り直し、ふすまのガラスを付け直し、床を張り換え、もう 一度住める状態になった。最近になってやっと住み始めた。農機具や車も水につかって壊れた。
買って 500 km も走っていない車が流された。避難時には、その車を取りに戻ろうとしたが止 められた。息子が農機具の一級整備工だったので、農機具の修理をしてくれた。
南浜中央病院は 2 階ぐらいまで水に浸かっていた。そこでは 1,000 人ぐらいの人(看護士と 入院患者)が残っていて、看護士が 1 人と売店の人 2 人が亡くなったようだ。1,000 人分の食 糧支援を求められた。仙台の富沢の知り合いのところから買ってきた米で 300 人分のおにぎり を作ってもっていったら、1 つのおにぎりを 3 人で分け合って食べていたらしい。おにぎりをもっ て行くときには船を漕いで行った。
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-2 岩沼市寺島新浜地区 2011 年 12 月 23 日(金)
報 告 者 名 滝澤 克彦 被調査者生年 ① 1931 年(男)、② 生年未確認(女)
被調査者属性 夫妻、花卉農業 調 査 者 名 滝澤 克彦
補助調査者 兼城 糸絵
話者について
50 年ぐらい花卉農業をしていた。300 坪の農地で、温室も利用し、チューリップ、パンジー、
カーネーション、デイジーなどを栽培する。近所の人を雇い、仙台市へ卸していた。地震により 温室は全てだめになり、倒壊したままになっている。ちょうどチューリップ 1 万本を育ててい るときだった。また、母の日へ向けて出荷前だったカーネーションや卒業式用の花など何千本も だめになった。
新浜部落について
新浜はもともと阿武隈川の川沿い、堤防の河川側にあった。昭和 16 年の河川改修工事によっ て現在の場所(一部は海沿い)へ移ってきた。話者家はもともと川の中にあった島に住んでいた。
伊達藩の倉庫だったという。その倉を「納屋」と呼び、左側には塩を右側には鮭を保管していた。
その島に住んでいた 2 軒は、江戸か明治のころに河原へ移動した。昭和 59 年の市史編纂のとき 編纂室員がやってきて調査をした。そのときの写真が市史に収められている。市の方からは倉を 保存するよう勧められたが、20 年ほど前に改装して事務所にした。
川の島は、現在の亘理大橋よりも海の側にあった。話者 ② が嫁に来たときにはまだその島は あったという。その土はトロッコで運んで、現在の堤防にしたという。そのため、現在では残っ ていない。新浜の人たちは半農半漁の生活をしていた。漁は部落共同で行う。鮭を主に獲っていた。
社会組織
新浜内では、同姓の場合大抵ホンケ・ベッカ(本家分家)の縁故関係がある。そのような関係 によって結ばれている集団をイチゾク(一族)と呼んでいる。正月にはイチゾクのあいさつに回 る。新浜には 42 軒あり、森、佐藤、平塚などの姓をもつイチゾクがあった。結婚式の席順など もイチゾクの関係を考慮して決まっている。イチゾクが参加するため結婚式は大規模なものにな ることが多い。本家が指揮を執り、段取りや席順を決めていく。結婚する時には生年月日や職業 まで記載した親戚の一覧表を交換する。娘が長野に嫁いだが、その時にもそういう表を交換した。
新浜は部落を、1 〜 4 班の 4 つに分け、不幸があった場合にはその班で対応する。
湊(みなと)神社