• 検索結果がありません。

顕微鏡は発明されてから 420 年余りを経ており、そ の発展の歴史は、ミクロの世界を究明したいという先 人たちの英知、情熱、執念の歴史でもある。またその 歴史の中で、医学をはじめとする科学や産業など様々 な分野の発展に重要な役割を果たしてきた。附属資料 3の光学顕微鏡発展系統図からもわかるように、世界 の顕微鏡の歴史は、以下のように時代区分ができる。

1)黎明の時代:誕生から 19 世前半までの長い間、複 式顕微鏡による科学的な成果は、R. フックの「ミ クログラフィア」の出版(1665 年)や、レーヴェ ンフックの単式顕微鏡による微生物の発見(1673 年)などであり、倍率・解像力とも単式顕微鏡の方 が優れていた。

2)性能向上の時代:19 世紀半ばになると、色消しレ ンズの組み合わせによる高倍率対物レンズが作られ るようになって、複式顕微鏡が性能・操作性で単式 顕微鏡を圧倒するようになった。また対物レンズの 理論・設計の研究が始まった。偏光顕微鏡や反射型 顕微鏡が登場したのもこのころである。

3)理論・技術確立の時代:19 世紀後期になると、ド イツのアッベは顕微鏡結像理論や対物レンズの光線 追跡設計法を確立し、アポクロマートや均質油浸法 を完成させ、その性能は飛躍的に向上した。この時 期に伝染病の病原体が顕微鏡により次々と発見さ れ、ツァイスやライツ(現ライカ)などドイツ製顕 微鏡が世界のリーダーシップを握るに至った。さら に 20 世紀初頭にかけて、双眼実体顕微鏡、限外顕 微鏡(暗視野顕微鏡)、蛍光顕微鏡など現在につな がる観察法の顕微鏡がドイツで相次いで誕生した。

4)極限追及の時代:20 世紀になり二度の大戦を経て、

顕微鏡開発の環境も、電算機によるレンズ設計、新 種ガラスの開発、エレクトロニクス技術の導入など 大きく変化した。こうした中、顕微鏡作りをゼロか らスタートした日本が、徐々にその品質の向上を遂 げてきた。1970 年代後半以降の数度の新光学系開 発にともない、光学顕微鏡の性能はほぼ極限にまで 到達し、ドイツと世界トップを競い合うまでに至っ た。

5)新しい光学顕微鏡の時代:1980 年代後半に共焦点 レーザ走査型顕微鏡が登場し、従来限界と考えられ ていた光学顕微鏡がバイオイメージングなどの最先 端研究に不可欠なツールとして注目されている。さ らに多光子励起レーザ走査型顕微鏡、超解像顕微鏡

へと進化しており、さらなる発展が期待されている。

本報告書は、上記の光学顕微鏡の歴史の中で、わが 国における顕微鏡技術、特に光学技術を中心に記述し ている。明治末期の光学産業そのものが黎明期にある 中で、先駆者たちはドイツ製顕微鏡を分解・計測・加 工し懸命に複製を試みた。とりわけ対物レンズはガラ ス材料も不明で高精度の加工・組立を必要とするた め、その性能を再現することは至難の業であった。そ れを熱意と職人魂で克服して 1914(大正 3)年に「エ ム・カテラ」顕微鏡が発売され、以降のわが国顕微鏡 工業の礎となった。この流れをくみ 1919 年に創立し た高千穂製作所(現オリンパス)が、1934 年に最高 級対物レンズのアポクロマートを完成させたことは、

わが国の光学技術の成長を示す画期的な成果であっ た。また 1917 年に設立の日本光学工業(現ニコン)

は、わが国最高峰の光学技術を有し、各種光学機器の 開発・製造を進めていた。このようにわが国では、戦 前においてすでに光学産業の基盤技術が世界水準にま で達しつつあり、終戦後の各製造技術の平和産業転換 において光学機器産業が大きく花開くことになる。戦 後の顕微鏡産業の復興は、戦前の機種の復活から始ま ると共に、産官学あげての技術研究や標準化などの取 り組みからスタートした。大戦中にドイツで初めて試 作された位相差顕微鏡が、1949 年に千代田光学(旧 エムカテラ)とオリンパスによりそれぞれ独自に完成 されたのも、戦後の劣悪な開発環境の中での特筆す べき成果であった。こうして国産顕微鏡は、千代田光 学、オリンパス、ニコンをはじめとする各メーカー で、開発・製造技術力を地道にそして着実に高度化さ せていき、品質の向上や、より高級な新製品の開発を 進めていった。その結果、年々伸長する国内需要を満 たすと共に、欧米をはじめとする海外への輸出も増加 させて、価格やサービス面も含めた世界的評価を高め ていった。1950 年代後半になると、ニコンの S 型や オリンパスの E 鏡基など、各種ユニットをそろえた システム顕微鏡が発売され、また 60 年代にかけて千 代田のポリフォト、オリンパスのフォトマックスやバ ノックス、ニコンのアポフォトといった最高級万能写 真顕微鏡も開発され、微分干渉、落射蛍光、変調コン トラストなどの新しい観察法も取り入れていくことに より、世界リーダーであるドイツ製顕微鏡を追う体制 を整えていった。

わが国の光学顕微鏡が、その品質面で大きく飛躍し たのは 1970 年代後半からである。その基幹となった のは、対物レンズをはじめとする光学系の新開発によ る顕微鏡システム全体のレベル向上である。1976 年 にニコンより新光学系 CF シリーズと新顕微鏡 V シ リーズ、1978 年に X・Y シリーズが発売されたのを 皮切りに、オリンパスでも 1978 年に新光学系 LB シ リーズ、1980 年に BH2 シリーズ、1981 年に工業用 新光学系 IC シリーズ、1983 年にニューバノックス AH2 を発売した。ニコンは 1985 年にさらにスペック アップした新光学系 NCF シリーズを追加している。

さらにドイツのツァイスが 1986 年に無限遠補正の新 光学系 ICS と新顕微鏡アキシオシリーズを、またラ イツ(ライカ)が 1992 年にデルタ光学系と新顕微鏡 DM シリーズを発表すると、オリンパスは 1993~4 年 に無限遠補正の新光学系 UIS と BX、 AX、 IX を、ニ コンも 1996 年に新光学系 CFI60とエクリプスシリー ズを発売し、これら日独 4 社が名実共に世界の光学顕 微鏡のトップの地位を競い合って現在に至っている。

光学顕微鏡は、その開発の歴史の中であらゆる光 学理論と技術力が結集され、光による限界分解能に極 限まで迫るに至った。この認識により一部の研究者か らは、電子顕微鏡やプローブ顕微鏡などと比べてさら なる発展の余地はないと思われてきた。しかし、位相 差・微分干渉などの観察法により生きた細胞を直接観 察でき、さらに新たな蛍光色素・蛍光タンパクの登場 により蛍光観察法が免疫・DNA・脳神経・分子生物 学の主役となると、光学顕微鏡は再び見直されるよう になった。それに拍車をかけたのは、1980 年代後半か ら始まったレーザ走査型顕微鏡の登場であった。特に 共焦点法による効果は絶大で、蛍光顕微鏡との組み合 わせで最先端バイオイメージング研究になくてはなら ない存在となった。さらに多光子励起レーザ走査型顕 微鏡や超解像顕微鏡などへと発展し、今後ますます光 学顕微鏡の重要性が高まっていくことが期待される。

このようにわが国は、ドイツと並んで光学顕微鏡の 世界のリーダーシップを握るに至った。およそ 100 年 前に当時の外国製顕微鏡を複製することから始まった わが国の光学顕微鏡産業は、なぜここまで発展しえた のであろうか。日本人の精密光学機器に対する強い関 心と憧憬、精密加工に関する適性、国策としての重要 性認識などもあったであろう。また光学ガラスの国産 化や、レンズ設計ソフトの自主開発、戦後の産官学共 同による技術開発・標準化などインフラも同時進行で 発展してきたことも重要な要素である。さらにドイツ という当時としては雲の上の存在に対する目標と挑戦

意識、千代田、オリンパス、ニコンを中心とした国内 ライバルメーカーの存在と、それにともなう開発競争 も国産顕微鏡の発展には欠かせないものであった。併 せてわが国における医療・バイオを含む科学技術研究 や各種産業の先進性が、厳しいユーザー要求となっ て顕微鏡の研究開発者にフィードバックされ、製品を さらにブラッシュアップする推進力となったことも見 逃せない。またわが国の光学顕微鏡の歴史を振り返る と、新しい観察法にしろ、無限遠補正光学系の採用に しろ、いずれも欧米、特にドイツにおける発明や技術 革新に追随したものであった。先行するドイツ製品に 対し、機能・性能をアップしたコストパフォーマンス の良い製品を、いかに早く開発・発売するか、という キャッチアップの歴史であったとも言える。しかし、

その中で開発者・技術者・製造者が互いに創意工夫を 凝らし、良い製品にするために徹底的にこだわってき たことが、わが国の強みであり世界トップレベルに至 る原動力であったと考える。そのような営々とした努 力の中から、ニコンの CF 光学系やオリンパスの全自 動万能顕微鏡のように、世界に先駆けた製品・技術を 得ることができた。ようやくドイツと横一線に並んだ のであり、今後まさに日本オリジナルの重要な技術・

製品の出現が期待できる状況となったが、それがなる かならないかは、技術開発にどれだけの投資をするか にかかっている。将来を見据えた経営トップの度量に 大きく依存することになる。

顕微鏡は何度も述べたように、ミクロの世界を解 明する重要な道具である。そうしたものを自ら製品化 し、世の中に貢献するという理想を現実化したいとい う開発者の願い、古い言葉で言うならば「ロマン」も モチベーションの源泉であったと思える。筆者が入社 し顕微鏡光学設計を担当することになったとき、一冊 の本「硝子の驚異」に出会った。ツァイスとアッベ、

ショットの顕微鏡開発成功物語で、太平洋戦争中の翻 訳出版であった。この中で、アッベの物理学者として の才能と顕微鏡の理論・設計の確立に向けた苦闘、若 手研究者を率い指導する統率力、ツァイスの死後経営 者としてツァイス財団を創設して 8 時間労働制や有給 休暇・年金制度、門閥・思想信条の自由など当時とし ては画期的な社会保障制度の制定にみる経営力、など に深く感銘を受け、アッベのような開発者を志す、と 決意したことを覚えている。当時の上司・先輩たちを 含め、そうした先人たちの英知、情熱、執念で発展し てきた顕微鏡開発を引き継ぎ、世界トップ性能の製品 を開発して科学・産業の進歩に貢献することは、ま さに「ロマン」であり、自己実現であった。LB、 IC、

関連したドキュメント