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26  左

ドキュメント内 真宗研究11号全 (ページ 126-163)

3机

@担 左

8部

@お 左

2相

九 観

即ち︑三十五箇所に互り︑増補せる文字︑

d也、

﹁八十ご︑字句訂正改刻及びそれより生ずる改刻は︑

﹁四

百六

十五

一一

八 太

机 都 想

字に及んでゐる︒又︑誤刻︑破損等による次の如き七箇所︑八字の改刻がある︒

巻 数 丁 数

, . ‑

{T 

浄 5  右

浄三

末一

8右

8左

10  左

塗 浄 巻 示 五 数

 

{T 

本 文 丁 数 本 文

ff 

26 

力 8 

四 後 必

2右

2右

今︑此の改刻部を坂東真本と比較するに︑三十五個所の中︑二十六個所は明に誤字脱文の訂正である︒

即 7  7 

併し︑①︑@︑⑮︑⑮の刷︑@︑@︑@の如く︑改刻の為に反って異文になったものもあり︑@︑@︑@︑の如く両

本共に真本と一致しないものもある︒

本文に於ける補刻改刻は以上の如くであるが︑訓点及び振仮名︑側註並びに圏発の補刻改刻は驚く程多い︒紙数の

関係で今はその数のみを挙げるに止めるが︑次の如くである︒

.

9 . .   J 

-~-

? . Q .   7 . .  

.?.~巻 行

U~ . . .   ?.~   . . .

.堅~--·· 信 巻

-~ -~-

. 9 . 序

信 巻

~7..9. J . 9 . 1 .  

-~~~-本 信 巻

~~? }~. ~i.~. 末

~?.~. ~~.9.

J.Q~ 巻 真

§}~

-

~?.7.. ~~§. 巻

化 巻

?.?.~ ~.1. ~-~~本

化 巻

~~~~}.~~~ 品?.~末

l

訓点

側註

等補

改刻

数︒

F

O 

δ

nh v 

Ei

nL  

9

EA

6

AU  

q u 白 色

 

以上の如きω

∞ g

個所の改補刻なる結果を得たのであるが︑小生は余りにも多き補改刻数には一驚した︒よくもか

く多くの改刻を為したものである︒その努力には敬伏の他はない︒ ︵ 註 2 圏

発改

補刻

数︒

本文の補改刻は脱文誤字の訂正によるものが多いが︑訓点振仮名側註の補改刻は︑勿論誤りの訂正と見られるもの

も多いが︑開版方針の変化︑底本の変化なる事も︑河村版と福森版の比較に於て見出し得る︒即ち︑寛文版の原刻版

ハ河村版︶は側註振仮名の比較的少い本であるが︑補刻版である福森版に於ては非常に多い本となって居り︑特に信

巻以後に於てその数を増してゐる︒福森版に見へる振仮名側註は原刻版には無いものが多いのであるが︑この事は補

刻の場合に原刻版と異れる底本を用いた事を考へしめられる︒

寛永版と正保版は︑原刻版と補刻版であるが︑一応区別して考へる︒寛文九年版と十三年版も同様なる関係である

のに区別しないのは不合理である︒勿論︑これは今まで未知であった事に原因するのであらうが︑本文の補改刻は寛

永正保二本の関係より少いが︑三千九百筒所に近い改補刻の加へられてゐる版を同一版と見る事は許されない︒書誌

学的には勿論であるが︑底本の問題︑文︑教理の上からも再吟味しなければならぬのは当然であろう︒

然らば︑何故にかLる誤が犯されたのであらうか︒勿論︑これは龍大蔵の寛文九年版が天下の孤本なる事に拠るも

のであるが︑さすれば︑何故に龍大本が天下の孤本なるかが問題になるであろう︒結論的なものは出ないが︑龍大本

が見本献本であるが為ではなかろうか︒龍大本は旧写字台蔵本であるが︑一臆説が許されるとするならば︑寛文九年

教行信証開版に関する二三の問題に就いて

教行

信証

開版

に関

する

こ三

の問

題に

就い

に河村利兵衛により新開版された教行信証は見本摺として西本願寺に献本されたが︑相当に脱文誤ん子生寸が多い為市販

を中止し︑脱文誤字を訂正し︑徹底的に訓点側註等を改刻し︑如何なる理由か不明であるが︑福森兵左衛門に移版の

上︑

寛文

十三

年に

﹁改点教行信証﹂として新たに市販されたものであろうと思ふ︒この一為に写字台文庫に残った献

本が唯一の本となったものと考へたいのである︒

此処に残念なのは︑最も使用された版の原刻者なる河村利兵衛とは如何なる書林であるか全々子掛りがなく︑何も

知り得ない事である︒現在の所︑寛文九年版の教行信証以外にその開版書も知り得ない︒或は寛文九年版の教行信一正

が開版されたのみで︑市販された様子もなきまま︑その版が福森兵左衛門に移版してゐる処を見れば︑この教行信一品

開版の失敗の為︑倒産した気の毒な書林ではなからうかとさへ考へられる︒

とあれ︑不注意にも放任されてゐた寛文九年版と寛文十三年版の関係が明になった以上︑この二本聞の種々なる面

に於ける調査を徹底的に行ふ事は︑我等後学に課せられた問題であらう︒

訓点︑側註︑振仮名等の改刻による教理上の問題との関係は︑小生も未だ調査を終ってゐないが︑改ノ刻部の内容よ

り見ても︑寛文版に就いては新しく考へ直さなければならないものが多く存在する様に見うけられる︒

されば︑この寛文九年版と十三年版は同版とすべきではなく︑異版として区別すべきであり︑寛文版は普通福森版

と呼ばれてゐるが︑九年版は河村版なる名の下に区別し︑河村利兵衛の努力と功積を賞すべきであると思ふ︒

−文

政十

年版

は︑

明に

この

版と

思は

れる

本未

だ眼

福を

得な

いが

︑諸

賢の

御教

示を

得た

い︒

2︑

訓点

︑振

仮名

︑側

註︑

圏発

︑補

改刻

数は

数へ

方に

より

︑少

しく

数に

差は

出る

が︑

上婦

の数

と大

差は

出な

い︒

尚︑龍大本以外に河村版が存在するかも知れぬが︑御教示を御願ひする︒

浄土教における信の性格

fh

峻 麿

︵龍谷大学︶

仏教において信じると言うことは極めて重要な意味をもっている︒﹁華戚経﹂に﹁信は道の元功徳の母と為す﹂と説

c

﹁大

智度

品﹂

に﹁仏法の大海には信をもって能入と為し智をもって能度と為す﹂と明かしていることはすでに周

知の如くである︒仏教においては信はその初円であると共にそれはまた仏道の全体を覆うものである︒仏教救理の展

閣の跡を見る時︑何れの教学においても信はつねに主要な徳目として取り上げられているのである︒浄土教において

もまた信はその教義の中心向通として極めて重視されてきたとこるである︒即ち龍樹の浄土教における信方便易行の

道︑位親の浄土教における起観生信の道︑日雲鴬における信仏悶縁便得往生の近︑善導における観経三心中の深心への

注意︑また法然における信疑決判などに見られる如くである︒そして親驚においては更にそれらの伝統を継承して︑

仏道の体系をこの信の一点に集約し成仏の道をばひとえに唯信の近として領解したわけである︒

しかしながらこの親驚に至る浄土教思想の展開において次第に明らかにされてきた信の理解について筑う時︑そこ

には

同じ

く信

と一

一一

口わ

れな

がら

も︑

一般の聖道教における信とはその性格を異にしている面が見られるのである︒今は

浄土教における信の性格

浄土教における信の性格

その点に注目して浄土教における信の性格についていささかの考察を試みたいと思う︒

︑ 仏 教 に お け る 信 の 基 本 的 な 意 味

仏教における信の意味は多様である︒原語的にも信と漢訳された語は

b E E

E

︵ 信 ︶

E

S C

R

︵信

解︶

σ

M U E q

ω u B

︵深信解﹀阿国自包釦︵浄信︶などがあり︑それら各々の意味内容もさまざまである︒しかし今仏教における

信の基本的意味を要約するならば﹃唯識三十頒安慧釈﹂や﹃成唯識論﹂などによると︑信とは信認︵与

ES

H u s q s

ミ白

﹀と

心の

澄浄

︵色

S

E U E S

E

﹀と願楽︵与

E

副首

︶の

一一

一種

の性

格を

もっ

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るの

であ

って

︑し

かも

この

一一

一種

の性

格の中︑信認とは信の成立の因拠前提となるものであり︑願楽とは信の果相としての意味をもつものであると明かさ

れている︒ことにこの願楽とは信がその性格として必然的にもっているところの解脱浬繋を期待し︑それに向う能動

性を表わしたものであるところからすれば︑帰するところ仏教における信とは︑三宝︑四諦などに対する信認と︑そ

れを因拠として成立するところの心の澄浄を意味するものであると言いうるのである︒そしてまたこの信認が心の澄

浄に対する因拠の意味をもつものであるところ︑仏教におけるまさしき信とは︑かかる能所の相における対象的な信

認に止まるものではなくて︑このような信認決定を因拠とし︑それが更に深められてゆくことにおいて成立するとこ

ろの心の澄浄のことを言うのであって︑ここに仏教における信の基本的な性格があるわけである︒

かくして仏教における信の性格とは心の澄浄守宮山・官同印刷骨﹀であると言いうるのであるが︑﹂の心の澄浄とは思

慮分別を越え煩悩雑染を離れた心境を意味するものであって︑それは龍樹が﹃十住昆婆沙論﹂の易行品に﹁信心清浄

なれば華開けて則ち仏を見る﹂と一不す如く︑煩悩我執が打ち破られて心行寂滅なる空解脱に至り︑見仏の境地が展け

てくることであって︑それは即ち真実なる智慧

QE

︺罰︶の獲得されてゆく状態を意味するのである︒

﹁大

智度

論﹂

ドキュメント内 真宗研究11号全 (ページ 126-163)

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