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夜9時・イギリス側に捕虜となっていたオランダ聴力騨されてキ陸し牟9このrl、.

   上記のほかに鶏10羽・梨100とある。

8月17日.(西暦1.0月6日).. . ・.1

   早朝,前日イ.ギワス側要求の通り,水5艘・薪2艘・いも2篭(200斤)・梨30・タバ    コ若干を船に運んだ。

1.1時4.5分,フェートン号は抜錨し,北寄り.の北東からの強軟風に乗って丁丁を揚げ,.12時に   .帆走し始めた。復路は次図のように日脚であった。..

     第8図

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フェートン号航海図(復航)

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第3節 焼払い通告文書の真手及び事件後

 文化5年8月15日(1808.10.4)フェートン号長崎侵入の騒ぎを,通航一覧は次のよう に記している。

 「このとき二丁にわかに大風号呼の声,唐船,船ごとに煙を揚げ,唐館へ合図の大鉦を打 ち,フウフラを吹き立て,唐館にても同じく合図の大鉦を打ち,援兵数回こぎ出し,異国船 より火をかけ候とも心得て,上陸の者ども一同営々へ集まり,市中はヲロシや乱入と心得て 山野へ立退き申すべしと,男女道路に三吟,海陸とも一時に騒ぎ立て,人音大平の動揺する

      が如し」 と。

       ユむ ラ

 また,焼払うとした文書について,次の通りに記録されている。

 文化5年8,月16日,エゲレス船主より差出し候横文字の和解。

 昨日,旗合せとして参り候オランダ人ホーゼマン並びにシキンムル両人を,本船へ無 体に連れ越し候わけは,沖中食物払底に及び候につき,今日右の食物お願いのため,右 様計らい申し候。これにより,ホーゼマン1人,まず上陸致させ候間,何卒,

早々に本船へ食物お差送り下さるべく候。さ候はば,今1人残り居り候シキソムルも,

食物相届き候上にて弓返し,直ちに出帆仕るべきや,もし今日中に食物類お差送りこれ なきに於ては,明朝に至り,日本船並びに唐船までも焼払い申すべく候。、

         エゲレス船主 右の通り,和解仕り,差上げ申し候   辰8月16日  阿蘭陀年番通詞

以上

 同じく通航一覧に,「文化5年8,月20日,長崎出某書状」として,

「内実は,湊内にこれあり候唐船・日本船をはじめ市中までも,火術を以て焼払致すべき由 申出で候えども, この儀は穏密にて触れ申さざるようとのこ趣意の段,通詞内談にござ

 ユ ラ      むの

候」とか,「湊内焼払い申すべしと申し越し,不坪の至りにつき,早々焼打致すべし云々」

とあって,後尾の焼打ちは日本側からイギリス船を焼打ちしょうとのことであり,これは,

「16日夜は,北風烈しくござ候につき,焼打十分のご都合と申すことにて,………夜半過に 相成り候て,右取沙汰も相止み云々」ともある。

 ところで,「切腹」なる小説がある。この事件により,フェートソ号出帆の夜,長崎西役 所で自尽した奉行松平図書頭のことを書いた白石一郎氏の作品であって,それによれば,

「ホゼマソは………フェートソ号艦長のやや長文の書状を持参していた。………オランダ人 たちは一室にこもってフェートソ号艦長の手紙の翻訳にかかった。通詞たちも同席している。

オランダ人のなかで何とか英文を解せるのはドゥフと医者のフェイルケのみで,フェイルケ のほうの耳はともかく,文章にはあやしく,翻訳するのはもっぱらドゥフの役目であった。

   ・できあがったオランダ語訳を通詞らが受取り,こちらはさっそく和訳にかかる。……

・さ候えば,今1人残し置き候スヒンメルを差返し,ただちに出帆仕るべく候。フェートン 号艦長ペリュー大佐の英文はじつはこれで終っていた。しかしドゥフは終らせなかった。次 の文章をつけ加えたのである。

一もし今日中にお差越しこれ無きに於ては,明朝までに日本船・唐船など焼払い申すべく

候。

 そして,以下にペリューが要求する野菜・水などの品々をこれは英文の追記どおりに翻訳 した。ドゥフの故意の誤記に気がついたのはフェイルケ1人である。他のオランダ人には読

      ロらう

めなかった」とある。

 つまり,港内の船を焼払うという文書はなく,ドゥフが捏造したというのである。これが 正しいのならば,氏の燗眼さすが,というべきであり,正しくないものであっても小説のこ とであるからと許容される範疇に入るかもしれない。ところが同氏は,昭和63年8月の長崎 県教育委員会主催「長崎学県民講座」の講師として,「長崎と海」の題で講演し,フェート ソ号事件に関して,小説と同じく,「焼打ちするというフェートソ号艦長の脅し文句は,僕       ユ はドゥフが捏造したんじゃないかと疑います」と説明し,フェートン号の乗組員であったス トックデールという大尉の日記を論拠とする。即ち,「金品を上げようとしたけれども日本 人はどうしても取ってくれなかったと。何と気前のいい国民だろうか。それとも我々が,も

し我々の要求に応じなければ,何か我々から乱暴されるという憶測をしたんではなかろうか,

それがわからない,と書いてある」という。

 たしかに,「フェートソ号航海日誌」にはC.B. Stockdale Lieut:R. N.(海軍大尉,シー,

ピー,ストックデール)の名で,Remarks during our stay at Nagasaki:(Japan),(長崎〔日 本〕滞在中の見聞)としてそのように書いてある。

 船長からの焼払い云々の激しい手紙文と,ストッデールの如何にものどかな港内描写とは 根本的に違う印象を与える。しかし,「……或は要求に応じなければ苦しめられるという想 像の下になされたのか,臆断できない」とあり,そしてその次に,「然しながら本艦の出港        アラを極度に念願しているように見えた」とも書いてある。

 白石氏の言う通りであるならば,通航一覧の,「嘉永6年,外交問題頻興の時に当り,林 大学頭が職外交折衝の任にあるを以て,幕府の命により,……記:載詳略ありと難とも網羅す

る所の史徴文献は悉く精核にして,一も褒既の私見を加えず,……諄正に公供したる一大完

    ラ

編なり」という歴史をくつがえす卓見という事になる。

 果たしてそうであろうか。

 商務日記であるところのr長崎オランダ商館日記(三)』1808年10月4『日のヘンドリック

・ドゥフの日記には,「あとでその船はイギリスのフリゲート船フェートソ号であることが わかった。これについての出来ごとは非常に詳細かつ明白に,今日とそれ以後の日付で,私       うの秘密日記に書いてある」とあって,その秘密日記によれば,

 「彼ホーゼマンは私に,彼が2通の短い手紙を持参したと言って,.その2通とも彼は私に 手渡した。そのうちの1通は次のような内容である」として前節後段の焼払う云々である。

そして,その次に,「第2の手紙は〔英語で〕次のような内容である」として,ペリュー船 長名でのホーゼマソとスヒソメルは,そのうち1人は今や上陸しようとしているが,私の命 令で,その目的のために武装された私のボートで捕えられ,そして10月4日の5時以来を拘 留されているといった簡単な手紙(注111参照)である。そのあと,

 「ホーゼマンは私に,1通はオランダ語で書かれ,もう1通は英語で書かれた2通の短い 手紙を手渡したが,それら両通の手紙を私は奉行の前に置く,と。そして大通詞(名村)多 吉郎はそのオランダ語で書かれた短い手紙を翻訳し終って,日本の小船と中国ジャンク船を        く ゆ 焼き払うとあるのを聞くと,〔奉行〕閣下は立腹して立ち上り,部屋から出ていった」とあ

垂雪器論幾斎主

る。

       エの

 即ち、焼き払う云々の手紙はオランダ語で書かれたもの(下記)であって,そして日本人 の通詞が奉行の目の前で翻訳して差出したものであった。

 そして,ドゥフの秘密日記は,ストックデールの記録とは異り,フェートソ号に連れ去ら れたホーゼマンの報告として,「2人の兵士は彼らの抜き身のサーベルをかざし,船長の命 令で,各々の胸の上にそれを突きつけ,そしてそのままの状態で船長は,オランダ船はどこ に碇泊しているかと尋ねた」とあり,スヒソメルの報告として「もしも本日昼に食料品が早 く来るように配慮するため上陸したホーゼマン自身が戻って来なかった場合は,彼船長はス ヒソメルの首を切ると言った,なおも脅かした」とあり,但しそれに続いて,「脅かしたこ        のとを除いては,彼らを丁寧にそしてよく取扱った」とも書いてある。

 そしてフェートソ号長崎侵入の目的は,「イギリス船長は,オランダ船を掌捕するために来 たのだと言いました」とあるが,ドゥフはフェートソ号出港後の10月30日に長崎奉行曲渕甲       斐守あてに文書で「もし彼が本当に               オランダの船舶を掌卜するためにの        :多ノ蹴

         助切・碑    蝋覗  〃・   み来航したとすれば,彼はそのボー

鴇熊/伽::色論難誓で港内を一周して当地にはオラ

1808年10月5日のべリューの短い手紙

(ハーグ・オランダ国立中央文書館所蔵)

ソダ船がないと分ったら,すぐさま 戻って沖に出ている筈であります。

 ・どうしてイギリス船長のいう,

日本人に恥をかかせるためではな く,オランダの船を求めて来たのだ という言葉と一致するでしょうか」

と述べている。

 づまり,フェートソ号船長は明確 な領海侵犯・不法侵入の意思を以て

ドキュメント内 フェートン号事件と19世紀初頭の海運情勢 (ページ 34-40)

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