ナポレオン戦争は世界を変えたというべきであろうか,あるいは世界の変り目にナポレオ ンが出現したというべきであろうか。
1805年10月,トラファルガー海戦に勝利したイギリスが,ブルターニュ半島のブレストか らハンブルグのエルベ河口に至る全海岸封鎖を行なって,フランスとその植民地との交通を 遮断すると,対抗してナポレオンは1806年11月,大陸封鎖令を出してイギリスへの経済封鎖
を行なった。海上覇権をイギリスに奪われたフランス・スペインはじめヨーロッパ大陸の諸 国とラテンアメリカ植民地との連絡が絶たれたのである。
これより先,1776年に独立宣言したアメリカは,1651年イギリス航海条例の適用を受けて 英領西インド諸島と貿易が出来なくなり,西インド諸島は北米からの食糧が途絶えて大量の 餓死者を出したことは前に述べたが,大陸封鎖によってラテンアメリカ各植民地が困惑した
ことも事実であり,それによって自立化が促進されたのもまた事実である。
イギリスから独立したアメリカがそうであったように,中南米のラテン系植民地における 植民地生まれの白人は,主として地主階級であったが,本国系官僚の支配に対立し,独立の 気運が高くなってくる。ラテン系植民地における白人とインディアンの混血種メスティーソ もまた解放を望むものが多く,それに現地原住民・黒人も差別からの解放を求め,現地白人 の側に立って,独立運動が盛り上ってくる。
大陸封鎖令からは数年前になるが,コロンブス第1次航海に発見され1697年のルグウィク 条約でフランス領となり,ハイチと改名されていたエスパニョラ島西半分は,黒人奴隷が反 乱をおこして独立運動を開始し,ナポレオン軍と戦い,これを撃退して1804年に独立を宣言 した。イタリア人アメリゴによって「小さなベニス」と名づけられたベネズエラは,1811年 に独立宣言し,翌年失敗するが1819年に大コロンビア共和国と合邦し,1830年に分離独立す る。パラグァイも1811年にパラグァイ川流域地方を中心に独立した。教皇アレクサンデル6
世の例のトルデシラス条約によってポルトガル植民地と確定していたブラジルにも独立運動 がおこる。1807年,ナポレオン軍の侵攻を避けてポルトガルがこの地に臨時政府を移したが,
1815年にポルトガルに対する独立運動がおこり,一度は失敗するが,1822年に独立宣言し,
一時的な帝政ののち共和国となる。アルゼンチンも1810年にスペイン本国の搾取に反対して ラプラタ(銀の川)植民地で独立運動がおこり,1816年にスペ・イソから独立宣言して,「銀 の」のスペイン語アルヘソチナ(アルゼンチンは英語読み)と改め,のちに共和国となる。
スペイン領であったチリも1818年に独立して共和国となる。ヌエバ・グラタナという地名の 植民地コロンビアも1818年に革命家シモン・ボリバルの援助でスペインに対立し独立宣言
し,コロンブスの国という国名に改め,後に共和国となる。旧インカ帝国滅亡後,ノバ・カ ステラといわれていたペルーは1821年に独立宣言し,1824年にスペイン軍を撃退して共和国 となる。ノバ・イスパニア植民地も1811年頃から独立運動が始まり,1815年に一度失敗する が,1821年にスペインに対し独立宣言してメキシコとなり,一時帝政ののち共和国となる。
ボリビアは1825年,革命家ボリバルによってスペインから独立して共和国となり,ボリバル の名を国名にとり入れた。その独立後,ボリバルは名誉大統領になった。なお,ボリバルは 1824年,パン・アメリカPan Americanismを提唱し,1826年開催のパナマ会議で中南米諸 国の団結と協力を,特にヨーロッパ干渉に対抗して汎米主義を訴えた。ペルーとコロンビア の間のスペイン植民地も1811年に独立宣言し,1830年に独立して,「赤道」を意味するエク アドル共和国となった。ウルグアイ川東岸のスペイン植民地も1828年に独立し,ウルグアイ 東方共和国となった。
なお,ラテンアメリカ植民地が次々と独立をかち取って行くうち,1823年にアメリカ合衆 国第5代大統領モンローは,神聖同盟によるラテンアメリカ諸国の独立への干渉とロシアの 太平洋岸への南下政策に反対し,ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張 するモンロー宣言を発表した。即ち,1815年のナポレオン敗退後,フランス革命前の状態へ ま
の復帰と維持を策したウィーン体制諸国のラテンアメリカ独立への干渉を排除しようとした ものである。
1492年に始まった大航海時代からの西欧列強のアメリカ大陸植民地は,1775年以後のアメ リカ独立戦争という白人間の独立戦争と,その後のナポレオン戦争,就中,イギリスの西欧 西北沿岸封鎖・フランスの大陸封鎖を契機として独立運動が高まり,特にナポレオン戦争中,
1805年10月のトラファルガー海戦でイギリス艦隊完勝・フランス・スペイン連合艦隊壊滅と いう海上勢力バランス失調は,大部分のラテンアメリカ植民地を一気に独立に向わしめたの であった。そして1783年のパリ条約による独立後のアメリカ海運もまた嘗ての宗主国・でギリ スの圧迫に堪えながら,急速な発展をみせるのである。
アメリカ独立達成の翌1784年2月22日,独立戦争当初の軍資金調達に奔走して,ワシント シ ナ
ソの危機を救ったロバート・モーリスはワシントンの誕生日をトして極東貿易の船エムプレ ス・オブ・チャイナ号(360トソ)を広東向けに就航せしめた。同船の積荷は野生人蓼440ポ
ンドが主であったといわれるが,ニューヨーク発・アフリカのケープベルデ島寄港・喜望峰 迂回して8月23日マカオ沖に達し,無事広東貿易は成功して翌1785年5月11日ニューヨーク ユ に帰着した。二.ユーヨーク商人出資等による第2船・第3船も成功した。ところがアメリカ 合衆国憲法が制定された1787年,ニューヨークから南米マゼラン海峡を経由して北部太平洋 岸に至り,ついで太平洋を横断して広東に至る航路が計画された。そのコロンビア号(213
トソ)とレディ・ワシントン号(90トソ)は1788年秋バンクーバー島西岸に達し,毛皮を収集 して,先ずコロンビア号が翌1789年7月頃当地を発し,順調に広東で売捌き,陶器・茶・織物 を積んで1790年4月,喜望峰経由ボストンに帰着し,アメリカ船最初の世界一周航海を達成
した。一方レディ・ワシントン号は広東に1年2ヶ月滞留し,再び太平洋を横断してバンクー バーに戻った。またアメリカ合衆国の私掠船長であったジョゼフ・ピーボディは1791年に海 運業を始め,やがて83隻・7,000人の船員を抱えてカルカッタ・広東・ペテルブルグなど世 ラ
界各地と交易を行なう。ナポレオン戦争中,アメリカ13州で500隻以上の私掠船があったと いわれるが,そのうち158隻はマサチューセヅッ州セイレム港から出ており,所謂「セイレ ム貿易」の最盛期であったといわれ,ボストン附近の漁師たちによる太平洋捕鯨も1791年か
ま
ら始まった。最初の合衆国銀行が議会から許可を受けて営業を始めたのもこの年である。
このようにして太平洋横断シナ航路は盛んになり,1789年広東に入港した外国船64隻中,
まヨリ
アメリカ船は実に18隻に上った。この1789年フランス革命勃発の年,アメリカは主として極 東貿易の回船優遇を策した差別的関税法と差別的トソ税法灯台税という海運保護立法を行な
第5表アメリカ船戴貨比率 輸 出 輸 入 1789年
P811年
30%
W0%
17%
X0%
つた。例えばアメリカ船がシナ及びインドから直接輸入 した茶1ポンド当り関税6セントないし20セントに対 し,外国船による輸入には15セントないし45セントとす るなど,極東からの輸入貨物にアメリカ船の使用を強要 するような差別関税としたもので,これにより次のよう ユ な実績をあげるに至った。
1789年フランス革命以後,イギリスはオーストリア・プロシア・ロシア・スペイン・ポル トガルなどと第1次対仏大同盟(1793〜97),第2次対仏大同盟,(1799〜1802),第3次対仏 大同盟(1805年8月)など,同盟を以てフランスに対抗したが,アメリカはこれに対して局 外中立を守った。アメリカ商船は穀物・肉類・棉花・羊毛・皮革等をヨーロッパに輸出し,
オランダ商船が東アジア・ヨーロッパ間に動けなくなったことから,東アジアからの物資も アメリカを中継してヨーロッパに輸出された。ところが,1793年5月,フランスは敵国に向 う中立国船舶又は敵国商品を積載した船舶の掌捕を声明し,イギリスも対抗してその翌6月 から,トウモロコシ・麦粉・肉類を積載してフランスに向う船舶の捕獲令を発し,同11月に はフランス領植民地の産物又はフランス領植民地へ資材を運ぶ船舶の掌捕を命令した。
これらは,ナポレオン戦争への局外中立を宣し,アメリカ船により輸送面での漁夫の利を 占めていたアメリカ船を双方から排除することを目的としたもので,アメリカ商船は極めて