気象エッセイスト 倉嶋 厚 私のうつ病は、1997年に妻をがんで亡くしたことが契機であり、大変ショックを受けて うつ病になりました。私は73歳、妻は68歳でした。この場にも経験者が大勢いらっしゃる と思いますが、私のうつ病の経過は何事にも興味をなくし、新聞も読みたくない、テレビ も見ない、体重も64kgから47kgへ減りました。風呂から上がって鏡を見ると、まるで骸骨 みたい、アウシュビッツの囚人の方みたいで大変惨めでした。痩せるにしたがい食事がお いしくない、肉を食べても、お魚を食べても消しゴムの味しかしない。味がなくなってし まいました。食事を楽しめなくなることは深刻でした。また字が書けなくなる、脱力感で 力が入らない、靴下がはけない、冬は厚手の下着がはけない。また時々オール・オア・ナ ッシング、「全てをきれいにしてしまいたい」と思うようになるんです。「あれも捨ててし まえ、これも捨ててしまえ」です。つまり「清算主義」です。その極端が自分自身を清算 したくなる。物事の判断がつかなくなります。「エーイ面倒だから離婚してしまえ」、「退職 してしまえ」、最後に「エーイ面倒だから死んでしまえ」となります。死んでしまったら
「これで苦しみはなくなる」んだと。私も生き甲斐がなく、死のうと思いました。当時マン ションに住んでいましたが、お手伝いさんがいうには、たびたび窓を開けて外ばかり見て いたそうです。気象台長だったので空を見上げていると思ったそうですが、私は死のうと 思って窓から下を見ていました。飛び降りれば死ねるかなと思いました。7階からでは落ち ても死ねないということをその後知りました。私は9階に住んでいましたが2階には張り出 しがありますので、この階からでは死ねないと思い14階の屋上へ行くようになりました。
1997年の12月に2週間ぐらい通いました。やはり死ぬのが怖い。でも怖いけど死なねば、死 んだ方が良い、そのような迷いがありました。それを見たお手伝いさんが、これは危ない と思い、部屋中の紐をすべて隠してしまったそうです。最後に精神神経科へ連れて行かれ、
4ヶ月以上入院しました。普通、うつ病の入院は3〜4週間と本に書かれていますが、私の場 合は4ヶ月以上でした。退院してからだんだん良くなり、今日に至っています。その治療の 一端をお話したいと思います。
うつ病についていろいろ勉強しました。ストレスには強さの違いがあるそうです。配偶 者の死を100としますと、離婚が73、怪我・病気が53、失職が47でお金のトラブルが30であ り、配偶者との別れがもっとも強いストレスであると本に書かれていました。この数値は ストレスでうつ病になってから治るまでの期間の長さの相対比だそうです。強いストレス を受けると脳に変化があり、不都合が起こってうつ病になるとされていますが、うつ病に なりやすい人がいるようです。几帳面、真面目、律儀、熱心、勤勉、責任感が強い、周囲 に気を使う。どうも良い人がうつ病になりやすいということですね。もっとも、うつ病に ならないから悪い人とはいえません。ただこれは誉め言葉です。別の見方があります。私
70
は100点満点とりたいという気持ちがありました。観念的な理想主義です。また社会とは、
「こういうものだ」という固定的で誤った認識や被害妄想など過度の思い込みがありました。
もう一つ、私だけかもしれませんが幼弱性、子どもっぽいというか気が小さい。甘やかさ れて育っています。かくあらねばならぬという理想主義と、かくある自分、そこに格差が あります。その自分に欠けた部分を自分の弱点として強く意識していました。その弱点は 誰にもあるのに自分だけの弱点と思い、それにかこつけて逃げ出すことがよくありました。
逃げ出して、そして敗北感を味わい、それがトラウマとなり、いってみれば負け犬となる 性格があったと思います。若い時がそういう性格であったために、私は自分の弱点を全部 解決してから物事を進めるのではなく、それらを「あるがまま」に受容して、真面目にコ ツコツと人生を渡ってきたと思います。それはそれなりの良い処置の仕方と私は思います が、うつ病の時はそうはいかなかった。
うつ病になった時に私は、男らしくうつ病と闘ってみようと思いました。そのころ朝日 新聞と読売新聞に週1回のコラムを書いていました。更に他の原稿依頼もありましたが、全 てやってのけていました。そして、「うつ病に勝つぞ」と闘った。でも、「できないんです よ」。そのうちだんだんと書けなくなり、最後に残ったのが読売新聞の週1回のコラムでし た。それに朝日新聞で、これも週1回でした。今私が思うに、その段階にいくまでに、「う つでドンドン落ち込んでいく時に、ヨーシ俺はうつと闘うと思い、またそれが男の生き方 と思っていました」し、実際闘ったような気がします。しかし12月頃でしょうか、読売新 聞に原稿を送りました。その原稿を読んだ人が「これはすごく面白い原稿」だといってく れました。そして隣の人にその原稿をみせたそうですが、「これは1年前の原稿と同じだよ」
といわれた、と電話がかかってきました。まず読売新聞で敗北感を味わいました。一部書 き直せば良いとのことでしたが、コラムを止める決心をしました。1年前に書いたことを忘 れてしまうくらい、「くたくたになっていた」んですね。しかし朝日新聞のコラムは止めら れず続けましたが、入院した時に止めました。
昔、朝日新聞の「天声人語」を担当された有名な名文家がいますが、その方も奥さんを 亡くされていましたが、私がうつ病で入院した時に見舞いに来てくれました。そして、「自 分は、妻が死んだ時3ヶ月間は何もしなかった。ともかく休んだ。それが良かった。」とい われました。妻が亡くなった時、朝日新聞の社会部長から手紙が来まして、「どうぞ直ぐに 筆を折ってください、またお願いしますから」という丁重な内容でした。その時、私は
「お前はもう書けないから、止めなさい」といわれたと思いました。しかし多分、周りの方 たちが休ませた方が良いと、経験則的かもしれませんがいってくれたのだと思います。私 はそれに従えずに頑張った。だから今、うつ病になった時は「まず休養」だと思います。
うつ病になった時には「お任せにする」、すべてをお任せにする。それが必要です。私の場 合は、家事ができません。これも私の反省点なのですが、妻が全部やってくれました。自 分の世代では、男は外、女は内が普通でした。ATMも操作できない、ガスを点けるにも妻
を呼ぶ、なにもかも依存していました。しかし考えてみると、夫婦とはそのようにお互い が協力し合うと成果が上がります。私が2、妻が2ですと、2+2は4、2×2は4で足し算でも掛 け算でもいずれも4です。しかしそれ以上の数字ですと、7+7は14だが7×7なら49と遥かに 掛け算が良い。しかし片方が0だと、掛け算は0になります。ですから夫婦とはお互いが 自立している「足し算の部分」と、それとは別の「掛け算の部分」がないと、残された時、
あるいは別れた時に非常に困ると思います。今日ここに若い方がいらしたら、自立した部 分と掛け算の部分と2つの部分を上手につくっていただければと思います。ともかく休んだ 方が良い。休める体制を取れれば、それが一番良いことです。幸い私の場合は、良いお手 伝いさんがいました。私には子供がいませんので。それから税申告など、全面的に人に頼 みました。頼むことによってそういう心配がなくなると休むことができるようになります。
ただそれでも家にいる間は駄目でした、死にたくなりました。うつ病になる前は、たとえ ば、NHKから放送文化賞をもらうなど良い線をいっていました。それが急速に悪くなって きました。客観的にみてもどんどん落ちていきます。私に会いに来た新聞記者が、「倉嶋さ んは駄目になった」といったそうです。最後に入院した時にドターンと落ちました。私の 感じでは、これが最低のレベルだと思いました。私が入院したのは閉鎖病棟ですので、お 見舞い客も入れません。閉鎖病棟は二重扉になっており出られません。面会時は、面会者 は中に入れず、私が外出届を出して、二重扉から出て、面会者と話します。終わると今度 は帰館届けを出して、また二重扉を通って帰る、大変管理された状態になります。前に申 し述べましたように私はうつ病と闘ってしまいました。しかし、うつ病との闘いとはこの ような闘い方ではいけないんですね。その結果、全部駄目になり、これ以上落ち込みよう がない時に入院したのが先ほどいった閉鎖病棟でした。ここでは総てお任せです。それが 良かったと思います。私には良いお手伝いさんがいたので、なんでも頼めた、依存できた、
お任せができた。先ほどいいましたように、入院したのは閉鎖病棟であり、その時に今が 最低だと思いました。「自殺を思う時は入院が一番」です。私もこういう性格ですから、ま たうつ病になる可能性があります。その時は這ってでも精神病院へ入院しようと思います。
薬もなんとなく怖くて飲まないことがありましたが、入院ですと看護婦さんが管理して飲 ませてくれます。起こしてでも飲ませます。睡眠薬も起こして飲ませる。睡眠薬を起こし て飲ませるなんておかしいですが、このくらい管理されており、お任せが良いんですね。
失禁して何度もシーツを汚してしまう、しかし看護婦さんがすぐ取り替えてくれる。まる で赤ん坊のようでした。ともかくお任せ。つまり、そのお任せが非常に良い。うつ病には 上り下りがあります、つまり「三寒四温」がありますから、「お薬は長く飲まねばなりませ ん」。ただしいつまで飲むべきかの不安はありますが、長いですよ。私の場合は1997年から 飲み始めて、まったく飲まなくなったのが2003年、だんだん減らしましたが6年間飲みまし た。医師が「止めますか」といった時には、拒否しました。私は死ぬまで飲む気でいまし た。管理されていれば、薬を飲み過ぎることの心配をする必要はないと思います。便秘な
72