二 条 大路の 計 画 と施行
遺 構 の7時 期
区 分
長屋 王邸 は
4町
占 地「西宮」比定
長屋 王居住 区 と儀 式的 区画 の比定
「長 屋 王 家 令所」の比定
や溝状土坑SD4750から出土 した木簡 な どによって、居住者が長屋王、吉備 内親王 とその子供 違 と確定で きた。蛇行溝SD4150が六坪 に も連続す る とみて6町 (一〜三・六〜八坪)占地 とす る見方 (本文p.13参照)も あったが、六坪 の北限区画 に伴 う雨落溝 が ほぼ奈良時代 を通 じて存 在 した可能性が高い こと、六坪 の所用瓦が藤原氏 と密接 な関係 を もつ ことか ら、三・六坪 を別
とし4町とみた。
敷地の南辺中央部 には掘立柱塀で囲 まれた広い区画 (内郭
)が
あ り、内部 は掘立柱塀で さら に東西 に3分し、 それぞれ に大型の建物群 を配置す る。生活 の中心 となった区画 である (A期 では東西135m以 上、南北115m)。 3区画 の うち、中央 内郭 と西 内郭 はA・ B両期 とも一貫 して 正殿 と脇殿 を逆L字
状 に配置す るが、東内郭 はA期
とB期で建物配置が大 き く変化す るので恒 常的な居住 の空間 とは考 え難 い。「長屋王家木簡」 によって、「西宮」 に長屋王 の子女やその 母 たる長屋王の妻妾が居住 した と推定で きることな どか ら、西内郭 を「西宮」 にあてた。中央 内郭 は東西幅が77mと最 も広 く、正殿S B 4500は面積 が約360m3も あ り、京内発見 の建物で は 最大規模 で ある。 また、SB4500は両面庇付建物だが、母屋 の梁間が3間であ り、桁行 の両端 間を広 くとる点 に特色が ある。 こうした平面形式の建物 は、 これ まで平城宮内裏 の中心的建物 SB4700以外 に知 られてお らず、一般 の貴族邸宅 の建物 とは異質 とい える。 したが つて、中央 内享[には長屋王が住 んだ と考 えた。東内郭 は儀式・ 接客用 の空間 と推定 した (B期には双堂SB
4300。 4301が建ち、整備が進む)。 この東 に蛇行清SD4150や SD4149を配 した園池が あ り、B期に なると東内郭 との間の塀が一部 な くなって、両者のつなが りが一層増 す こともこの推定の裏付 けの一つになろう。
内郭 の北 は掘立柱塀 で2区あるい は3区 (西・北 。東外享[)に大 き く区分す る。西外郭 と北 外郭の間 は通路 とな り、 この北 には二条大路 に面 して棟門が開 く。大路 に門 を開 くことがで き
るのは『続 日本紀』天平3年9月 戊 申条 に三位以上 とあ り、 これ を遺構 の上で はじめて確認 し えた ことになる。
敷地東辺 の清状土坑SD4750や SE4770から出土 した「長屋王家木簡」 によって、 この邸宅 内 には家政 をあずか る「長屋王家令所」(「奈良宮務処」「政所」)があ り、 この下 には「主殿司」「大炊 司」「酒司」「縫殿」「染司」 な ど日常生活の様々な局面 に対応す る部署が設 けられ、多種多様 の職 人や奴婢達が活動 していた ことが判明 している。
今回調査 した二つの外郭 の うち、SD4750や SE4770をふ くむ東外郭 に家令所が あつた ことは 想像 に難 くないが、未調査地が多 く、どのような建物 の配置が されていたかはよ くわか らない。
北外郭や西外郭 の調査 も不十分で あるが、北外郭 のSB4960は多 くの甕 を据 えた建物、西外郭 のSB4800は内部 を細 か く仕切 って事務所 (宿舎
)風
に してお り、 ともに家政 に関わ つた部局 区画 と推測す る。C期は、
B期
の占地ギ区画施設、建物 をほぼ踏襲 した時期である。二条大路上 に掘 られた濠 状遺構SD5100やSD5300・ 5310か ら出土 した「二条大路木簡」 の分析 によって、一 。二・七・八坪 の4町には皇后宮が置かれた可能性が高い と考 えた。SD5100・ 5300・ 5310は清状 だが、
水が流入す ることも流出す ることもない。防御や防火施設であった ことも考 えられ るが、最終 的 には木簡や土器 な どを投棄 した ようである。 この時期、二条大路上 には東一坊大路近 くと二 条二坊五坪南門の前 に掘立柱建物が建 つ。出土木簡 か らみて衛府 な ど皇后宮の警護 と関わ る施 は
宮
舶 后
C 皇
第V章 考 設 と理解 した。
中央 内郭 の建物 は全面的 に建 て替 える。正殿SB4600の規模 は長屋王邸正殿 に準 じる。北・
東外享卜の建物 もほぼ全面的 に建 て替 える。敷地東面の区画 はそれ までの掘立柱塀か ら築地 に改 めて、中央 に門 を開 く。
D期
は坪境小路 を設 けて敷地 を分割 した時期である。―・ 二坪 は一体 で あ り、南寄 りに生活 の中心 とな る建物群が ある (官衛か邸宅かは不明)。七・ 八坪 は1町を溝 や道路 で さ らに細分 す る。七坪 の北西部 の敷地 (約70m四 方)には、南西隅 に二重 の溝 を巡 らせ た一辺約18mの区画 がある。内に遺構 はな く、性格 は明 らかでない。礎石建 ちの建物が あって削平 されたのか、単 に広場であったのか、ヤゝくつかの可能性が考 えられ るが、類例 の発見 をまって再検討 したい。E期
は、坪境小路が廃 され、再 び4町を占有 した時期である。A〜 C期
と異 なって、3組の L字形の塀で敷地 を緩やか に区画 し、 それぞれ にある程度 の規格性 を もって建物 を配置す る。この うち、二坪部分 は大型 の建物 を逆L字状 に配置 してお り、生活の中心 区画 となろう。官衛 か邸宅かは確定 し難 いが、官行 とすればまとまりに欠 ける。
F・ G期は、再 び坪境小路 を設 け、敷地 を細分 した時期である。一坪 と二坪 は ともに1町占 地であるが、七・ 八坪 は1町をさらに細分 している。一坪では敷地 の中央 に計4棟の建物、東
。南辺 に狭長な3棟の建物 を配置す る。井戸SE4885から太政官 に関わ る「地子米」の木簡、
SE
5140な どか ら「官厨」「官」の墨書土器が出上 してお り、長 岡京 における太政官厨家の位置 とも ほぼ一致す ることか ら、 この敷地が太政官厨家であった可能性 は高い。敷地 の縁辺 にある極 め て長 い建物 は倉 であろう。三坪 では東南部 に比較的大型の建物 を
L字
状 に配置 し、 ここが生活 の中心 となる。―・ 二坪 の重要 な建物 はG期
には廃 されていた可能性が あ る。左 京 二 条 二 坊 五 坪 の 変 遷
調査面積が小 さ く、断片的 な ことしかわか らないが、三条二坊―・ 二・ 七・ 八坪 とほぼ併行 して、a〜 g期の、7時期 の遺構変遷がある。a期は不明だが、b期以 降 は1町もし くはそれ 以上 を占有す る。
a〜 C期の検 出建物 は少 ない。b期とC期には南面中央 に二条大路 に面 して棟門 を開 く。C 期 には二条大路上 の北 に、南 の濠状遺構SD5100と対応 して濠状遺構SD5300。 5310を掘 る。 こ
こか ら出上 した木簡 や、五坪 の南門か らSD5100の中央部 に棄 て られた とみ る木簡 の分析 によ って、C期の五坪 には長屋王 と対立す ることになった藤原四兄弟 の末子、麻 呂が居住 していた
と考 えた。桁行7間と推定す る北庇付建物SB5390が正殿 になる可能性 が ある。
d・ e期は南門 を四脚 門 の可能性が あるSB5320に改 める。敷地 内は、d期には東南部 を掘 立柱塀 で区画 し、e期には回廊状 のSC5290で南北 に区画す る。敷地 内 に回廊 を もつ遺構 は、
京内では離宮 とも推定す る東隣の左京二条二坊十二坪、市原王邸 か と推定す る左京四条一坊一 坪 (本文P,13・ 14参照)にあ り、通常の官衝 であった可能性 は薄 い とい えよう。上記 の十二坪 の遺構 は天平勝宝元年 (749)に存在 した「宮南 の梨原宮」 に比定 す る見 方 もあ るが、五坪 の 南門近 くで出土 した「阿刀酒主」の木簡か ら、五坪 もしくはこれ を含む三・ 四・ 六坪 の「東院 南方遺跡」が梨原宮であった可能性 を示 した(本文第V章 lB、 p.453・ 454)。 e期もしくはd期 中に、敷地東辺 には東二坊々間路西側溝か ら水 を引いた「樋殿」(水洗便所)SX5034・ 5035の存
F期の一坪 は太政 官厨
藤原麻 呂邸 に
比
定
梨 原 宮 か
建物配置 は
9尺
方 眼5〜 7世紀 の豪族居館
在 した ことが、遺構 や寄生虫卵 の分析でほば確 め られた。平城京で は最初 の発見である。
f期には、門 を棟 門 に改 める一方、五坪東辺 に南北棟SB5250を建 て、中軸線上 に桁行推定 5間の正殿 と後殿 が並ぶ。SB5250は京 内最長 の建物 で あ り、官衡 あるいは公的施設である可 能性が高い。g期には南門 は廃 され、敷地内に比較的小規模 な建物が建 つ。官衡か邸宅かは明
らかでない。
建 物 配 置 計 画
三条二坊―・ 二・ 七・ 八坪
4町
を占有す るA期
の場合、北 門 (北面築地)や
内郭 の区画塀 な どは条坊計画線 を もとに大尺で計画 された ことが明 らかである。一方、敷地内の比較的大 きな 建物 の柱間 は小尺で9尺 もしくは10尺であ り、内郭 の区画塀 も柱間は小尺で9尺となっている。結果 として は、大 きな区画割 りを行 ったのち、内部 の建物 や塀 は小尺の9尺方眼で割付 けた可 能性が高い と判 断 した。
BoC期
は、基本的 にはA期
を踏襲 しているが、増・改築 にあたって は既存の塀 か ら小尺 (主として9尺)で
割付 けた ようである。敷地が分割 され る
D期
で は、二坪の建物 について10尺 (小尺)方
眼が用い られた可能性が強 い。E〜 G期
の建物や塀 については、9尺あるいは10尺方眼 にのるもの もあるが、数 は少な く、全体 を通 しての言十画があった とは考 えがたい。
二条二坊五坪
b・
C期の南門 (SB5135A・B)は
条坊計画線 か ら大尺 で正 し く中央 に位置す るが、C期の正殿 は南門か ら小尺で160尺にな る。一方、d期の南門 (SB5320)は心が東 に寄 り、五坪 の実質的な大 きさ、すなわち両狽1溝心々距離 の正 し く中央 に位置す る。三条二坊―・二・ 七・ 八坪 と同様 に、造営当初 にあっては、条坊計画線 か ら大尺で大 きな区画割 りを行 い、
以後 は既存 の塀 。溝か ら割付 けた と考 えられ る。大宝令 に「度地 に大尺 を用いよ」 とす る規定 の京での運用 を示す もの といえる。
v
平 城 京 以 前 の遺 構奈良時代 当初 の整地土下 もしくは地山面上で、方形 に濠 をめ ぐらした二つの居館跡 を検 出 し た。居館
Aは
、一辺 (内寸法)38〜 39mであ り、内に掘立柱建物 を伴 う。年代 は5世紀後半頃 で、6世紀 まで存続 した可能性がある。方位 は東で北 に約45度振 れ、南 を流れ る旧菰川 のSD
1560の方向 にほぼ揃 う。居館Bは、内寸法が南北約80m、 東西50mない し70mである。年代 の 決 め手 になる遺物 は出土 していないが、方位が真南北で ある点か ら、7世紀初頭頃 とされる真 南北 の下 ッ道設置後である可能性 を示 した。
奈良盆地 の北辺で は、 これ まで に5世紀 中頃以降の居館跡が 2カ 所 (南紀寺遺跡 と菅原東遺 跡
)発
見 されてお り、本調査例 を含 めて居館跡 は計 3カ 所 になった。南紀寺遺跡 は5世紀 中頃 か ら6世紀前半の和適氏 の拠点 とされ、本遺跡 の周辺 も和迩氏 の勢力下 にあった可能性がある。その究明 は今後 の課題であるが、下 ッ道の設置 に伴 つて居館 を大 き くしているらしい ことは、
この地が政治的 に重要な位置 を占めてきた こと、ひいて は平城遷都 に至 る何 らかの素地が形成 されていた ことを暗示す る。
1)森下浩行「奈 良県南紀寺遺跡」『考古学 ジャーナ