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4章  鯨肉食は食の近代化のなかで普及した

られていたこと、1920年頃でも白手物と赤肉の割合は8対2程度だったこと、1918年頃から氷蔵輸 送が実現し夏季の赤肉も食用となるようになったこと、1931年頃から大量の軍需が始まりマッコウ クジラの赤肉も食用にされ始めたこと、1923年頃に年間1万トンの消費となったことなどが記され ている。きわめて概略的な内容で、年代や対象があいまいな記述や前後で矛盾する部分、鯨肉の消 費に関する表がいくつか掲載されているが典拠が示されていないなど、そのままの形での引用は難 しい。20世紀前半の鯨の使用目的や消費動向は戦後に鯨肉食が受け入れられた前史としても、批判 に耐える形で解明する必要がある。 

  ところで、本章のタイトルに用いた「鯨肉食」いう言葉そのものに疑問を投げかけたい。鯨肉食 を日本の伝統文化と考えた場合、近世では地域的な料理であったものが近代になって全国に広まっ たと解釈できる。しかし、鯨肉食が明治以降に西洋文化を取り入れて一般化した肉食の一形態であ れば、それは近代になって新たに受け入れられた文化、言葉を換えれば鯨肉食は食文化の近代化の ひとつという位置付けが可能となる。言葉尻をとらえるようだが、まず「鯨肉食」と「鯨食」を区 別することから始めたい。そうなると近世や明治大正期の料理書に見える食材としての「鯨」や

「身鯨」という文字が、どの部位を表していたのかという検討も必要である。これまでの議論では

「鯨肉」という単語を機械的に鯨の筋肉と理解してきたのではないだろうか。近世以前の日本での 肉食は一般に避けられており、この条件でも鯨は別扱いで利用されていたのか、それとも筋肉以外 の可食部を食料としてきたのか、鯨肉食は近世から広く存在したのか、あるいは明治以降に政府主 導で進められた肉食の普及とともに食されるようになったのかなど、解決すべき課題が残されてい る。 

  なお、本論では、軍隊や刑務所、学校や事業所など大口消費者による鯨赤肉の消費、そして家庭 での消費量や利用頻度については十分な調査をおこなっていない。これらは今後の課題として残さ れている。 

 

資料と方法 

  本章が意図するのは、県境を越える広域的なレベル、おおよそ国民レベルでの鯨肉食の普及過程

であり、それを捕鯨会社の売り上げや販売努力といった供給面、そして料理書の鯨食材の調理法や 取り上げ方といった消費動向の両方から解明することである。次いで、仲卸や小売店の販売実績と いった流通面、そして個人レベルの鯨食体験について考察を加えた。食事日誌や家計簿は扱ってい ない。調査の方法は、近世から近代の料理書を跋渉して鯨料理の記述を集成した『鯨料理の文化 史』(高正  2013)を参考に、ケンショク「食」資料室が所蔵する近世から1930年頃(昭和初期)

に出版された料理の単行本(以下、料理書)や捕鯨会社が作成した鯨料理小冊子を調べ、そこに現 れる鯨料理の内容を検討し、鯨食材の部位を考察した。加えて、近代の料理書では、行事食など格 式のある料理と家庭料理である総菜との間で見られる鯨食材の利用部位と調理方法の違いを検討し たほか、鯨肉が牛肉の代用品として用いられる記述を集めた。次いで、東洋捕鯨やその前身会社の 株主総会資料「営業報告」を用い、鯨肉の供給者である捕鯨会社の製造製品とその変化、販売努 力、冷蔵や冷凍施設の整備、鯨肉売上の変化などから、鯨肉の普及状況について考察した。さらに

『大阪市海産物市場調査』(大阪市役所商工課  1924)と『資料大阪水産物流通史』(大阪水産物 流通史研究会編  1971)とを用い、近世から鯨が流通していた大阪を中心に、鯨肉流通を支えた市 場や設備の変化、わずかであるが消費量を考察した。つまり、鯨肉の供給と消費、そして流通の三 方向から分析をおこなった。それとは別に、大阪名物として料亭で出されてきた鯨鍋の成立時期に ついて、当時の料理雑誌の記事を用いて検討した。 

  言葉の定義として、本論では食材としての「鯨」は筋肉か脂皮その他を問わず鯨全体に用い、

「鯨肉」は筋肉を食材とした場合に用いる。しかし現実には脂皮を含めて鯨肉と呼ばれることがあ るため、とくに区別する必要がある場合について筋肉は「赤肉」、脂皮は「白皮」、そのうち脂肪 を除いた部分は「黒皮」とした。文脈上必要に応じて脂皮や筋などを包括する「白手物」も用い た。もちろん、引用部分はこの限りではない。鉄道輸送と冷蔵冷凍設備の普及から、戦前に鯨肉流 通がある程度進行していたという見立ては、科研費の報告書のなかで老川(2008: 173‒174)が簡 単に言及しているが、本論は同時代の資料を用いて多面的に考察する。 

近世の料理書に現れる食材「鯨」は基本的に白皮であ 

  最初に食材としての鯨について、近世の用語や用法を振り返っておく。西海捕鯨の代表的な鯨図

説『勇魚取絵詞』の付録として刊行された『鯨肉調味方』では、食用部位として肉や身の文字を用 いた部位として「皮身」「赤身」「塩赤身」「胸の身」「相身[あいのみ]」「咽輪身[のどわ み]」「臓肉」などが示されている(吉井編  1980c: 41,高正  2013: 14‒15)。『鯨肉調味方』で は、白皮も赤肉も「身」の文字を用い、「肉」の文字は内臓にだけ使われている。なお、臓肉の部 位について、『鯨肉調味方』では「十二指腸より上の臓を抱き包める肉なり」(高正  2013: 18)と 記していることから、横隔膜であることを示唆している。 

  大槻清準「鯨史稿」(1808  [複製版  1976])については、高正(2013: 10‒11, 46, 52)が引 用するとおり、「唐津捕鯨図説に出たる説え見聞を参えて鯨魚の諸具各々用法を記す」として多く の部位を示している(大槻  1976: 491‒503)。そのうち「身」の文字を用いた部位は、白身、觜の 身、サエスリ(サヤの身とも言う)、胴の赤身、カバチの赤身、肋身、丸切赤身、扇赤身、間の赤 身、アイの身、スノコ身、三ツ合白身、臓の赤身などで、このうち食用に適しているとする部位と 評価は次のとおりである。白身「所によりて油少し、それ故に食料になる所もあり[中略]味上品 なり」、觜の身「上品なり。食料によし」、胴の赤身「外の赤身より軽くして柔らかなり」、カバ チの赤身「食料にして味よろし」、肋身「赤身の中にての上品なり」、小骨「赤身の中にて極上な り。料理に賞味す」、丸切赤身「筋あり。大概よろし」、間の赤身「肋の身に似て少し悪し」、エ ンハ「食料ばかりなり」、スノコ身「赤身同様なり」、尾羽毛「食料にす。上品なり」、三ツ合白 身「食料によし」、小袋「食料にもするなり」、コレ輪「食料によし」、歯茎「料理に賞味す」な どの記載が見える。また、「咽輪、吹腸、豆腸、丸(臼とも言う)、丸皮、ウス腸、烏賊腸、丁子 腸」にも「食料」と注記している。肉の文字は用いられていない。白皮も赤肉も「身」の文字で表 していることに注意したい。料理法については、「鯨内調理」の見出しで「これは鯨記に出たる説 へ一二見聞を参えて鯨魚料理の法を記す」として「赤身黒皮、テイラ(尾羽毛とも言う)、子の歯 茎、百尋、臼腸、豆腸、ヒメ腸、フク腸、丁子腸、喉輪、鏑骨、油身煎れから」を挙げるが(大槻  1976: 513‒516)、ここにも肉の文字は見えない。しかし「赤身黒皮」は「焼赤身は好物の人雁鴨 に勝れりと云う」(高正  2013: 52,大槻  1976: 513)と雁鴨の焼き物と比較をしており、赤色の 濃い胸肉との比較を思わせる。よって「鯨史稿」の「赤身」は赤肉である。 

  『鯨肉調味方』と「鯨史稿」の2つの研究書は、すでに知られた知識を集成した書物である。ただ しこれら2冊は近世に広範に読まれた書物ではない。『鯨肉調味方』は版本(木版本)であるが、唐 津藩の大名などへの贈答品で発行部数は20数冊に留まるとされ(高正  2013: 21)、「鯨史稿」は 稿本(手書き)であり版本のような大量生産はされず、近世では少数の学者や関係者が見ただけで ある。この2冊の記述は1800年代前半の知識や常識の普及状況を示しておらず、それよりも知識を 体系立てて整理して示した点が重要である。つまり近世では「肉」の文字は筋肉よりもむしろ内臓 に使われ、食用の部位は脂肪でも筋肉でも「身」の文字あるいは音が用いられていた。この2冊の記 述は、近世文献では鯨関係の食材で「身」の文字は白皮と赤肉の両方に用いられることを示唆して いる。 

  ここからは都市を中心にある程度の読者を得たと想像される近世の料理書について、そこに現れ る鯨由来の食材が何を指していたのかを検討する。近世の料理書の記述はきわめて簡素であり、具 体的な部位や調味料の分量は指定されず、調理方法も加熱の時間や頃合いについても読み手の判断 に委ねており、すでに料理の基本を習熟した読者を前提としたものとなっている。 

  『鯨料理の文化史』で食材として鯨の部位が見える近世の料理書は30を越えるが、鯨と思われる 素材に「肉」の文字を伴っているのは『名飯部類附録』(1802)にある「海鰌[くじら]雑炊」の

「赤肉」だけであった(表4-1)。ただし、ルビは「あかみ」として「にく」とは読ませていない

(高正  2013: 37,吉井編  1980b: 37)。「海鰌雑炊」(吉井編  1980b: 293の目次では「鯨ざう すい」)は「鮮鯨[よきくぢら]の赤肉[あかみ]を補足切水に浸し塩を出置後水にて洗ふこと二 三次[ど]にして湯をよく滾沸[たきら]し右の肉を煮出し籠に並べ湯中に浸し上おき籾薄味そに て雑炊を常のことく煮て割ねぎ線蘿葡[らふ=だいこんのこと]の類好に随ひ肉[み]と共に入一 二沸して食ふ  夏時は冬瓜瓢蓄[かもふりゆふがほ]の類最よろし△[ママ]右生鮮[なま]くし らにても同し又云くしらせんを以て煮るもよしとくぢらせん既に包丁梯にでたり」(吉井編  1980b: 

293, 296‒297)というものである。水で塩出し後に洗って煮出すことは白皮でも赤肉でも共通して いるが、糠を使わない点は赤肉を思わせる。根拠は薄いが文字を優先し「赤肉」は実際に赤肉と考 える。『名飯部類附録』の版元は、高麗橋一丁目と記されており、現在の大阪市中央区に含まれる