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26 表1-2  事業場長必携の項目(一部字句を省略)

宇仁(2015b)より     

図1-6  「写」のゴム印が押された蔚山事業場長必携の表紙(日本水産蔵)  

表1.「事業場長必携」の項目(一部字句を省略)

1.沿革略

2.事業場許可年月日並ニ期間 3.操業区域並ニ其ノ期間 4.税金割賦金及負担金

5.対地元、漁業組合等トノ報酬条件及ビ摘要 6.公有水面使用面積、料金及許可年月日期間 7.汽機汽缶、検査期日有効期間及取扱主任者 8.敷地及建物貸借関係

9.設置ニ関シ尽力セシ先方 10.開業当時ノ披露列席者氏名 11.毎期開始ニ際スル披露 12.毎期引揚ケニ際シ挨拶 13.毎期ノ開始及引揚ケ月日 14.期別、月別、種類別等ノ捕獲

15.社長若クハ重役出張ノ際ニ於ケル事業場員   事業夫船員及地方有志者ニ対スル振合 16.特ニ連絡ヲ採ルヘキ官公吏及有志者 17.定例の寄附

18.臨時の寄附

19.事業引揚ケノ際謝礼先 20.変事

21.歴代ノ場長及場員 22.配属ノ船名及上級船員 23.配属ノ事業夫及常雇ノ延人員

24.官公衙ヘノ重ナル願、届、報告、及陳情 25.県令、法規又ハ規約ノ大要並ニ改廃ノ概要 26.漁場ノ移動(漁場ノ変異移転ノ詳細ナル状況)

27.其他参考トナルヘキ事項

2章  近代沿岸捕鯨の事業場の拡大過程とその設備    1節  ノルウェー人砲手が写した日本海捕鯨    2節  北と外地へ展開した捕鯨根拠地 

  3節  捕鯨事業場の設備と特徴、住民の鯨体験   

1節  ノルウェー人砲手が写した日本海捕鯨  はじめに 

  北東アジアの近代捕鯨は、ロシア極東から朝鮮半島にかけての日本海沿岸でロシアの企業によっ て1890年代初頭に開始された。最初に朝鮮沿岸で近代捕鯨をおこなったのは海軍出身のディディモ フ(Akim Grigor’evich Dydymov 

Аким Григорьевич Дыдымов 1856?-1891)であり1889‒1890

(明治22‒33)年に操業した。この成功を引き継いだのがケイゼルリンク(Heinrich Keyserling*1  1866–1944)の太平洋漁業会社である。同社の創業年は明石編(1910)では1891年とするが、崎 浦訳(1956: 10)や朴(1995: 184)は1894(明治27)年としており、ロシア側の資料や研究から も1894年の方が有力という(神長  2002)。「韓海捕鯨」(朝鮮漁業協会  1900)として注目され たロシア捕鯨は、船長こそロシア人であったが、操業はノルウェー人砲手が指揮し、水夫の多くが 朝鮮人で炊事夫は中国人であり(朝鮮漁業協会  1900)、このことが近代捕鯨の多民族性あるいは 多国籍性を示すものと指摘されている(森田  2000、渡邊  2006: 34‒41)。このようにロシア極東 における近代捕鯨は同時代の水産雑誌が報じ、その捕鯨船や解剖手法、乗組員などの特徴が伝えら れ、長崎に輸入された鯨肉と相まって日本企業が近代捕鯨に取り組む呼び水になった。しかし、今 日に至るまでロシア捕鯨の情報は、そのほとんどが文字情報だけに限られており、また同時代の報 告は少数であり、しかも相互に検証する方法を欠いていたため齟齬する情報も少なくない。日露戦 争後にロシアに代わって朝鮮で捕鯨を始めた日本企業についても同様で、20世紀初頭の朝鮮半島沿 岸での捕鯨に関する視覚資料は、捕鯨船乗船ルポルタージュ「実地探検捕鯨船」(江見  1907)の 口絵写真や絵葉書など少数に留まり、印刷画質も不十分なものであった。 

  ところが、2016年になってノルウェーに1900年代初めの朝鮮半島沿岸でおこなわれた近代捕鯨の

写真が博物館に保存されていることが筆者の照会により明らかとなった。それまでは博物館の受け 入れ担当者が知るのみで目録未掲載の資料ということであった。この写真は、乗組員の構成や寄港 地など文字情報の検証資料となるだけでなく、文献資料では得られない事業場の立地や設備、関係 船舶や船舶名称など捕鯨産業の具体的様子、周辺の集落や景観など、当時の捕鯨を取り巻く環境に ついて視覚的に明らかとする。撮影場所の特定は産業遺産の保存と活用に直接役立つ知見である。 

  本節では、これを用いて写真の撮影地や被写体、撮影年代などをできる限り特定し、当時の捕鯨 を読み解く。 

*1  姓の表記は家族ウェブサイト  http://keyserlingk.info/index.asp  では  Keyserlingk  と表記  1)資料と解題 

  本章で用いた資料は、ノルウェー王国ベストフォル県(Vestfold Fylkeskommune)テンシュベ ル市(Tønsberg kommune)にある城山博物館(Slottsfjellsmuseet、旧ベストフォル県博物館  Vestfold Fylkesmuseum)に寄贈されたガラスネガ(ガラス乾板)で、撮影者は東洋捕鯨などの日 本企業でも砲手として活躍したヘンリク・メルソム(Henrik Govenius Melsom 1870‒1944)であ る。彼は、捕鯨砲を発明したスベン・フォインの捕鯨事業に参加したあと、1897年にウラジオスト ックに移りケイゼルリング伯爵の捕鯨会社で砲手として働き、7年を過ごした。日露戦争時に一時帰 国したが、自ら捕鯨船を購入して再び朝鮮半島沿岸の捕鯨に従事し、1912年にノルウェーに帰国し た(SKIPSREDER H. G. MELSOM[船主メルソム] http://www.lardex.net/larvikmelsom/hgmelsom.htm

2019/7.29  閲覧)。日本企業への就業は、後述のとおり1906(明治39)年からである。

  写真の原所有者は、メルソムの次女で長崎生まれのシグリ(Sigrid Govenius Melsom 1903–

2001)である。撮影者と原所有者のほかは、ネガへの注記や撮影に関した情報は皆無であった。な お、日本語文献では、Melsom  の名前を「メルソン」や「Melson」と誤記したものが目立つので注 意したい(明石編  1910、神長  2002、宇仁ら  2014など)。ベストフォル県は、捕鯨砲を開発した スベン・フォインの故郷であるテンシュベル市、捕鯨博物館で有名なサンネフヨル(サンデフィヨ ルド  Sandefjord  )市などが存在するノルウェーの大型捕鯨の中心地である。ネガの存在は、筆者 が2016年9月にベストフォルアーカイブ(Vestfoldarkivet)に対し、1900‒1930年代の日本の近代

捕鯨に関連した写真の所蔵について照会したことへの回答の形で示され、その時点では受入担当者 だけが知る資料だった(ベストフォルアーカイブの 

Lone Kirchhoff 氏2016. 9. 20私信)。筆者は、

2016年11月に同アーカイブを訪問してネガを実見、約190枚を複写したほか、これとは別の写真の デジタルデータを複写との重複を含め47枚分を得た。ネガには、シグリが長年住んだ家、ノルウェ ー国内の風景や捕鯨船、イタリアのポンペイ、インドなどの写真も含まれ、日本を含めた極東地域 に関連すると判断した写真は52枚であった。この52枚について、文書や文献、関連する絵葉書や写 真、さらには撮影地を訪問することなどにより、被写体情報の特定を可能な範囲で行なった。結果 は、写真の解説レポートとしてアーカイブに送付し、現在ウェブサイトで公開されている(HJELP

FRA JAPAN - GAMLE FOTOGRAFIER IDENTIFISERT [日本からの助力—古い写真の同定]

http://www.vestfoldarkivet.no/hjelp-fra-japan-gamle-fotografier-identifisert/ 2019.7.29 確認)。 

  本節は、H. G.  メルソム撮影のガラスネガ極東関係分52枚のなかから、捕鯨や捕鯨船に関係した 写真12枚について、詳しい説明を加えたものである。写真には、撮影地や被写体が特定できなかっ たものもあるが、他では得られない貴重な記録として収録した。捕鯨船の名称では日本船籍と確認 されたものは丸、日本企業の傭船であるが外国船籍と思われるものは号、外国企業のものは船名の みとした。聞き慣れない地名が多い朝鮮半島に関しては地図を作成した(図2-1)。読み仮名は、日 本語での呼称である。ロシアの捕鯨会社の名称はケイゼルリンクのものは最初「太平洋漁業会社」

と称し、1899年4月に「ケイゼルリンク伯爵太平洋捕鯨漁業株式会社」に改組されたという(神長  2002)。正式名称が長く改称もされていることから、本論ではケイゼルリンクの捕鯨会社は正式名 称が必要な場合以外は便宜的に「ロシア太平洋捕鯨会社」と記す。なお、ディディモフのものは崎 浦訳(1956)も神長(2002)でも会社名が示されていない。 

2)写真と解説 

ロシア企業の捕鯨船と乗組員 

  ロシアの捕鯨会社の捕鯨船の写真は、ギヨルギー号のものが残されている(写真2-1)。撮影場所 は不明であるが、背景に写る丘陵の植生が貧弱なことから朝鮮半島沿岸と判断している。船名は不 鮮明ながら前マスト下部に記され 

ГЕОРГIИ

  [ギヨルギー]と読める(写真2-1右拡大写真)。この

船について神長(2002)はゲオルギイとしているが、本論では『日本船名録』に従い「ギヨルギ ー」とする。明石編(1910)も「ギヨルギー」である。『日本船名録  明治41年版』(逓信省管船

局編 1908)に現れる同船の船名は「ギヨルギー丸」、船体番号10328で、スクーナー型の帆を備え た蒸気船として登録され、総トン数137トン、長さ95.2尺[約29メートル]とあり、翌年には内外水 産の所有となった(逓信省管船局編 1909: 132)。ギヨルギー号は、艦橋と煙突の船尾側の甲板で写

した集合写真も残されている。この写真にはメルソム砲手が写り、アジア人も多数含まれることか ら乗組員の写真と判断する(写真2-2)。ここに写る人物は12名で、後列左から3人目の犬を抱いて いるのがメルソム砲手である。同時代の水産雑誌の記事には、ギヨルギー号の乗組員について 1899‒1900年は13人、1901年は12人で、ロシア人船長、ノルウェー人砲手、ロシア人機関長、朝 鮮人水夫8人、中国人炊事係1人(1899‒1900年は2人)と記されており(朝鮮漁業協会  1900、森 田  2000、渡邊  2006: 34-35)、写真の人物が1901年のとおりだとすると、ロシア人船長が後列中 央であり、炊事係は乗組員のなかで最も地位が低いので甲板に座った前列右端の人物かも知れな い。中央に座る男性はキリンビールの瓶を手にしている。この写真での船名は人物の背後上部にあ る救命浮輪の文字 

ГЕОРГIИ

  がはっきりと読み取れる。  I  の文字は現代のロシア語では用いられな いが、1918年まで使われていた(黒田  1998: 83‒87)。人物背後中央の銘板の文字は  AKERS  MEK. VÆRKSTED(アカース機械製造所)と記され、下部の文字で見えているのは一部であるが、

ノルウェー独立以前のオスロの名称  KRISTIANIA(クリスチャニア)と刻まれている。ギヨルギー 号の名は、Tønnessen(1967: 187, 188, 210)にも現れ、ウラジオストク近郊の捕鯨基地ガイダマ ークに到着したのは1895年という(神長  2002: 60)。撮影年は、ギヨルギー号の到着からロシア 太平洋捕鯨会社が日露戦争によって操業停止に至るまでの1895‒1904年のうちである。なお、ノル ウェーのスウェーデンからの独立は1905年であるので、メルソムが日本海に来たのはスウェーデン の統治下の時代となる。 

  同社のもう一方の捕鯨船ニコライと乗組員と思われる写真もある(写真2-3)。写真では船名は不 明だが、鯨の解剖に使用するクレーンが見えないことから捕鯨船と判断し、同社の捕鯨船は2隻で あることからニコライと推定した。ニコライの乗組員は、1899‒1900年はロシア人船長、ノルウェ