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(4)教職員組合の50年

金大教組の誕生と初期の活動

1945(昭和20)年末に労働組合法が公布され、翌年には国鉄労組・鉄鋼労組・官公労 組・日教組など12の巨大組合が結成された。石川県の高等教育機関は当時8校あったが、

各校個別に組合づくりが進んでいた。その後、日教組の学校種別専門部である「日本教職 員組合大学高専部」の細則制定(1947年7月17日)を受け、「石川県大学高専教職員組合 協議会会規」(1947年12月)が作られている。その目的は「各校教職員組合の連絡、共同 協議の事務に当たる」と記されており、各校複数の委員が四高の会議室に集まり数回の会 合を重ねている。その結果として「石川県大学高専教職員組合協議会規約」(1948年6月 26日)ができたのであった。大筋でこれと合致しさらに詳細な規定を持つ「金大教組規約」

は1949年10月22日実施となっている。資料不足のため不明な部分もあるが、これはおそ らく教職員組合結成大会の日付と同一であろうと思われる。なお、大会は医学部十全講堂 で開催、100名程が参加している。今見ればこの規約の3条末文に「文化国家再建を期す るを目的とする」とあり、敗戦と破壊の中から立ち直ろうとする意気込みが読みとれる。

ただ実状としては、各学部間および学部内の差別意識の払拭を願って、互いに親睦を図る ことが中心であり、いくつかの学部で当局と分会が共催で運動会や麻雀大会を催したりと いう実態であった。

結成当時は朝鮮戦争勃発を契機にして右寄り反動化の波が世相を動揺させていた時期で あるが、組合全体としての目立った動きは見られなかった。しかし、1956年に結成され た石川県の原水爆禁止協会には組織をあげて参加し、他県には見られない広汎な県ぐるみ の運動を展開した。1957年3月には日教組主催の第6次全国教研集会が金沢で開かれ、

金大からも60名を超える講師団を編成して多大な貢献を果たし、以降も共同研究者として 活躍を続けた。当時の教育界はいわゆる教育二法反対等で揺れていたこともあり、金大教 組も数多くの集会やデモに参加している。1959年には組合の文化部ともいうべき「学問 と教育を守る会」が発足し、激しい安保闘争をも担って集会参加等を広く教官に呼びかけ た。60年安保反対の統一行動としての県民集会には100名もの教官が「金沢大学教授団」

の垂れ幕を持ち、手を繋ぎあい、道路いっぱいに広がるフランスデモの形をとって行進す る姿が市民の注目を集めた。

単一組合化と職場の民主化運動の展開

発足から十数年を経て、駅弁大学という世評に曝され、安保の大波の中で揺れ動いた組 合も、漸く自らの在り様を模索し、その方向性を見出そうとする気運が高まっていた。旧 制各校の伝統の再吟味にはじまり、新しい大学の在り様、総合大学の意義を検討しはじめ たのである。各学部間の研究教育体制の格差や教官間の身分差、教官と事務、医師と看護 婦、事務内の職種間の差別意識など、一口に職場の民主化と言っても全く様々な問題が山 積していた。この要因が組合内部にも色濃く反映しており、各分会が旧制各校以来の慣習 を持ち続けたことが全学一体の組合運営の妨げとなっていた。これを打開せんがために 1964年に規約が改正された。実態としての単一組合化を目指したのである。翌年には青 年婦人部が結成され、若さとエネルギー溢れる活動が進展した。海の友好祭や登山など、

きわめて活発な明るい組合活動が生まれた。また全国大学婦人職員集会が金沢で開催され たのを機に、婦人部が確立したのである。

職場の民主化の課題としては、勧奨退職・守衛勤務・看護婦勤務・医局運営・行(二)

職員や女性の昇格・図書館職員専門職化・保育所開設などがあげられよう。勧奨退職(い わゆる「肩たたき」)の闘いは1962(昭和37)年にはじまった。当局から65歳で勧奨は するが、一回限りとし、後は委任を受けた組合が一括交渉する形で合意した。守衛勤務の 闘いについてみると、当時全学6カ所の守衛所があり、三交替制であったが、定員削減の

中で当局の出した案はあまりにも非人間的であったため、守衛が拒否し、独自の勤務体系 を作り、組合と共同で当局交渉の結果、これを認めさせた。以降、守衛の組合に対する信 頼は深まった。看護婦勤務の闘いは、日常的に続けられていたが、1971年の新病棟移転 反対の闘いは印象的であった。準備も十分整わないまま強行されようとした移転に対して、

患者の立場に立った看護婦達の闘いは凄まじく、徹夜の団交の結果、一応延期されたので ある。

これらの活動の中で職種別集会が数多く開かれ要求が集約されるとともに、職種をまた がる集会や懇談会も頻繁に開催された。この中で組合員の意識は高まり、個別要求も全組 合員に理解されていった。

他方、1962年、中教審から「大学の管理運営について」の答申が出たことに端を発し た大管法闘争は全国大学の焦眉の課題とされ、大学自治を守ろうとする運動が急速に拡大 した。さらに、教員養成制度を一般大学から切り離し、独立した目的大学とする動きが本 格化して大きな課題となった。これらの課題に対して、「国民のための大学」が議論され、

教授会の民主化・大学予算の公開などに取り組んだ。組合は幾度か大学制度・教員養成制 度・大学予算などについて全学研究集会を開き、闘いの交流・促進に寄与した。

ストの批准をめぐって

1949(昭和24)年に公務員のストライキが禁止されてから、勤務条件や賃金は人事院 勧告を受けて政府が善処する仕組みになったが、度々勧告が黙視されたり値切られたりし たため、組合のスローガンに「人勧完全実施」が掲げられるに至って、組合員は心の中に 怒りを沸らせるようになっていた。労働者の基本的権利であるスト権を取り戻そうという 要請に熱がこもり、日常的な職場集会での討論にもスト決行が話題に上りはじめた。数度 にわたる批准失敗にもめげず、勤務時間内食い込み集会を繰り返し、遂に1974年春闘で 全国の仲間と呼応して、全一日ストを実施したのであった。金沢市観光会館で行われた集 会に参加した組合員の明るい笑顔がとても印象的であった。それは、前年の早朝1時間ス トの成功など地道な活動の積み上げと警察介入をも想定しての周到な準備の結実点であり、

組合員に自信と希望をもたらした瞬間でもあった。また、執行部に対する信頼の深まりが、

スト批准という投票結果に表れたとも言えよう。

ただ、その後しばらくはストに関して批准成立、不成立が繰り返されることとなる。し かし、1980年5月の「定年制法案・退職手当法改悪法案阻止早朝1時間スト」について は批准が成立するなど、生活に決定的な影響を与えると思われる事項については、関心が 低くなっていたわけではない。また、1982年12月には人事院勧告見送り撤回国会ヤマ場 1時間ストが批准成立し、年末にかけて数度の統一行動が行われた。

80年代以降の大学改革と組合運動

1980(昭和55)年前後以降、大学をめぐる社会情勢は次第に複雑なものとなり、組合

としての活動もまた大学そのものの社会的役割や存在意義を意識したものとして展開して いくことになった。中心課題となったのは、全国的な状況との関連では「行政改革」の名 の下に相次いで断行された定員削減等の問題、臨教審答申に端を発する「教育改革」問題、

そして金沢大学固有の問題としては、総合移転および教養部解体問題であろう。

まず、1969年にはじまった定員削減については、事務系職員の負担を急増させるとと もに、国立大学として行うべき研究・教育・医療に深刻な影響を与えるものであるとして、

組合は一貫して反対の姿勢を貫いてきた。国立大学としての社会的責任を果たすには、む しろ定員外職員の定員化・待遇改善、看護婦の増員などが必要不可欠であると主張してき たのである。またこれと並行して、行(二)職員切り捨てや人事院勧告凍結等に対する反 対運動を強化した。特に教職員の生活基盤に打撃を与える人勧凍結に対しては、例えば 1981年10月29日には全国統一行動全学決起集会を行い、翌年6月・10月にも全学集会を 開催するなど、集中的な運動を展開した。また、1977年に第19回医大懇(全国医科系大 学教職員懇談会)が開催されたが、当時は第4次定員削減が強行されようとしていたとき であり、定員外職員・看護系職員の労働条件改善等について、各大学と意見交換を行い、

運動を全国に拡大する試みも展開されたのである。

学内情勢との関連に目を向けると、大きくクローズアップされるのが総合移転問題であ る。組合では、1970年代半ばから独自にこの問題に取り組んでいたが、1977年6月15日 に「将来計画評論」の発行を開始している。これは移転問題について大学全体にもっと情 報公開をすべきであるとの見地から、当時の評議会等の動向を組合独自で調査・フォロー したもので、その後79年8月までに計34号が発行されている。しかし移転問題について は、組合は必ずしも一枚岩として対応できたわけではない。特に教養分会は一貫して移転 反対の姿勢を貫き、約10年間執行部に参加しないという状況も生まれた。部局による移転 の考え方の違いが、不幸にも組合の場に持ち込まれてしまったということができよう。い ずれにせよ、この総合移転にともない組合事務所も1995年2月13日に角間地区へと移転 し、組合運動は新たな時代を迎えることになったのである。

1980年代以降の大学をめぐる状況として、もうひとつ注目されるのが、1984年の教育 臨調の動向に端を発する「教育改革」に関連する運動である。数年前から共通一次試験が 導入されていたこともあり、教育臨調は大きな関心を集め、集会を数度開催したほか、「金 大教職組新聞・学生版」を発行するなど、1980年代前半の主要な争点のひとつになった のである。90年代に入ってからも、「大綱化」など大学を巡る状況の変化を踏まえ、金沢 大学の今後の方向性を探る運動を展開した。この問題は教研集会、全学集会などで頻繁に 取り上げられている。また、1995(平成7)年7月5日、常任委員会で「1996年度概算 要求における評議会の学長一任に抗議」が採択されるなど、大学改革における学内の民主 的な取り組みを求める運動を強化した。しかし他方で、1996年3月31日教養部解体にと もなって教養部分会が解散することになるなど、急展開する大学改革の波に組合運動その ものが大きな影響を受けることとなったことも記されねばならないだろう。