経緯を辿った。1966(昭和41)年には早稲田大学においても学費値上反対運動が起きる。
学費値上反対運動は、67年には明治大学、68年には中央大学でも起きた。こうして、大 学大衆化と高等教育費の国民の負担増加を背景にして60年代後半の大学紛争の幕が開くの である(大崎、前掲書)。
注目すべきは、1966年の早稲田大学の「学園闘争」が「学費・学館闘争」であり「学 館闘争」において学生運動が「学生会館」の「自主管理」を要求したということである。
また、「学費・学館闘争」において「全学共闘会議」(全共闘)が結成され「建物占拠」、
「バリケード封鎖」などの戦術が採られたことである(大崎、前掲書)。こうした要求・戦 術は60年代末の大学紛争に継承される。すなわち、60年代末の学園闘争においては「管 理への参加」が運動の中心目標の1つとなり、また「ゲバルト行使」戦術(運動形態)が 普及したのである。後者には「大学紛争期」の学生運動の(大学制度を含む)「既成秩序」
に対する強い反発が表現されていたと言えよう。1968年には、東京大学・日本大学で学 生運動が燃え盛るが、両大学で「全共闘」が結成され、建物占拠・封鎖が行われた。
金沢大学においても、1964〜66年に学生会館の管理を要求する学生運動が起き、建物 占拠の戦術がとられた。学生運動が急進的であったことの背景の1つとして、戦後世代=
団塊の世代が大学の大衆化と軌を一にして(同世代人口に対して従来よりも高い比重で)
大学に進学してきた時、彼らの価値観と受け入れ側の(大学)制度・体質の間に大きな溝 があったことを指摘することも可能である(大崎、前掲書)。例えば、戦後生まれの団塊の 世代にとっては「大学の自治=教授会の自治」や、教授・助教授・講師・助手からなる
「位階制度」は「アナクロニズム」以外の何物でもなかった。また、大学大衆化にともない エリート養成の役割を減じつつある大学で伝統的な教育体系が継続されていることに多く の学生は違和感を持っていた。これらは、学生のみならず若手研究者も共有する意識であ った。したがって、大学の民主的制度改革・教育内容改善などが60年代末の大学紛争にお ける直接の論点となるのである。
する契機も重要である。こうした観点から当時の金沢大学を見るならば、紛争の前提も契 機も存在した。
紛争の対象となった問題については後に詳細に検討することにし、まず主体について見 れば、1969年に本格化する金沢大学紛争の前哨戦があったことが重要である。すなわち、
64年からほぼ3年に及ぶ学生会館の「管理」を求める運動があり、学生運動を担う主体が 69年以前に存在していたことが重要である。さらに「学生会館闘争」当時において、すで に建物占拠・ストライキ戦術が採られるなど、全国で1968〜69年に本格化する学園闘争
(大学紛争)の「雛形」が金沢大学で整えられていたことも注目される。当時の学生の1人 は、後に「学生会館闘争」を次のように回想している。「印象的な闘い・事件―学園闘争
(1966)―竣工直後の学生会館の管理運営をめぐって、同会館が占拠されたのが1966年 の春。こんな 無法 ができるのかという驚きとここまで行動に突き進む熱情と 時代の 流れ をハダで感じた――1966年金沢大学入学、匿名」(『全共闘白書』)。
次に、金沢大学の紛争の契機について言えば、それは問題ごとに存在するが、とりわけ 重要なのは1969年(2月)に自衛隊機が金沢市内住宅密集地に墜落したことであった。
軍事基地が存在する以上、そうした事件はいつでも起こり得るが、ベトナム反戦運動が高 まるなかでのそうした出来事は、その問題にとどまらず他の問題をも含む運動全体を高揚 させるという波及効果をともなったのである。金沢大学紛争の中心舞台の1つであった法 文学部においては、69年冬から春にかけて文科自治会がこの問題を「反安保」の課題と結びつ け、あわせて学内課題として「助手問題」、「講座制問題」を取り上げ、運動を強めた。
金沢大学紛争がピークに達するのは1969年のことであり、とりわけその後半期である。
先にそれ以前に学生側において運動する主体が形成されていたことと、大きな運動の契機 があったことを指摘した。以下では、紛争で問われた問題に即して金沢大学紛争の経緯を 辿ってみる。なお、叙述は『金沢大学50年史部局編』(以下『部局編』と省略)と当時の
「北国新聞」記事を参考にしていることをあらかじめ断っておく。金沢大学紛争では次の問 題が争点として重要であった。「大学立法問題」、「助手問題」、「教授会一本化問題」、「医学 部問題」、「学生自治権」である。大学全体が紛争に巻き込まれたが、なかでもその度合い が強かったのは教養部・医学部(および、がん研究所)・法文学部(特に文学科)であっ た。先に示した争点をめぐる紛争の経緯を追ってゆくが、「学生自治権問題」については独 自に項目をたてないで「大学立法問題」、「医学部問題」などの項で検討することにする。
大学立法問題
第1の争点である「大学立法問題」について言えば、金沢大学紛争の場合、大学紛争鎮 静化を狙って1969(昭和44)年に国会に上程された「大学の運営に関する臨時措置法」
(いわゆる「大学立法」1969年8月3日成立)が、逆に大学紛争を本格化させる効果をと もなった。金沢大学では、先に述べた69年2月の自衛隊機墜落事故、法文学部国文助手の 任期にかかわって生じた問題、さらに69年の春以降は医学部改革問題をめぐって学生・大
金沢大学医学部耳鼻咽喉科学教室教授 古 川 仭
豊田先生は、1932(昭和7)年金沢医科大 学(現金沢大学)卒業後、直ちに松田竜一教授 の主宰する耳鼻咽喉科学教室へ入局された。学 生時代から山川強四郎教授(1929年1 1月〜
1931年10月)の主宰する医局にせっせと顔を 出し、医局の先生にもかわいがられ、おかげで 夏休みには手術を教えてもらい、入局時には簡 単な手術は一人でもできたという、まさに古き 良き時代の申し子のごとくに言われる伝説的な 人である。1940年、富山県産業組合病院(現 厚生連高岡病院)の耳鼻咽喉科医長、日本農村 医学会理事、富山県医師会長の要職を歴任され、
1963年から松田教授の後任に大抜擢され第6 代目教授として赴任された。
定年退官までの10年間、ライフワークの農村 医学の研究を中心に、臨床臭覚検査法の開発、
頭頚部腫瘍の外科的治療の向上に努力された。このほかにも小児高度難聴者のために、全 国に先駆けて音声言語外来を開設したことは、特筆に値し、今なおその開設理念は現役人 に引き継がれ、そのスタッフを介して近年発足した聴覚言語療法士制度に少なからず影響 を与えた。
在任中、先生の温厚篤実な性格にふれ、医学教育の底に流れる人間尊重のヒューマニズ ムに接し、それに魅されて入局する者も数多く存在した。先生の主宰される医局は実に家 庭的な雰囲気に満ちあふれていた。それも、先生の世話好きで面倒見のよい親分肌の気性 によるものであった。常に自分を飾らない、高ぶらない庶民的感覚の持ち主で、医局の年 中行事としての僻地診療、ワラビ狩り、タケノコ狩り、海釣り、登山、麻雀・囲碁大会な ど、数え切れないほどたくさんの先生との楽しい付き合いの中で、先生は常に教授だから という特別扱いを嫌われ、旅館でも教室員と気軽に同部屋され、しかも決して相手に窮屈 な思いをさせられなかった。酒がはいると、特別上手とはいえないが率先して歌を歌われ
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豊田文一学長の横顔
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定年退官後は金沢大学長(第4代学長)に昇任され大学発展のために尽くされた。学長 としての在任期間は1973(昭和48)年9月22日より2期6年間であった。先生の教育理 念の一つである、世界に羽ばたく人材育成のためにと、海外の大学と数多くの姉妹校の提 携に成功された。今やその恩恵に浴した学生の数は相当数になっているはずだ。そのよう な数多くの業績に対して、1963年富山新聞文化賞、1971年高岡市市民功労賞、1977年 日本農村医学会賞、1979年北国文化賞、勲2等瑞宝章、1980年北日本新聞文化賞、
1982年高岡市民名誉市民の称号等、数々の栄誉に輝かれた。1991(平成3)年3月15 日惜しまれながら逝去。享年83歳、おそらく毎日が努力と根気の日々であったに違いない。
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