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(4)学生会館問題

ったので、6月16日に大学側は最終的な移転通告をし、大学側の強い態度を示した。寮生 は16日夜から17日早朝まで寮生大会を開催し、その結果、寮生の希望によって学寮委員 会委員との最終的な話し合いが行われ、ようやく17日午後9時に、移転後も学寮規程の運 用にあたっては今後も話し合いを継続していくということで、寮生側も遂に移転を了承し た。移転は、6月18日に8名・21日に26名・24日に21名、と3日間にわたってさみだれ 式に行われた。

1967年6月から進められていた第 II 期工事は翌年4月に完成し、15日に中川善之助学 長をはじめ関係者が出席して完成式が執り行われた。これによって、足掛け6年にわたっ て進められた新寮の建設計画はすべて終了した。北溟・泉学・白梅3寮の収容定員はかつ ての425名から754名と増加し、全学生のおよそ15%が入寮可能となった。しかし、北溟 寮の増加した収容定員はその一部74名が新入生の入寮によって充当されただけで、残る 75室150名分は空室のままとなった。原因は収容定員の増加によって、炊夫3名と用務員 1名を増員する必要があり、大学側ではそのうち炊夫2名分を寮生負担にする予定であっ たが、それに対して寮生が激しく反発したためであった。また寮生側は交渉の方式として 大衆団交を要求し、10月21日には午後6時半より翌22日午前8時に至るまで、学生部長 1人を約250名の寮生・学生で囲み軟禁に近い状態に置いた。大学側は大衆団交を拒否し、

学寮委員会によって作成されたパンフレット「学寮問題と大衆団交について」を全学補導 委員会と学寮委員会の連名で全学に配布し、一般学生の理解を求めた。またそれに先立ち、

学寮委員会はパンフレット「北溟寮の増員について」を寮生に配布し、炊夫の雇用問題等 について寮生の理解を求めた。そして、ようやく1968年12月18日に大学側と寮生・学生 側との間で整然とした話し合いがもたれ、正常化への途を歩みだしたが、その後も炊夫の 人件費負担についてはなお問題を残すところとなった。北溟寮の空き定員問題は容易には 解決せず、1970年においてもまだ130名が充当されないままであった。その後は、学生の 生活水準の向上や集団生活を忌避する傾向などによって、北溟寮はほぼ恒常的に空室を抱 えることとなった。

学生会館協力会の設置

1962(昭和37)年3月9日開催の第110回全学補導委員会の席上、学生部長は学生部 長会議の際に文部省学生課に学生会館について問い合わせた結果を報告し、次年度に予算 申請すべく十分研究する必要性を説いた。翌63年1月22日開催の第120回全学補導委員会 において「学生会館設置計画書」(案)が審議され、あわせて会館の維持と運営のために学 生会館協力会の設置が問題とされた。ちなみに、文部省からは会館維持費の配当はこない と当初考えられていたが、後に一部配当がくることがわかった。2月8日開催の第178回 評議会において、「金沢大学学生会館設置計画書」(案)などとともに金沢大学学生会館協力 会の設置が了承され、1963年度新入生の父兄より一口3,000円の寄付金を依頼することに なった。ただし、後に1966年度からは一口2,000円に減額された。63年5月25日には学 生会館協力会の理事会が開催され、役員および予算(案)が承認された。

学生会館建設準備委員会の設置

1964年(昭和39)年2月10日開催の第132回全学補導委員会において、学生課長より 学生会館問題は学生側と大学側とが納得のいく姿で解決しなければならないと説明があり、

各学部学生代表、生協代表、運動部・文化部学生代表、事務局、学生部などを含めた組織 として、準備委員会の設置が問題となった。その後、教養部自治会にも学生委員を出すよ う要請したが拒否されたため、各学部の責任において学生2名を選出することになった。

ただし、教育学部および工学部については、学生代表の出席は得られなかった。6月17日 に学生代表のほか、生協代表・教職員組合代表、および全学補導委員・学生部課長を含め て、学生会館建設準備委員会が発足した。準備委員会は約1カ月の間に6回開催され、学 生会館の構想計画(案)および関係規程(案)について協議したが、関係規程(案)につ いては成案が得られなかった。しかし、1965年度概算要求の提出期日が切迫していたた め、学生側の意向も取り入れた形で関係規程(案)を大学側で作成し、文部省へ「学生会 館設置計画書」を提出することになった。

学生会館建設専門委員会の設置

1964年8月4日開催の臨時全学補導委員会において文部省との交渉経過が報告され、会 館規程(案)に関する訂正の指示については、その取り扱いを学生部長に一任することに なった。また学生会館建設準備委員会の性格が再検討され、全学補導委員が教官代表とし て入るのには支障があるので、概算要求の提出も一応終わったのを機会に各学部から新た に委員を選出することにした。8月には文部省省議において概算要求が認められることに なった。そして、9月30日開催の第143回全学補導委員会において、「学生会館建設準備委 員会規程」(案)が検討・審議され、その名称を「学生会館建設専門委員会規程」(案)とする ことになった。その第3条によると委員会は、学生部長・各学部および教養部から選出さ れた教官1名・学生部次長・学生課長・厚生課長から構成されており、学生代表は除外さ

れた。各学部および教養部の意向を確かめた後、11月6日開催の第209回評議会において

「学生会館建設専門委員会規程」(案)は一部修正の上で審議・可決された。そして、12月1 日に学生会館建設専門委員の発令が行われ、学生会館建設専門委員会が正式に発足した。

第1回学生会館建設専門委員会は1964年12月7日に開催され、それ以降翌々年、66年 4月28日までに25回開催された。会館の建設場所、設計図面・設備、会館の管理運営機 構、会館規程(案)、会館運営協議会規程(案)、会館使用細則(案)などについて協議が行 われた。学生側との話し合いも6回行われたが、第3回目以降はいずれも不成立であった。

66年2月4日に行われた第3回目の学生との話し合いでは、学生約40名が会議室前の廊 下を占拠し、大学側の開催する説明会、および大学側が作成した学生会館規程案は認めら れないとして、建設専門委員および学生部職員の会議室への入室を阻んだ。同66年3月7 日開催の第159回全学補導委員会において、学生会館建設専門委員会によって作成された

「金沢大学学生会館規程」(案)、「金沢大学学生会館使用細則」(案)、「金沢大学学生会館運営 協議会規程」(案)が報告され了承された。またこれら3案は各学部教官および学生代表に も渡された。その後さらに修正が加えられ、5月4日開催の第163回全学補導委員会で審 議・決定された後、5月6日開催の第231回評議会において最終的に審議・決定された。

そして、学生会館は5月11日から正式に会館することが決定された。

学生会館不法占拠事件

1966(昭和41)年4月30日、学生会 館の開館に先立ち竣工式が執り行われた。

竣工式が始まると同時に、会館前では反 対派学生が抗議集会を開催した。5月2 日には全学補導委員会あてに、教養部自 治会委員長名で公開状が提出された。そ の取り扱いは学生部長に委ねられ、学生 部長は5月6日の評議会終了後、回答を 送付した。翌7日、一部学生代表は評議 会決定の白紙撤回、11日からの開館取り やめを主張し、約2時間にわたり石橋学 長と会見したが、学長は拒否した。

5月10日夜、開館を明日に控え、学生部長をはじめ職員が12時過ぎまで警戒にあたっ ていた。その段階では異常はなかったとのことであった。11日午前2時ころ、数名の学生 が厨房南側の倉庫より侵入したことが判明し、その後正面玄関入り口などから30数名の学 生が事務室前になだれ込んだ。職員との押し問答の末、会館の鍵は学生側に奪われ、職員 は軟禁状態におかれた。学生たちは館内の机や椅子などで各入り口を内側からバリケード 封鎖した。この間、学生と職員の間でかなり激しい衝突があったが、幸いにも双方に負傷

写真6−12 完成した旧城内学生会館

「北国新聞」1966年4月30日付)

者はなかった。

このような一部学生の暴挙に対し、大 学側は5月11日午前11時より、全学補導 委員会を招集し、占拠学生に対し即刻退 去の命令を出すとともに、一般学生に対 して学生部長告示を出した。翌12日午前 11時より再び全学補導委員会を開催し、

午後1時から学部長会議、午後2時から は臨時評議会を開催し対策を協議した。

その結果、13日からの学生会館の休館、

一般学生に対するPR資料の作成、占拠 学生に対する退去勧告、などが決定され

た。5月15日、運動部委員会委員長が、バリケードを解き学生による自主管理を中止する かわりに、大学側と学生側の話し合いの場をつくる、という調停案をもって事態の収拾に 動いた。5月17日には全学補導委員会を開催し、この調停について検討した結果、「申し 合わせ・了解事項」を決定したが、学生側はこの提案を拒否した。18日にも運動部委員長 と占拠学生との話し合いは行われたが、結局物別れとなった。この間、16日には学生部長 の「学生諸君に告ぐ」が全学生に配布され、また18日には占拠学生に対し図6−4のよう な学生部長の警告文が出された。

写真6−13 バリケード封鎖された旧城内学生会 館内部

「北国新聞」1966年5月11日付)

図6−4 警告文(1966年5月18日付)