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(4)大学院問題と金沢大学の将来計画

大学院問題専門委員会の活動

「ことの起りは次のようであった。1974年(昭和49)、本学理学部に三人の視学官が来 訪された。視察がすすみ、講評が早々に終わると、博士課程の構想が示唆された。理・

工・薬三学部の教官をあわせ、それに教育、教養等の自然科学系教官を加えて、これまで の学部からは独立の、学際領域をカバーする、後期三年間の博士課程を考えないかという 趣旨であった」(『金沢大学現状と課題1993』)。これは自然科学研究科創設に尽力した青 野茂行元学長の言である。

この1974年の前年12月の第317回評議会議事録中に大学構造委員会友枝委員長から

「大学院問題等の重要事項について本格的な検討を始めるべきではないかとの提案があり」、

それを受けて74年3月の第320回評議会で大学院問題専門委員会が設置されている。青野 の言葉を続けると、そのころは「上記三学部にはそれぞれ博士課程構想があったが、いず れも常識の積み上げの域を出ず、せいぜい大講座が話題にされた程度であった」。先の視学 官の示唆は「当時としては画期的なアイディアであった」と述懐している。

委員会は当初青野理学部教授を委員長に、早速検討を開始した。従来型(旧帝大方式)

の学部上乗せの博士課程ではなく、「画期的なアイディア」=総合大学院を実現しようとし た理由は青野によって次のように説明される。

博士課程を望む第一の理由は、我々の学問研究のフロンティアーを無限の彼方にまで拡張 することである。研究・教育の組織が修士課程までに限られていると、我々の日常の研究が、

どうしても修士論文の作成に制約されてわいしょう化する。それを乗り越えたとしても、研 究の後継者(それがどこで勤務しようとかまわない)の養成がほとんど不可能だから、せっ かくの学問が一代で途切れてしまう。これは知的創造の面から見ても大きな損害であろう。

学生の側からみても同じようなことが言える。学問はそれ自体が客観的な存在であることは いうまでもないが、客観に至る過程において研究者個人の個性が大きく働く。学生は、指導 者が小きざみに変わるごとに、研究のノウハウを会得するのにはなはだ戸惑う。指導者が時

には代わることが良いとされるが、大学院の途中で変わることは望ましいことではなく、数 年間の落ち着いた研究生活が一般には望ましい。(『金沢大学現状と課題1993』)

委員会の精力的な検討は約2年間にわたり、その成果は総合大学院自然科学研究科設置 となって結実した(1987年4月)。この間、「金沢大学大学院博士課程の将来構想に関す る報告書」(昭和51年1月10日、以下第1報告と略)、「金沢大学大学院博士課程の具体案 に関する中間報告」(昭和51年3月15日、以下第2報告と略)、「金沢大学大学院博士課程 に関する中間報告(その2)」(昭和51年5月19日、以下第3報告と略)を相次いで公表 し、また評議会へ答申した。この3つの報告の要点を略述する。

第1報告では、金沢大学の現状を踏まえ「学際領域における研究と研究者養成が焦眉の 急となりつつある」と認識し、新設博士課程大学院は「教育研究条件の格段の改善を前提 に、科学・技術の進歩と社会的要請に照応し、研究機関としての自立性と継承性の一層の 発展を保証しうる、新たな研究者養成を目的とする研究体制を作ること」と設置の目的を 明示する。その上で総合大学院の理念を次のように述べる。

委員会では、これまで学部ごとに計画し要求されてきた学部組織の上に積み上げる形式と は異なった、独立する組織形態が検討された(独立性)。そして、これを内容的に貫く基本を、

個別科学の深化と、これら相互を多面的で多様な様式によって総合しうるポテンシアルに置 き(総合性)、さらに発展への可能性を豊かにする要素として、学際的研究の発展(学際性)

と本学の地域的背景と要請(地域性)を加味した構想が追求された。

そして組織、修業年限、学位、教官組織、管理運営方式、事務組織のそれぞれの概略に ついて言及している。この第1報告が示した独立性・総合性・学際性・地域性という大学 院の新しい基本的在り方は、その後現在に至るまで継承されている金沢大学独自の理念で あるといえよう。

続いて第2報告は、金沢大学の博士課程大学院を総合人文・社会研究科と自然科学研究 科(いずれも仮称)の2研究科として立案している。そのうち自然科学研究科は基礎科 学・物質科学・生命科学・環境・エネルギー・システムの6専攻という規模で編成すると し、各専攻の説明を詳細に行っている。この段階では6専攻案という大きな規模を想定し ていたわけであるが、これは創設時の3専攻(生命科学・物質科学・システム科学)の基 礎となった。さらに現行の6専攻(物質構造科学・数理情報科学・生命科学・機能開発科 学・システム創成科学・地球環境科学)へとつながったことは言うまでもない。

第2報告は作成直後の評議会(1976年3月17日開催)に提案され、協議の結果「同報 告書を素案として文部省へ提出する」ことが了承された。

第3報告は、文部省に対する具体的な概算要求を前提とした作業報告となっている。約 2カ月間の短期間に、精力的な委員会での取り組みがすすめられた。それは全体を総合大

学院として構想し、前述の6専攻の説明とそれぞれに所属する講座の内容説明を行い、巻 末に教官数等について作表されている。全体で42講座、教授定員116、助教授115、学生 数77(1学年)と大規模なものを想定しているが、この点は後に軌道修正され、縮小され ていった。

もちろん概算要求をすすめるなかで、大学院の具体的な内容は変更され、整備されてい った。また人文・社会科学系の博士課程の研究科(現行の社会環境科学研究科)もその後 設置計画について試行錯誤が積み重ねられたが、金沢大学としての総合大学院構想の理 念・在り方といった基本的な考え方は、おおむねこの時点で議論の方向が定められたと言 ってよかろう。

将来計画検討委員会と将来計画

3つの専門委員会の活動がおおむね大きな山場を越えたころ、評議会において「学長

(注;豊田文一学長)から、大学院問題専門委員会の結論が近く出される予定であるので本 学の施設に関する発展計画を検討するため評議会に委員会を設置したい旨」提案がなされ た。1975(昭和50)年11月のことである。その後各部局から意見が出されて多少の紆余 曲折はあったが、約1年後「金沢大学将来計画検討委員会設置内規」(1976年10月22日 施行)が評議会で承認される運びとなった。規程は7項目からなる簡単なもので、その要 点は「金沢大学評議会に将来計画に関する必要な事項を検討するために」この委員会を設 け、学長・部局長で構成する。その委員会のもとに「特定の事項を検討するため、専門委 員会を置く」とし、「評議員で組織する」というものであった。

早速、第2回の将来計画検討委員会(以下、将来委と略)において「一般教育・教養部 に関する専門委員会」「大学院問題専門委員会」「新設部局等に関する専門委員会」の3つ が設置され、さらに第3回(1977年6月)の将来委において「キャンパス問題に関する 専門委員会」(これは1980年代の総合移転実施特別委員会の活動に引き継がれるが、その 詳細は第7章を参照)が設置されるところとなった。

その後1970年代末に至る時期の将来委・評議会の議論の大略は、法文学部分離、文・

法・経済学部創設、城内を含む総合移転、そして総合大学院の実現といった流れの将来構 想にまとまっていったと整理することができる。もちろん総合移転決定の過程に代表され るように、文字どおり全学をあげての大論争がそこでは展開される。おおいに「生みの苦 しみ」を味わった時期も存在した。しかし、その過程は一部の部局や部局長のみの形式的 な議論ではすまされず、それぞれ制約や限界はあったものの情報開示と審議の公開が一応 なされたといえよう。大きく見るならば、大学構造委員会や関連委員会が管理運営などの 全学的諸問題に対する活動と検討をすすめ、それが一定の前提としての役割を果たし、学 内コンセンサスを形成していったと評価できるのではなかろうか。

6 附属学校園

金沢大学における附属学校園とは、教育学部に附属する小学校・中学校・高等学校・養 護学校・幼稚園の5校園を指す。附属学校園は、「教育学部の教育計画の実施に協力」する 役割を負っている(教育学部附属学校規程)。学部と各校の連絡調整を図るために、金沢大 学教育学部附属学校協議会や教育学部附属学校園検討委員会が設けられている。

ここでは、①附属学校園の制度・施設整備などの変遷、②平和町地区統合移転整備にか かわる経過の概要、③各校園の現状の3点に絞って述べる。各校園の歴史の詳細について は、『金沢大学50年史部局編』第14章「教育学部附属学校園」、および学校園それぞれの 沿革史、記念誌などがあるので、それらを参照されたい。