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3章 近世以降

ドキュメント内 環太平洋連合 (ページ 55-85)

話がいきなり近世に飛んで恐縮であるが、戦国時代以降 の日本の歴史を考えてみたい。古代や中世についても語り たいことは多々あるが、本論から外れるので別の機会に譲 る。戦国時代の画期を示すものとして、1543年の種子島へ のポルトガル商人漂着による鉄砲伝来、1600年に豊後に漂 着したオランダ商船リーフデ号(西暦1600年4月19日、佐

の入江に今にも壊れそうな、とてつもなく大きな帆船 が漂着した。遠いオランダの地から、東洋の国ジパング 日本 へ向けて旅立った5隻の船団〈ホープ号500トン・

乗員130人、リーフデ号300トン・110人、ヘローラ号300ト ン・109人、トラウ号220トン・86人、スハッブ号150ト ン・56人〉の中でただ1隻だけ、1年10カ月におよぶ苦難 の航海の末日本に到着した船、それがオランダからの初め ての船、リーフデ号であった。この船には、江戸時代、日 本とイギリス、オランダ両国の友好をとりもつことになっ たウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが乗ってい た)が挙げられる。

1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した 年である。

この時代、世界史の中では15世紀末に始まった大航海時 代の末期にあたり、ヨーロッパのプロテスタント国家オラ ンダも東洋進出に躍起になっていた。

オランダという国が正式に公認されたのは1648年だった ので、リーフデ号がオランダを出発した1598年という年は、

オランダがスペインから独立を宣言した1581年からわずか 17年しか経っておらず、まだ独立戦争の最中のことであっ た。日本には1543年に欧州勢力としてポルトガル商人が種 子島に漂着して火縄銃を伝達しているから、カソリック国 とは面識があったが、オランダ船により、プロテスタント 国との接点ができたわけである。ときの権力者、豊臣政権 の大老筆頭徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味 を示した。船に積まれていた武器が、一番の目当てだった。

リーフデ号が運んできた武器は全て没収され、ヤン・ヨー ステンとウィリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上る よう命じられた。そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介 して取り調べを受けることになる。運良く彼らの返答は家 康の気を良くし、臼

うす

で被った損害も補償された。日本に 残った乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日 本人女性と結婚している。こ

の漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには 西洋諸国の戦況に関する情報など、非常に役立つものを握 っていた(リーフデ号の乗組員のある者は家康の上杉景勝 討伐に砲手として参加したと伝えられている)。中でもウ

ィリアム・アダムスは三浦按針の日本名を与えられ、また 江戸橋に邸宅、相模国三浦郡逸見村に220石あるいは250石 の領地を与えられ、家康の外交顧問として活躍した。彼の 業績としては、日蘭貿易のための画策およびイギリス東イ ンド会社へ日英貿易の利を説き平戸のイギリス商館開設の 窓口となったことや、航海士としての技術を生かした洋式 帆船建造などが挙げられる。ヤン・ヨーステンは家康に仕 え外交の諮問に応じる立場として活躍し、オランダの日本 貿易独占に尽力した。東京都中央区「八重洲」の地名は、

「ヤン・ヨーステン」が転訛したものと言われる。

この中で私が注目するのはオランダ商船からもたらされ た武器、長射程艦載砲である。当時の日本にはなかったで あろう、この武器が、家康に天下取りの意欲を抱かせ、関 ヶ原の合戦へと繋がったとは言えないだろうか。わずか、

関ヶ原の合戦の半年前のことである。この因果関係を証明 する術はない。しかし、状況証拠を考えると、この時期の オランダとの接触が家康に天下を取らせ、褒美がポルトガ ル、スペインを排除してオランダへの独占的交易権の付与 であったのではないか。証明はできないが、辻褄は合って いると考えるがいかがであろうか。もし、このことが証明 されたらどうなるか。日本史は、このとき以降独立した歴 史ではなく、欧州勢力によって支配者が決められたという ことである。間接的な意味での植民地である。陰謀史観と の謗

そし

りを覚悟で言えば、鎖国(この用語も適切ではない。

選択的開国というのが正しい)の真の意味とはオランダと 徳川家で談合して徳川家による日本支配とオランダの交易 を相互承認し、他の勢力(伊達、島津、毛利、前田等の外 様大名)がカソリックのスペイン、ポルトガルと結びつか ないようにするための規制、枠組みであったのではないか。

島原の乱(1637年のキリシタン一揆。天草〈益田〉四郎時 貞〈当時16才〉を総大将にし、原城〈南有馬町〉に総勢3 万7000人で90日間たてこもった。1637年12月、総大将天草 四郎時貞の下、キリシタン信仰を団結のよりどころに島原 天草の農民3万7000人の一揆軍が原城にたてこもり幕府軍 12万5000人と戦いを繰り広げた。翌年の2月28日、一揆軍 は総攻撃を受け、老若男女問わず皆殺しとなった。日本史 上もっとも悲惨な事件とされる)で幕府がカソリックに恐 怖を抱いたことが最大の契機となった。

このように考えると、カソリック勢力と接触し、支倉常 長(慶長18年9月15日〈1613年10月28日〉、仙台藩主・伊 達政宗の命を受け、メキシコ、スペイン、イタリア、そし てバチカンと旅した)を派遣した伊達政宗は、徳川+オラ ンダ連合にカソリックと組むことにより対抗しようとした のではないか。

話は前後するが、1543年種子島に漂着したポルトガル商 人によりもたらされた鉄砲が30年後には織田信長により集 中利用され、戦国時代を収束した点も重要である。日本史

の教科書には、この鉄砲の集中利用(長篠の戦い:1575年

(天正3年)には3000丁の鉄砲が集中利用された)が信長 の覇権を決定づけたような記載がされているが、ここで忘 れてはいけないのは、鉄砲そのものは、日本刀の生産技術 を応用することで国産が可能であった(砲身の尾栓を塞ぐ ネジの技術のみが当時の日本になかった)が、火薬の原料 たる硝石は国内では産出せず、ポルトガル商人からの輸入 に頼ったということである。信長が堺の支配にこだわった のは、マカオから堺にもたらされる硝石を独占するためだ ったのである。これは、すなわち、この戦国期というのは 日本史が欧州から影響を受け、ありていに言えば、シーパ ワーたる欧州勢力との提携が国内政治の覇者を決めるよう になった時期なのである。これをエージェントと言うべき かどうか意見は分かれると思う。江戸時代に入ると欧州シ ーパワーの中でイギリス、オランダというプロテスタント 諸国にのみ交易を許し、スペイン、ポルトガルは排除した。

イギリスはアダムスや平戸のイギリス商館初代館長コック スの賢明な営業努力にもかかわらず、オランダとの競争に 敗れ、10年で平戸を撤退した。これは幕府が排除したので はなく、単に営業的判断であっただろう。幕府はカソリッ クを南蛮人、プロテスタントを紅毛人と呼んで明確に区別 していたのである。オランダとの交易の重要な点として、

オランダ船が長崎に入港すると、まず風説書が提出された ことが挙げられる。これにはヨーロッパからアジアの政治

情勢などが記載されており、幕府の貴重な外交上の情報源 として重要視されていた。

これは1641(寛永18)年以降その提出が義務づけられた。

むしろ、この情報を得る見返りに交易を認めたというのが 真相であろう。当時の日本にとってオランダから輸入する もので必要不可欠なものは、この世界情勢に関する情報以 外にはないのである。風説書の内容は極秘扱いであり、老 中以外は内容を知ることができないため重大な情報を得た としても適切な対応ができなかった。が、極秘扱いとはい え、一部の諸藩はこれに大きな関心を持ち、長崎駐在の聞 役(藩と長崎奉行との連絡に当たる要職)の暗躍で、通詞 の訳文の控えが外部に洩れていたようである。

その情報はかなり詳しいものであり、例えば、1673年、

イギリス船リターン号が来航して貿易の再開を求めたと き、幕府はイギリスの王室とカソリック国のポルトガル王 室とが姻戚関係にあることを理由にその要求を拒否してい る。その根拠となった情報は、1662年の阿蘭陀風説書であ り、チャールズ2世が1662年ポルトガル王女カサリンと結 婚した事による両国王室の姻戚関係を知っていたのであ る。これをどう見るか。言い方を変えると、オランダの情 報に依存するということは、とりもなおさず、オランダに よる恣意的な加工がされた情報にも頼ってしまうというこ とである。「カソリックが領土的野心がある」などといっ たことも当然吹き込まれたであろう。

ドキュメント内 環太平洋連合 (ページ 55-85)

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