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''1所:「大不況下の11t界1929~1939」

cP・キンドルバーガー署,71崎 昭彦・木村一朗訳(東大||}版会)。

第1節前史

自由貿易が意識的な運動として初めて展開されるようになったのは1820 年、ロンドンの貿易業者が議会に提出した請願書である。その請願書は次のよ うな文章ではじまっている。「対外商業は、他の諸国の土地、気候、資本なら

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びに産業がその生産に最も適している商品を輸入し、そのかわりに自国の環境 がその生産により適している物資を輸出することを可能にするので、1国の繁 栄を著しく増大します。

制限をとめることは、外国貿易を最大限に拡大することになり、その国の資 本と産業に最善の進路を提供することになると考えれます。

最も安い市場で購買し、最も高い市場で販売するという、すべての商人がそ の個人的取引においてしたがう格言は、すべての国民の貿易によって最善の規 則として、まさに文字通りあてはまります。

これらの原則に基づく政策は、世界の商業を相互に利益をもたらす交換たら しめ、各国の住民の間に富と享楽を増大させるでしょう。---」注,

このようにして始まった運動の結果、16世紀以来の重商主義政策のシンボ ルであった航海条令と穀物条令が1849年に全廃され、19世紀半ば、イギ

リスは自由貿易国に転換した。

ところが1870年以後になると、イギリス産業の優位に対する、ドイツ、

アメリカの挑戦がおこり、第1次大戦を契機にしてイギリスの優位は完全に喪 失した。このような推移の中で、イギリスでは1881年公正貿易連盟が結成 され、産業・貿易に対する保護主義的な政策が目だつようになった。そして第 1次大戦を経た1920年代には、保護主義立法を制定し新しい産業を保護す る輸入税創設に踏み出していった。

ところで第3-2図表にみるように、1920年代における世界工業生産に 占めるイギリスのシェアは9%に落ちており、アメリカのシェアは42%に上 っていた。したがって仮にイギリスが保護主義にはしっても、アメリカが門戸 を開き自由主義に転換すれば、世界全体として、自由貿易に踏みとどまること は可能であった。アメリカは覇権国への転換に蹟づき、世界経済の危機を強め てしまったのである。

アメリカにおいては、第一次大戦後の戦後恐慌が引き金になって、1921 年に農産物の関税引き上げ、22年にフオードニィ・マッカンバー関税による 工業品の関税が引上げられた。そして30年には29年の大恐慌によって悪名 高いホーレイ・スムト関税を制定して、関税戦争を主導することになった。

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第3-2図表世界エ業生産における地域別・国別シェア(1820-1971年)

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森田桐郎他編『近代国際経済要覧」12頁

この点について、ウオルト・ロストウは日本における講演で、次のように述 べている。

「われわれ米国人は、こんにち日本が経験している転換期の厳しさを理解して いる。あるいは理解すべきである。それは米国人が第1次大戦後に直面にた転 換期と大いに似ている。あの際、米国は世界で最大かつ最も強力な経済的立場 に立った。問題は、われわれ米国人は自ら責任を負うのか、ということであっ た。米国人はこの試練に打ち勝てなかった。最も重大な時期に米国は関税を引 き上げ、国際資本の主要な源泉として、金融システムを守る義務を果たせなか った。この二点についてのわれわれの失敗は、1929年以降の不況が必要以 上に深刻となり長引くのに力をかした。そしてこの意味で、米国が行動しもし くは行動しなかったことが、結局、第2次大戦が起こるのを助けたのである。

私がいまこの苦痛に満ちた話をするのは、第3次大戦が起こりそうだと信じて いるからではなく、その逆である。新興の経済大国がかってのイメージと慣行 とを脱ぎ捨て、人間社会のリーダーとしての役割を果たす、逃れえぬ責任を負 うことがいかに重大であるか強調したい。」注'0

1934年以降、アメリカ政府部内でも保護主義からの転換が検討されるよ

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うになった。「20世紀のコブデン」といわれる国務長官コーデル・ハルの草 案になる、無条件最恵国待遇を原則とする互恵通商法が34年6月に成立をみ た。互恵通商法の成立はイギリスからアメリカへの覇権の交替を告げるもので あり、以後アメリカは自由貿易の旗手として、保護主義に傾くイギリスを第1 の相手として貿易レジームの確立に力をそそぐことになる。

1941年に制定された武器貸与法には、無差別、多角主義の自由貿易の政 策目標が掲げられており、第2次大戦中の対イギリス武器援助と引きかえに、

アメリカは自由貿易の原則をイギリスに受諾させ、1932年のオタワ協定に よるイギリス連邦特恵関税の解体を迫ったのである。1941年の大西洋憲章 にも、戦後世界経済の再建に関して、自由、無差別、多角主義の原則が掲げら れている。このような原則と潮流に沿って1944年、ニューハンプシャー州 のブレトンウッド協定が成立し、戦後の経済レジームが制定されていくことに なったのである。

第2節GATTからWTOへ

1944年のブレトン・ウッズ会議で国際復興開発銀行(世界銀行)とIM Fの設立がきめられたのに続いて、米国政府は1945年「世界貿易及び雇用 の拡大に関する提案」を発表した。「提案」に世界貿易に関する国際協定を締 結し、国連の下に国際貿易機関(ITO)の創設が提唱されている。

この米国の提案にもとづいて、1948年3月に「国際貿易機関憲章」が 53ヶ国によって調印された。ITO憲章は、関税、貿易制限、補助金、雇用 など国際貿易に関する全分野にまたがる原則を規定し、その実施のための機関 としてITOの設定を規定している。

ところが、米国議会では強力な反対に直面して、ITO憲章承認のための本 格的審議に入ることさえできず、(英国も戦災からの復興のために英連邦特恵 や輸入制限を必要としていた)憲章承認を断念した。こうしてITO憲章は、

リベリア、オーストラリア2ヶ国の批准をえたのみで、遂に葬られることにな った。

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ところで、ITO憲章の提案と並んで1947年、ジュネーブで関税交渉が 行われたが、その結果を条約にまとめたのがガットである。ガットは1948 年1月、ITO憲章より-足先に出来あがったが、ITO憲章の不成立にとも ない憲章に代わるレジームの役割をはたすことになった。そのため、ガットは 1947年署名の「ガットの暫定的適用に関する議定書」として発効し、今日 に至るまで暫定的適用のままで推移してきたことになる。

ガットはその前文で、生活水準の向上、完全雇用、資源の完全利用を目標と し、そのために貿易障害の軽減と貿易における差別を廃止するため、相互的・

互恵的な取決めを結ぶことをうたっている。その目標達成のため、最恵国待遇

と内国民待遇を原則として、貿易における数量制限撤廃と関税引下げをめざし て貿易交渉を行ってきた。(第3-3図表)

第3-3図表ガットにおける多角的貿易交渉の歴史

筑紫勝麿編著『ウルグアイ・ラウンド』4頁

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時期 交渉名

参加国数

交渉成果

1947年 1949年 1950年~51年 1956年 1961年~62年 1964年~67年

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