粱 夢 事
」 に お け る 楊 亀 山 の 漢 詩 に つ い て
は じめ に
『太 平 記
』巻 二 十六
「黄 粱 夢 事」 に は中 国 の 有名 な 故 事「 黄 粱夢
」が 引 用 さ れて い る
。こ の 故事 の 末 尾に は
、 つぎ の よ うな 一 首 の漢 詩 が 置か れ て い る。 少
年 勤 学志 須 張
少 年 より 勤 め て学 ん で 志須 く 張 るべ し 得 失 由 來一 夢 長
得 失 由來 一 夢 長し 試 問 邯 鄲欹 枕 客
試 み に問 ふ 邯 鄲枕 を 欹 つる 客 人 間 㡬 度熟 黄 粱
人 間 㡬度 か 黄 粱を 熟 せ しむ と
1
この 漢 詩 は宋 代 詩 人の 楊 亀 山 の「 勉 謝 自明
」と 題す る も ので あ る
。先 行 研 究で は『 太平 記
』 に おけ る「 黄 粱夢
」説 話 の生 成 に つ いて は 考 察さ れ て いる が
、楊 亀山 の 漢 詩が ど の よ うな 経 路 で 受 容 さ れた か に つ い て は ま だ 明 ら か に さ れ て い な い
。 本 章で は 五山 僧 の 宋 代 の 学 問 を 検 討し な が ら、
『 太 平記
』 に おけ る 楊 亀山 詩 の 受容 経 路 の論 証 を 試み る
。 第一
節 先行 研 究に つい て 巻二
十 六「 黄粱 夢 事
」に 関す る 先 行研 究 の 中で
、最 初 に 楊亀 山 の 漢詩 の 問 題に 触 れ たの は 増 田欣 氏 で ある
。増 田 氏は
「 楊 亀 山の 詩 が 引用 さ れ て いる と い うこ と は
、き わ め て 斬新 な こ と なの で あ る。
『 亀 山集
』 か らの 直 接 の引 用 と は考 え が たく
、 黄 粱夢 の 説 話に 付 随 して も た ら され た の であ ろ う が、 媒 介 者 への 追 求 を重 視 す るこ と で
、さ らに 一 歩
、同 時 代 的 な 影響 関 係 の考 察 へ と近 づ け てい く こ とも で き るの で は ない か と 考 えて い る」 と 指 摘し た
2
。増 田 氏 は 直接 の 典 拠を 示 し たわ け で はな か っ たが
、『 太平 記
』 がい か に して 楊 亀 山の 詩 を 受容 し た か
、一 つ の 可 能性 に 言 及し た の で ある
。そ の後
、伊 藤 正 義氏 は
、『 太 平 記』 に 引 用 され た「 黄 粱 夢」 説 話 が『 和 漢 朗詠 集 和 談鈔
』「 仙家
」 の
「壺 中 天 地乾 坤 外、 夢 裏 身 名旦 暮 間
」に 施 さ れ た注 と 似 てい て
、そ の 原 拠 を明 ら か にす る こ とは 難 し いが
、日 本で 変 容し た 邯 鄲 譚の 一 型 と して 重 視 すべ き だ と述 べ た
。3
楊 亀山 の 詩 への 言 及 はな い が
、『 太 平記
』の 故 事 の もと に な っ たも の と して
、日 本 中世 固 有 の「 黄 粱 夢
」理 解が あ っ たこ と を 指摘 し た 点は 重 要 で ある
。 ま た、 張 静宇 氏 は「 黄 粱 夢
」説 話 に登 場 し た「 呂 洞 賓」 が『 詩 人 玉 屑』 か ら影 響 を 受け た 可 能 性 が 高 い こと を 指 摘 す る と と も に
、 楊 亀 山 を 讃 え る 五 山 僧 の詩 作 を 考 察 す る こ と に よ っ て
、巻 二 十 六「 黄粱 夢 事
」に は宋 元 文 化に 通 じ た五 山 僧 の影 を 窺 うこ と が でき る と 指 摘し た
。4
『 太平 記
』に おけ る「 黄 粱夢
」説 話 の生 成 に つい て
、先 行 研究 が 指 摘し た よ うに
、ま だ 原 拠 がわ か ら ず、
『 太 平記
』 に おけ る 創 作の 部 分 がど の 程 度あ っ た のか
、 判 断し に く いと こ ろ が ある
。ま た
、楊 亀 山 の 詩を ど の よ うに し て 受容 し た かと い う 問題 に つ いて も
、考 察 の余 地
- 32 -
が 残さ れ て いる
。 第二
節 宋学 の 伝来 楊亀
山 は 宋学 の 代 表的 人 物 で ある
。 よっ て
、『 太平 記
』に お け る楊 亀 山 の詩 の 受 容を 明 ら か にす る た めに は
、日 本 へ の 宋学 の 伝 来と 受 容 の問 題 を 把握 し な けれ ば な らな い
。と はい え
、 宋 学と い う 言葉 を 一 言で ま と める こ と は難 し い
。山 井 湧 氏に よ れ ば、 宋 学は 宋 代 の 儒学 と い え
、そ こ には
「 實 学」
、「 春秋 学・ 名分 論
」、
「 道 学
」な ど 幅 広い 内 容 が含 ま れ てい る
。そ の 中 で
、当 然、
「 道学
」に 当 た る「 朱 子学
」が 一 番 重要 な も のだ と 考 えら れ る
。5
で は、 日本 に お け る宋 学 は いつ 頃 に 伝入 さ れ たの か
。東 福寺 の「 普 門 院経 論 章 疏語 録 儒 書等 目 録
」に は入 宋 の 僧侶 で あ る円 爾( 一 二〇 二
― 八
〇) が 持 ち 帰っ た 朱 熹の
『四 書 集 注』 を始 め
、朱 子学 関 連 の 本が 多 く 記載 さ れ てい る
。こ れ ら に つい て は 日本 儒 学 史 研究 の な かで も 注 目さ れ て いる
6
。 小 島 毅 氏 は 十三 世 紀 か ら 十 六 世 紀 に か け て の 日 本 の 朱 子 学 受 容は
、 も っ ぱ ら 禅 僧 に よ っ て な され た と 指摘 し て いる
7
。鎌 倉 時 代 の後 期 に は宋 学 は 既に 日 本 に伝 わ っ てい た と 考 えて よ い だろ う
。 とこ ろ で
、近 年 の 研究 で は
、森 田 貴 之 氏が
『 太平 記
』巻 三 十 九 に引 用 さ れた 司 馬 光 の漢 詩
「 春遊
」に つい て 考 察し
、こ の詩 を 享 受す る 層 とし て も っと も 有 力な の は 五山 僧 だ と 考え ら れ ると 指 摘 した
8
。ま た
、先 に 言 及 した 張 静 宇氏 は 巻 二 十六
「黄 粱 夢 事」 にお け る 呂洞 賓 の 故 事の 受 容 につ い て
、五 山 僧 の文 化 圏 と何 ら か の関 係 を 持つ だ ろ うと 述 べ てい る
9
。こ れ ら の 研究 で は
、『 太 平 記』 の 成 立に は 五 山僧 と の 深い 関 わ りが あ る こと が 示 唆さ れ て い る。 だ と す ると
、 五 山 僧 に 受 容 さ れ た 宋 学 と は ど の よ う な も ので あ っ た か を 明 ら か に す る 必 要 があ る
。ま ず
、虎 関 師錬
( 一 二七 八
― 一三 四 六
)は
『元 亨 釈 書』 巻 二「 栄 西 伝 賛
」で
「 仲 尼 殁而 千 有 餘歲
、縫
二掖 之
一
者幾 許 乎
、唯 周 濂 溪 獨擅
二
與 繼之 美
一
矣
」と 述 べ てお り
1
、0
宋 明 理 学の 始 祖 であ る 周 敦頣 を 高 く評 価 し てい た こ とが 窺 え る。 そ の ほか に
、『 済 北 集
』に は 理 学 の大 家 で ある 程 明 道、 程 伊川
、ま た 朱 熹
、司 馬光 へ の 評 論も 見 ら れる
1
。1
ま た
、中 巌円 月
( 一三
〇
〇
―七 五
)は
「 辨
二朱 文 公 易傳 重 剛 之説
一
」に おい て「 朱 之 為
レ儒
、補
レ
罅苴
レ
漏
、鉤
レ玄 闡
レ
微
、可
二
以 繼
レ周 紹
一レ
孔 者 也
」と 述 べ
12
、 朱 熹を 高 く 評 価し て い る。 ま た
、「 夫 伊 洛 之 學、 張 程 之徒
、 夾
二注 孔 孟 之書
一
、 而設
二
或 問辨 難 之 辭
一」 な どの 理 学 に つい て の 論述 も 見 ら れ1 3
、 理 学の 核 心 的 な 人 物で あ る 張 載 や 程明 道
、 程 伊 川 にも 言 及 し て い る。 後 の 義 堂 周 信 も『 空 華日 用 工 夫略 集
』永 徳 元 年( 一三 八 一
)九 月 廿二 日 条 で「 近 世儒 書 有
二新 舊 二
一義
、 程 朱等 新 義 也、
( 中略
)四 書 盡
二
朱晦 菴
一
、々 及 第以
二
大 慧書 一 卷
一
、為
二理 性 學
一本 云 々
」と 述 べ
、ま た 永 徳 元年 九 月 廿 五日 条 に も
「 漢以 來 及
レ
唐儒 者
、 皆
二拘 章 句
一
者也
、 宋 儒 乃理 性 達
、 故 釋義 太 高
」と 論 じ
14
、宋 代の 理 学 に 対し て 深 い理 解 を 持っ て 評 論し て い たこ と が わか る
。 要 する に
、『 太 平 記
』の 成 立 する 前 後 には
、 五 山僧 た ち は宋 学
、特 に 程 朱理 学 を 受容 し て い た ので あ る
。
- 33 -
第三 節 楊亀 山 の受 容と 五 山僧 次に
楊 亀 山の 受 容 の問 題 に つ いて 考 察 を進 め よ う。 楊 亀 山( 一
〇 五三
― 一一 三 五
)、 姓 は 楊
、名 は 時
、字 は 中立
、亀 山 先生 と 号 する
。北 宋 末 期 から 南 宋 初期 の 学 者で あ り
、先 に 言 及 し た宋 代 の 理学 の 先 駆で あ る 程明 道
、 程伊 川 に 師事 し て
、「 洛 学
」を 推 進 した 重 要 な人 物 で あ る。
『 宋 史
』「 楊 時 伝」 に「 一日 見 頤
、頤 偶 瞑 坐時
、與 游酢 侍 立 不去
、頤 既 覺、 則 門 外雪 深 一 尺矣
」と の 記 載 があ り
15
、こ れ は 有 名な 典 故「 程 門 立雪
」の 由 来 を 伝え た も の であ る
。一 方
、五 山 僧 がこ の 典 故を 用 い て詠 じ た 詩も 少 な くな か っ た。 例 え ば 西胤 俊 承
、惟 肖 得 巌、 南 江 宗沅
、瑞 渓周 鳳 の 文集 に「 十雪
」詩 があ る
。そ のう ち に「 伊 川 門 雪」 と い う題 の 詩 があ る
。 こ れは 張 静 宇氏 も 注 目し た も ので あ る が1 6
、こ こ では 西 胤 俊 承( 一三 五 八
―一 四 二 二)
『 真 愚 稿』 に 載 せら れ る
「伊 川 門 雪」 の 詩 を取 り 上 げよ う
1
。7
雪 撲 講帷 凍 不 翻 雪 講 帷 を撲 つ て 凍り て 翻 らず 先 生 瞑目 到 黃 昏 先 生 瞑目 し て 黃 昏に 到 る
當 初 二子 傳 何 事 當 初 二 子の 傳 何 事ぞ 人 仰 醇儒 一 代 尊 人 醇 儒一 代 の 尊 を仰 ぐ 題名
「伊 川 門 雪」 の とお り
、こ の 詩 は「 程門 立 雪
」の 故 事 を讃 え る もの で あ る。 西胤 俊 承 は「 伊 川 門 雪」 だ け でな く
、雪 を テ ー マに し て「 十 雪
」詩 を 詠 じ てい た
。こ の「 十 雪
」詩 の 題 につ い て
、今 泉 淑 夫 氏は 元 代 の 詩総 集『 皇 元風 雅
』に 収 録さ れ た「 十 雪題 詠
」に よる も の だ と指 摘 し た1 8
。「 十雪 題 詠
」と は漢
・晋
・唐
・宋 の 総じ て 十 人の
「雪
」に 関 す る 故事 を 選 ん で、 そ れ を『 蒙 求
』に 似 た 四字 熟 語 で詩 題 と する 七 言 律詩 十 一 首の 連 作 であ る
。詩 題 は 以 下 の通 り
、「 韓 王 堂 雪・ 伊 川 門雪
・ 袁 安臥 雪
・ 李愬 淮 雪
・王 猷 渓 雪・ 李 及 郊雪
・ 蘇 武 羝雪
・ 鄭 綮驢 雪・ 孫 康書 雪・ 欧 陽詩 雪
」で ある
1 9
。そ の う ち の 二番 目 の 詩題
「 伊 川 門雪
」は
「 程 門 立 雪」 を 詠 じた 詩 で ある
。左 に『 皇 元 風雅
』後 集 巻六 に 収 め られ た「 伊川 門 雪
」を 引 く
20
。
( 遠藤 先 生 の質 問
、 作者 は だ れだ
) 户屨
天 寒 侍講 帷 户屨 天 寒 く して 講 帷 に侍 す 先生 暝 目 坐如 尸 先生 暝 目 し て坐 す る こと 尸 の 如し 丈函 立 久 已潛 悟 丈函 立 つ こ と久 し く して 已 に 潛に 悟 り 尺瑞 積 深 渾不 知 尺瑞 積 も る こと 深 き も渾 て 知 らず 白室 虛 生 初見 頃 白室 虛 生 す るは 初 て 見ゆ る 頃 紅爐 㸃 化 且休 時 紅爐 㸃 化 す るは 休 む 時 一家 教 法 清和 異 一家 の 教 法 清和 異 な り 伯子 春 風 更可 師 伯子 の 春 風 更に 師 と すべ し
- 34 -
右の 詩 の 第一 聯「 户 屨 天寒 侍 講 帷、 先 生暝 目 坐 如尸
」が
、西 胤俊 承「 伊 川 門雪
」の 第 一 聯
「 雪撲 講 帷 凍不 翻
、先 生 瞑 目 到黃 昏
」の も と に なっ た こ と が確 認 で きる だ ろ う。 ま た「 程 門 立 雪」 と い う 故事 は 楊 亀山 の 個 人文 集 に 見る こ と はで き な い。 よっ て
、今 泉氏 が 指 摘 した よ う に、 五 山 僧に お け る楊 亀 山 の「 程 門 立雪
」 の 故事 の 受 容は
、『 皇元 風 雅
』の
「 十 雪」 詩 に よ るも の だ と思 わ れ る。 第四
節
『太 平 記』 に引 用 され た 楊亀 山の 詩に つい て 上述
の よ うに
、『 太平 記
』 が成 立 す る時 期
、 五山 僧 は 宋代 の 理 学を 既 に 受容 し て いた
。 ま た
、五 山僧 は 楊 亀山 に 関 する 故 事 に 触れ 得 る 環境 に あ った と 考 えら れ る
。し か し、
『 太平 記
』 に 引用 さ れ た漢 詩 は「 程 門 立 雪」 に 関 する 詩 で はな く
、楊 亀 山 自 身 が詠 ん だ 詩で あ っ た。 そ こ で、 こ の 詩 の受 容 経 路を 詳 細 に 考察 し よ う。 ま ず
、巻 二 十六
「黄 粱 夢 事」 の 一 節 を引 く
。 昔
漢 朝ニ 才 無 シテ 富 貴 ヲ願 フ 客 ア リ、 楚 国 之君
、賢 才 之 臣ヲ 求 給 フ由 ヲ 聞 テ、 恩ノ 爵 ヲ 貪 ラ ン為 ニ
、則 楚 国 へ ソ趣 ケ ル
、路 ニ 歩 疲レ テ
、邯 鄲 之 旅 亭 ニ暫 ク 休 ミケ ル ヲ
、呂 洞 賓 ト 云 仙術 之 人
、此 客 之心 ニ 願 フ 事、 暗 ニ冨 貴 之 夢ヲ ミ ス ル一 之 枕 ヲソ 借 シ タ リケ ル
、 客 此 枕 ニ寝 テ 一 睡シ タ ル 夢ニ
、 楚 国之 侯 王 ヨリ 勅 来 テ客 ヲ 召 サル
、( 中略
) 倩 夢ノ 中 ノ 樂 ヲ カ ソフ レ ハ
、遥 ニ 天 位 五十 年 ヲ ヘタ リ 云 共、 覺 テ 枕 ノ 上ノ 眠 ヲ 思ヘ ハ
、僅 ニ午 炊 一 黄 梁 之 間ヲ 過 サ リケ リ
、客 爰ニ 人 間 百年 ノ 楽 モ、 枕 頭 片 時 ノ夢 ナ ル コト ヲ 悟 リテ
、自 是 楚 国 ヘ ハ越 ス
、忽 身 ヲ 捨
、世 ヲ 避 ル人 ト 成 テ、 遂 ニ 名利 ニ 被 繋心 ハ 無 リケ リ
、是 ヲ 楊 竜 山 カ 謝 日月 詩 云
、少 年 勤 学志 須 張
、得 失 由 来一 夢 長
、試 問 邯 鄲 欹枕 客
、人 間 幾 度熟 黄 梁
、 是 ヲ 邯 鄲午 炊 之 夢ト ハ 申 也、 貞和
四 年( 一三 四 八
)に 三 種 神 器 の一 つ の 宝剣 が 伊 勢の 海 に 出現 し た
。こ の 宝 剣 を 託さ れ た 日野 資 明 は、 足 利 直 義が 夢 想 の奇 瑞 を 得た こ と によ り
、宝 剣 を朝 廷 に 進奏 し た
。し か し
、 勧 修寺 経 顕 は院 に「 黄粱 夢
」の 話 を 語 って
、夢 に信 を 置 くこ と は でき な い と主 張 し た。 故 事 の あら す じ は以 下 の とお り で ある
。貧 し い客 が 富 貴を 求 め るた め に
、楚 国へ 赴 い た。 客 は 邯 鄲 で仙 人 で ある 呂 洞 賓に 会 っ て、 一 つ の 枕を 借 り た。 その 夢 で 客は 楚 国 の侯 王 に なっ て
、栄 華 富貴 な 生 活を 体 験 した
。夢 から 覚 め た客 は
、夢 に 五 十 年を 過 ご した こ と はた だ 昼 の 炊事 の 間 の短 い 時 間に す ぎ ず、 人 生 の富 貴 が まる で 夢 のよ う で ある こ と を悟 っ て
、楚 国 へ は行 か ず
、 遁 世し て し まっ た
。故 事 の 末 尾は 楊 亀 山の 漢 詩 を引 用 し て終 わ っ てい る
。古 態 系 本 をは じ め と する 多 数 の伝 本 は「 楊 龍 山 カ謝 日 月 詩
」と 表 記 して い る が、 今 川 家 本・ 流 布 本 など で は「 楊 亀 山カ 謝 日 月詩
」と 記さ れ て いる
。す でに 知 ら れて い る よ うに
、こ の詩 は 楊 亀山 の「 勉謝 自 明
」と 題 す るも の で ある
。 そ も そも
『 太 平 記
』 に お け る 漢 詩 の 受 容 に つ い て
、 先 行研 究 で は
『 詩 人 玉 屑
』『 三 体 詩
』
『 古文 真 宝
』 な ど の宋 代 詩 論 詩 集か ら 深 い 影 響 を 受け た と の 指 摘 があ る
2 1
。し か し
、 こ の