【課題】
本編本部では、第二編の行政行為論の限界との関連でも言われているところの警 察概念の限界を踏まえ、食品安全行政や環境行政等の法領域において新しいリスク 概念を位置付け、現実社会の問題にアプローチしていくことが、今後の行政法学が 取り組むべき最大の課題であると考えている。よって、本編第二部では実際問題を 取り上げ、「リスク社会」に対応できる行政による規制のあり方について検討する。
行政庁が制裁措置を含む新たな権限を行使したり、また第三者たる私人が自己の 権利を主張することが難しくなってしまうのである 。とりわけ食品リスクや環境リ スクがかかわる分野において従来用いられてきた警察概念に基づく典型的規制手法 であった許可制度は、今や市民の「安全確保」の面から十分に対応しきれていない 状況であるといえよう。このような問題意識に立って BSE 事件を用いて、その解 決を試みる。
早稲田大学審査学位論文(博士)
行政法学における『リスク介入』に関する法理の研究
はじめに
一 九 八 六 年 十 一 月 、 イ ギ リ ス に お い て 、 牛 海 綿 状 脳 症 (Bovine Spongiform
Encephalopathy、以下 BSE と表記。)感染牛の発生が公式に発表された。当初は
否定されていた人への感染は、一九九六年三月二十日、当時英国健康保健省の大臣 であったステファン・ドレル氏が、下院での質問を受け「十人の若者がvCJD1(新 型クロイツフェルト・ヤコブ病)にかかり、BSE になった2」と述べたことで、つ いに公的にも認められるようになった。
こうした BSE 問題は、一七年を経た(千葉県において BSE 感染牛発見)今日、
イギリス国内にとどまらず、EU 各国、さらには日本をも巻き込み、全世界に波及 している。これに伴い多種多様の BSE 問題に対する規制立法が制定されており、
これらを行政法学の観点から整理する必要がある3。
本部では、BSEをめぐる国民の食品安全行政に関連して、まずEUの食品安全機 構4の形成過程を概観し、「安全性」に関する規制手法を検討した上で、日本の食品
1 従来型CJD(Creutzfeldt-Jakob disease)と新型(変異型)CJD(variant-CJD=vCJD)
がある。vCJDは一九九五年以降、若いCJD患者に、従来のCJD患者に見られなかっ たさまざまな症状があることから発見された。この患者の脳には従来型患者と同様にス ポンジ状の孔があるが、その症状は従来型より牛海綿状脳症に似ている。また、病状も 痴呆はあまり見られず、その反面筋肉の運動機能は早くから失われる。従来型では三〜
七ヶ月で無動性無言状態に陥るが、新型CJDでは一年を要する。病原体の潜伏期間も 不明で、経過も長い。
2 中村靖彦『狂牛病−人類への警鐘−』(岩波新書 二〇〇一年)二一頁参照。
3 食品安全性評価に対する従来の法理論の特徴として、不確実性に対する認識が曖昧で あったことが挙げられる。食品リスクでは、「安全確保に対する社会的認識・評価が変 数的に作用する」という特徴を考慮しなければならないが、このような視角からの議論 はあまりなされてこなかったことである。
4 欧州食品安全(庁)機関(European Food Safety Authority=EFSA)の最も重要な任 務は、食品の安全に直接もしくは間接的に影響する事項のすべてに関して、独立した科 学的助言を提供することである。EFSAには、第一次生産、動物飼料の安全性から消費 者への供給に至る、食品の生産および供給における全段階を取り扱うことができるよう に、広範な権限が付与されている。EFSAは世界中から情報を収集するとともに、常に 科学における新たな進歩を注視する。将来的には広大なネットワークを構築し、それを 通じて広く知見や意見の交換を行うことになるであろう。あらゆるレベルにおいて専門 家や意思決定担当者と交流を進めるとともに、自らの責任分野に関して、一般市民との 直接対話が図られている。
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行政法学における『リスク介入』に関する法理の研究
リスク規制のあり方について行政法学の立場から考察してみたい。
今日、行政に対する多様な要求が氾濫している事態に鑑みると、「危険防止など の消極的目的の作用にあたっても、行政手段の多様化などの事情は、これまでの警 察概念をそのまま維持できるかどうかについて疑問を生じさせている1」と言える。
すなわち警察概念に基づく規制手法には、限界が生じているのである。また現代に おいてリスク防御要請が広範に求められている諸状況において、いかに社会を統御 していくべきかという法社会学的観点からの行政法研究も部分的にしかなされてい ない2。
人の生命・身体や健康を保護するために、国家が法により規制を行う場合、伝統 的には、いわゆる「警察規制」の手法が用いられてきた。これは、国家が法を定立 して一定の行為を一旦禁止した後、一定の要件を満たした者について、個別に当該 行為を許可する(禁止を解除する)という手法であり、許可後に行政が介入する場 合には、具体的な救済の必要性が発生してから対応するというのが通常である。こ の介入手法は、自由主義的国家観のもとで、市民社会の行政の介入を抑制するとい う理念には適合的なものであった。
しかし、科学技術の発展に伴い、具体的にどのような人身・健康被害が、またい つ生じるのかを予測することが難しい事柄も増えている。例えば、食品でいえば、
添加物のもつ健康被害の可能性がそうである。あるいは、BSE汚染牛肉を食べるこ とにより、人がvCJDを発病する危険もそうである。さらには遺伝子組み換え食品
3(GM=Genetically Modified、GMO食品ともいう)がもちうる人体や環境への悪
1 遠藤博也『行政法Ⅱ(各論)』(青林書院 昭和五五年)一二九頁並びに一三一頁参照。
とくに一三一頁では、警察作用の外延が極めて不明確であると指摘される。
2 樫沢秀木訳、G・トイプナー「法化―概念、特徴、限界、回避策―」『九大法学』第五九号(一九八 九年)二四一頁参照。Gunther Teubner,Verrechtlichung−Begriffe,Merkmale,Grenzen,Auswege,in;
Friedrich Kübler(Hrsg.),Verrechtlichung von Wirtschaft, Arbeit und sozialer Solidarität
(1984,Baden-baden).
3 一般食品と遺伝子組換え食品との区別ため、表示につき分別生産流通管理が必要であ ることから、平成一三年四月から大豆、トウモロコシなどの遺伝子組換え農産物とその 加工品については、改正JAS法品質表示基準に基づく表示制度がスタートした。現在、
食品安全委員会の評価審査によって安全性が確認されたのは、ジャガイモ、大豆、テン サイ、トウモロコシ、ナタネ、ワタの6農作物であり、アルファルファの安全性が確認
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影響も同様の例である。いずれの例においても、現在の科学技術をもってしても、
人身・健康を害する危険の予測は困難である。そのため、ある行為の危険性を認識 して、その危険を防止するための一定の安全基準や要件を予め立てて、当該行為を 規制するという「警察規制」の手法そのものが、そのままでは用いにくい状況が増 えているのである。
かくして、本部では、人の生命・身体・健康を保護するため、不確実な「危険(リ スク)」に配慮する、「警察規制」手法を超えた新たな規制手法が要求されている現 状を、食品安全規制の分野において、とくにヨーロッパから日本へと波及したBSE 事件を素材に、分析してみたい。まず、日本における BSE 事件の経緯と当時の日 本の行政の対応を概観する(第一章)。その上で、日本の食品安全法制度や安全機構
(食品安全委員会)がこのBSE事件を契機にどのように変化したのかを整理し(第 二章)、また、「安全性」確保をめぐる諸規定の解釈および規制手法について分析し つつ(第三章)、そこに「警察規制」を超える手法や考え方を見出すことができるか どうかを考察 (第四章)する。最後に、この事例研究から導かれる、より一般的な 今後の研究課題を指摘したい(結び)。
されて承認されると日本で新たに7作物目の遺伝子組み換え食品になるわけである。食 品安全委員会『第64回食品安全委員会議事録』(食品安全委員会 平成一六年一〇月七 日)資料1−1を参照されたい。
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第一章 BSE事件の経緯と行政の対応
日本におけるBSE問題は、ヨーロッパ(とくにイギリス)で発生したBSE問題が 数年遅れて飛び火したものであった。その経緯を年表にしたものが、表1である。
【表1 BSE発生と対応の経緯】
年度 BSEの主な内容・行政対応
1986年 11月、英国にてBSE感染牛発見
1988年 英国政府→新疾病としてOIE総会に報告→原因(肉骨粉)→使用禁止
1989年 オランダに輪出(肉骨粉)、英国→脳や脊椎等特定臓器につき食用禁止措置(11月)
1990年 英国農漁食料省獣医局長による私的文書→各国に肉骨粉禁止要請 日本の農林水産省衛生課長宛→どのように対応したかは不明 EU諸国→BSE多発
1991年 11月WHO→「動物と人のBSEに関する公衆衛生問題」に関する専門家会議開催→
予防策の勧告、アメリカ農務省→1月にBSEリスクの定性的及び定量的評価につい て詳細な報告書を発表
日本→英国での現地調査と輪入規制強化 1992年 OIE総会国際動物衛生規約にBSE章を設ける
日本の対応→農林水産省は、BSE発生国から輪入停止、加熱処理条件の義務づけ、
危険部位の除去措置→実態について調査せず
1994年 アメリカ→免疫組織化学検査導入、EU→肉骨粉を禁止
1995年 英国農魚食料省がBSE Progress Reportを農林水産省へ送付→これに対する日本の 対応は不明
1996年 英国で変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)患者確認→WTO(FAO,OIE参 加)開催、4月8日→「BSEに関する検討会」(農林水産省主催)、4月24日安全性 分科会家畜飼料検討委員の二人から肉骨粉禁止意見→結局WHOからの禁止勧告は