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ドキュメント内 レクリエーション研究 (ページ 77-85)

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小学生 Mean  (S. D.) 

中学・高校生 Mean  (S. D.)  A.楽 し さ

B.忍 耐 力 C.社 会 性

D.

自然・文化

E.

創 造 性

F.

自 主 性

19.20( 3.77)  20.25(  3.22)  2

1 .  

37 ( 3.54)  20.15 ( 4.28)  11.66( 4.69)  19.24 ( 4.40) 

18.48( 3.22)  18.38 ( 3.34)  22.14 ( 

1 .  

96)  19.33 ( 3.06)  17.38 ( 3.27)  18.33( 3.68} 

75 

│ B 一 川

「水戸借楽園の開園目的について J

永 嶋 正 信 ( 東 京 農 業 大 学 ) 摘 要

小 石 川 後 楽 園 は 水 戸 家 二 代 の 光 国 が 棺 続 し た 1661( 寛 文 元 ) 年 か ら 隠 居 す る 1690(元禄3) 年 ま で の 約30年 間 庭 園 は 整 備 さ れ 、 一 般 に 公 開 し た と い わ れ て い る 。 水 戸 { 皆 楽 園 は そ の 後 約

150年 経 過 し て 徳 川 斉 昭 が 計 画 し 、 1842(天保13)年 7月 竣 功 開 園 し た 。 そ の 年 か ら 現 在 ま で 約150年 が 経 過 し た 。

{ 皆 楽 園 の 開 園 と そ の 目 的 に つ い て は 、 藩 の 先 進 的 優 位 性 を 高 め る と と も に 、 人 々 の 健 全 な レ ク リ エ ー シ ョ ン の 必 要 性 を 説 き 、 更 に 孟 子 の 教 え の 実 践 に よ っ て 人 心 を 収 捜 し つ つ 、 ‑

E有 事 の 際 の 城 か ら の 避 難 場 所 の 確 保 を 図 っ た も の で あ る と 思 料 さ れ る 。 は じ め に

水 戸 借 楽 園 は 、 1833(天保4)年 頃 か ら 藩 主 烈 公 徳 川 斉 昭 公 が 遊 園 の 設 立 を 計 画 し た と い われ、 1841(天保12)年4月、建設に着手、 1842(天保13)年7月 竣 功 開 園 し た 。 そ の 後1873 (明治 6)年12月 常 磐 公 園 と 称 し 、 41949坪 038432m2) が 一 般 開 放 と な る 。

研 究 目 的 及 び 方 法

徳 川 斉 昭 公 は 衆 と 楽 し み を 同 じ く す る 意 図 で 計 画 し 命 名 さ れ た { 皆 楽 園 、 そ の 公 開 に 当 っ て 管 理 方 法 は ど の よ う で あ っ た か 、 1842(天保13)年 7月 1日 付 で 諸 向 へ 布 達 さ れ た 入 園 者 心 得 、 借 楽 園 記 ( 碑 文 ) 等 か ら そ の 意 味 す る と こ ろ 、 目 的 に つ い て 考 察 し よ う と す る も の である。

利 用 規 定 入 園 者 心 得 一 般 事 項 (碑の禁条)

1 ) 入 国 時 刻 は 午 前6時 か ら 午 後10時 ま で 、 月 3と 8の 日 ( 註 月 6回 ) に お 庭 拝 見 が 許 さ れ る 。 家 内 は 毎 月 13、28日に入国できる。(註2回 お き 月 2回 ) 老 人 の 人 々 の 保 養 は 勿 論 、 公 務 や 文 武 修 業 の 者 以 外 に は 入 国 し 楽 し む こ と は 自 由 で あ る 。 し か し 場 所 柄 を わ き ま え 、 無 作 法 に な ら な い よ う 心 掛 け る こ と が 必 要 で あ る 。

2)寺 社 に 携 わ る 人 が 詩 歌 、 音 楽 、 書 面 、 茶 道 の た め 入 園 し て よ い 。 尼 僧 は 女 子 拝 見 の 日 に 入 国 し て よ ろ し い 。

3)月 見 の た め 7月15日、 9月15日は男子に、 8月15日 は 女 子 に 夜 間 開 園 を 特 に 認 め る 。 4) 徳 川 斉 昭 公 が 水 戸 に 居 ら れ る と き で も 入 園 し て よ ろ し い 。

以 上 の こ と を 心 得 て 利 用 す る こ と 。

細員)1で は 「 魚 釣 り と 船 の 利 用Ji月 見 と 夜 間 の 利 用Ji男 女 の 別 と 同 伴 者Ji圏 内 建 物 の 利 用Ji酒 の 持 込Ji入 園 者 の 服 装Ji他 藩 の 者 の 扱 い 」 な ど を 決 め て い た 。

以 上 男 女 の 別 を 正 し く す る こ と 。 雑 踏 を 以 て 威 儀 を 乱 す こ と を 許 さ ず 、 深 酔 の 上 乱 暴 や 俗 悪 に お ち い る こ と も 禁 じ ら れ る 。 圏 中 の 梅 枝 を 折 り 、 梅 実 を 採 っ て は な ら な い 、 圏 中 健 康 な 者 は か ご に 乗 る こ と を 認 め な い 、 漁 猟 は 禁 止 で あ っ て 守 ら な い 者 は 断 る と い う 骨 子 で

あった。

‑ 76‑

考 察

た だ 休 息 す る だ け の 目 的 に と ど ま ら ず 、 領 内 の 人 々 が 、 悠 々 と 楽 し み 、 遊 び 、 心 身 を 養 う こ と は 、 よ り 働 き 、 徳 を 修 め 、 業 を 勤 め る た め の 休 養 で あ る 。 圏 内 を 遁 遥 し 、 詩 歌 を 作 り 唱 え ( 吟 じ ) 合 っ た り 、 楽 器 を 奏 で た り 、 文 字 を 書 き 精 神 を 集 中 し た り 、 野 立 て に 興 じ 、 携 え た ふ く べ で 花 見 酒 を 楽 し み 、 釣 り に よ っ て 、 日 常 の 張 り つ め た 緊 張 を ゆ る め 、 こ れ ら を 通 し て 休 養 す る こ と 、 こ れ が 余 ( 烈 公 ・ 徳 川 斉 昭 ) と 衆 と 楽 し み を 同 じ く す る 意 図 で あ る と 強 調 し て い る 。 以 上 は こ の 時 代 の 正 し い レ ク リ エ ー シ ョ ン の 必 要 性 と 目 的 を 明 ら か に している。

倍 楽 園 は 管 理 に 当 っ て 細 か い 規 定 を つ く り 制 限 公 開 し て い た が 徳 川 斉 昭 の 本 志 を 整 理 す る と 以 下 の よ う に 推 察 す る こ と が で き る 。

1 . 前 年 に 藩 校 の 弘 道 館 を 建 て 、 文 武 修 練 の 奨 励 を し た が 、 こ れ に 対 し て 浩 然 の 気 風 を 養 わ せ る い わ ゆ る 当 時 の レ ク リ エ ー シ ョ ン 利 用 を 目 的 と し て い た 。

2.城 中 の 人 々 の 気 分 を 和 ら げ ま た 一 旦 緩 急 の 場 合 、 立 ち 退 き 避 難 場 所 の 役 目 を 果 す 空 間 が 必 要 で あ っ た 。

3. 梅 を 樋 栽 し た の は 、 開 花 が 早 く 、 果 実 の 用 途 が 広 く 、 観 賞 、 実 用 共 に す ぐ れ 、 保 存 食 料 と し て の 価 値 が 高 い た め 。

4. 

I

君 は 船 、 臣 は 水 、 水 よ く 船 を う か べ 、 水 よ く 船 を く つ が え す と い う 寄 も 候 間J(桃源 遺 事 ) 、 孟 子 の 教 え と し て 「 万 坪 の 園 も 民 と 借 に 楽 し め ば 広 い と い う そ し り を 受 け な い が 100坪 の 地 も 民 人 の 立 入 り を 禁 じ た ら 民 は こ れ に 苦 し む 」 と い う こ と が あ る 。 従 っ て 期 間 方 法 等 を 限 っ て も 倦 に 利 用 す る と い え ば 人 民 の 反 発 は 和 ら ぐ の で あ る と い う こ と を 実 践

した。

5 . 江 戸 小 石 川 後 楽 園 は 初 代 藩 主 頼 房 が 領 地 を 江 戸 上 屋 敷 と し て 拝 領 し た1661(寛文元)年 から 1690(元禄 3)年 ま で 約30年 間 大 い に 庭 園 が 整 備 さ れ 、 1700(元様13)年 光 園 が 死 残 す る ま で ー 般 公 開 さ れ て い た 記 録 が あ り ( 桃 源 遣 事 ) 、 こ れ が 斉 昭 に 影 響 を 与 え 、 水 戸 借 楽 園 と し て 同 様 の 主 旨 で 開 園 さ れ た 。

む す び

以 上 か ら 本 来 の 目 的 は 、 藩 の 先 進 的 優 位 性 を 高 め る と と も に 孟 子 の 教 え の 実 践 に よ っ て 人 心 の 収 撹 を 前 面 に 出 し つ つ 、 一 旦 有 事 の 際 、 城 か ら の 避 難 用 地 の 確 保 を 図 っ た も の と 思 料 さ れ る 。

引 用 又 は 参 考 文 献

し 茨 城 常 磐 公 園 撹 勝 図 誌 乾 、 坤 ( 上 ・ 下 巻 ) 明 治18年12月2日 出 版 、 編 集 松 平 俊 雄 著 、 影 印 版 昭 和51年12月1日刊 衛 書 房 発 行

2. 

I

水 戸 の 心 」 梅 と 歴 史 に 薫 る 関 孤 円 著 昭 和61年2月15日 発 行 、 欄 川 又 書 居 発

3.小 石 川 後 楽 園 吉 川 需 著 1981年 8月 1日 発 行 、 欄 郷 学 舎 発 行 4 . 桃 源 遣 事 昭 徳 川 公 爵 家 蔵 版 昭 和10年5月6日 発 行

5. 小 石 川 後 楽 園 紀 文 部 省 「 名 勝 調 査 報 告 」 大 正11年 測 量 、 陸 軍 造 兵 廠 ( 代 謄 写 )

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油井正昭・木下晴雄・古谷勝則(千葉大学園芸学部) 温泉地、観光レクリエーション、変選、新潟県、燕温泉 1 .研究の目的

近年全国各地に大規模なリゾート開発が計画され、地域振興の期待のもとで事業が推進 されつつあるが、わが国には、小規模ながら昔ながらのリゾートとして、国民に親しまれ てきた場所がある。その一つは湯治場として賑わってきた温泉地であり、この研究では、

今日でも豊かな自然環境が維持され、歓楽的要素が少なく、湯治場的色彩の濃い新潟県中 頚城郡妙高村にある燕温泉を対象に、その変遷を追い、温泉地の特徴が時代とともにどの ような過程を経て今日の状態になったかを明らかにすることを目的とする。

2 .研究の方法

燕温泉の変遷は、文献調査、地図類の分析を行うとともに、現地に滞在し集落の変化を 直接居住者から聞き取り、同時にその変化の状況が今日まで持続しているものは確認し、

必要なものは計測を行った。こうした作業で得た燕温泉の変遷については、生活構造、施 設(日常生活施設と観光レクリエーション施設)と土地利用状況、利用形態(温泉、登山

・スキー)などに分類し、各項目における特徴を明確にする。また、各項目閣の特徴、変 遷全体の特徴を考察する。

3 .対象地の概要

燕温泉は、第 1図のとおり新潟県南西部にあり、妙高山 (2446m)中腹の標高1100mの 位置に存在する孤立した集落(麓の町の関山との距離約10km、標高差 700m)であるo冬 季は積雪が 4‑‑5mにもなる豪雪地であり、夏は冷涼で も

25度を超えない。温泉地全体が固有地である。上信越高

原因立公園の第2種、第3種特別地域に指定されていて、

自然環境に恵まれた温泉地である。妙高山の表登山口と しての役割を果たし、豪雪地であることを生かして古く 佐 渡 島 八 からスキー場を開設している。利用者を受け入れるのは、 / 

8軒の旅館と 2軒の土産物屋からなる 100%第3次産業

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に 依 存 し て い る 集 落 で あ る 。 ( /

4 .変遷の特徴

燕温泉の発祥は、明治4年(1871)に温泉が湧出して 日本海 いる場所に浴槽が作られたことに始まった。明治8年か

ら夏期のみ人が住むようになり集落の形成を見たが、明 治26年(1893)頃山崩れに合い、明治28年(1895)に山

崩れの場所を離れて現在地に移転した。したがって、現糸魚川 在の燕温泉は、明治28年以降に建設された集落であり、 / 勺

50 

」 圃 圃 園 田 ー 圃 圃 , . j

約 100年前に何もなかった土地に集落がつくられ今日に 至っている。燕温泉の発展過程をみると、生活する人々

の生活構造の変化をはじめ、生活施設の充実や観光レク 第 1図 燕 温 泉 位 置 図

‑ 78‑

リエーション施設(以下「利用施設」という)整備、温泉利用など利用の変遷等さまざま な要素がみられるので、以下項目をたてて述べるo

1 )生活構造の変遷

生活構造の変遷を年表にし、その年表を基に温泉地への定住、住民の移動、生活形態、

交通の変化などを基準に変遷過程を4期に区分した。初めて温泉地に居住するようになっ たのが第1期である。第2期は明治36年(1903)から昭和35年(1960)までの57年間で、

この期間は孤立集落の時代であるロ第3期は昭和36年(1961)から63年(1988)までで、

この時期は交通網の改善で外部との関係が強まり、燕温泉の歴史の中では変化の激しい時 期であるo 第4期は自動車道が通年確保され、孤立が解消され、麓の関山などとのつなが

りが強化されつつある。

2 )施設及び土地利用の変遷

燕温泉とその周辺地域は国有地(国有林)であることと、急峻な地形のために今日まで 大規模な開発は行われなかった。しかし、燕温泉の集落は当初約 1haで あったが、徐々に 拡大して平成3年(1990)現在約4haに広がっている。また、観光レクリエーション利用 空間は、集落を中心 iこ緩傾斜の土地を求めて外側に拡大してきた。

(1)生活施設の変遷

生活施設の整備充実の過程は 5期に区分できる。第1期は住宅を建て住居の確保を行っ た時代。第2期は大正10年(1921)から昭和14年(1939)にかけて水道、電気、電話など 生活基盤の施設整備が進められた時代。仮住い的な気持ちで生活してきた傾向が永住の方 向へ進んだ。第

3

期は昭和15年(1940)から29年(1954)までで、第

2

次世界大戦の影響 などで生活施設の増設がなく停滞の時代。第 4期は昭和30年(1965)から44年(1969)ま でで営林署や新潟県により雪崩防止施設、砂防施設、河川の護岸整備、道路建設など災害 対策や道路整備が行われた。道路整備により孤立した集落事情が解消されるという大きな 変化が起きた時代。第5期は昭和45年以降で生活施設の充実が図られつつある。

(2)利用施設の変遷

利用施設の変遷は6期に区分した。第 1期は温泉浴場、旅館など温泉地の基本的施設が 作られた時期である。第2期は旅館の移転新築、各旅館が内湯を設け、雪崩の被害を避け る目的で引湯管が川底に埋設されるなど、初期の施設の改善が図られた。第 3期はほとん ど手が加えられなかった。第4期は昭和31年(1956)から39年(1964)が該当する。昭和 31年に上信越高原国立公園に指定されたことと、この頃から登山、スキーなど自然志向の レクリエーションが急速に普及したことを反映し、妙高山への新登山道開設、スキーリフ ト建設、集落内に2カ所の駐車場建設が相次ぎ、従前温泉施設の整備が中心を占めていた 状況が大きく変化した。登山・スキー関係の施設が整備され、利用者層の変化をみた。登 山道開設は営林署が、駐車場建設は妙高村が実施した。初めて公共事業で利用施設が充実 したのがこの時期の特徴で、国立公園指定による効果といえる。第5期は昭和40年(1965) から50年(1975)の聞で、利用者層の変化に合わせ、各戸が収益を高めるために旅館を改 築した。第6期は昭和51年(1976)以降現在も続いており、スキーゲレンデ整備、ベアリ

フト設置などスキー場施設の充実や、吊り橋が国立公園事業で建設されたり、ゲレンデ整 備で出た岩石を用いて露庖風呂を造るなど、利用施設の整備をとおして魅力向上を図る努 力を行っており、利用者誘致のための積極姿勢をとっている特徴がみられる。

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