• 検索結果がありません。

随想・報告

ドキュメント内 金沢医科大学報第121号 (ページ 48-56)

分子細胞形態科学教授

篠原 治道

随 想

エッセイ掲載中の雑誌「最新医学」

枚くらい足りない。しかしその程度なら連載が始まって からでも何とかなるといった気持ちであった。

数日後にT さんからの返事があった。エッセイの文章 としては少し重いが、それも品格ととれば悪くはない。

また今まで弊社が扱ったことのないテーマなので面白 い。編集部としては連載に踏み切りたいとの由であっ た。ついては2004 年1 月号から毎月掲載で2 年間、計24 回の連載としていただきたい、またその連載をまとめて 単行本にあげたいので宜しくとあった。

T 編集長は上手な釣り師であった。釣りたい魚にどう いう餌をどういうタイミングで与えればよいかを知って いた。困ったことになった、というのが私の正直な気持 ちであった。24 回だと原稿用紙200 枚は必要となる。そ れだけを書き抜くにはかなりの時間とエネルギーが必要 となるが、両方とも昨今の私にはないと思われた。しか し単行本は魅力であった。結局はこの機会を逃がしたく ないという、未練に引きずられ、先行きが不明のまま引 き受けてしまったのであった。

実を言うとその後のことは余り覚えていない。ただ私

としては、これまでかなり真剣に原稿用紙を埋めてきた と思っている。いろいろな方々、特に教室の方々のお蔭 で、この1 年間に息切れはしても、息絶えることなく書 きつづけることができた。2005 年1 月号で、第13 回の連 載となる。漸く半分を越えたところである。

正直なところ、雑誌「最新医学」が本学の臨床系の医 局や図書館においてあることは松井 忍教授に教えてい ただいて初めて知った。またかねてより山下公一副理事 長からは、医学を学び始める本学の学生にとってはまた とないエッセイなのでもっとPR してはどうかとおすす めいただいた。本業である解剖学の著作ならば素直に頷 き、もっと早い時期にこういった原稿を書けたと思う。

副業のPR となるとどうも気恥ずかしく、一日のばしに なってしまって、学報編集長の山下先生には全く申しわ けがない。「解剖学者がみたミケランジェロの彫刻」シ リーズではどういうことを書いているのか見てやろう、

といった程度の軽い気持ちで手にとっていただければい いなと思っている。

教育研究事業推進室部長

中山 正喜

中日友好病院創立20周年記念行事が、平成 16年10月23日(土)、北京展覧会劇場において 開催されました。国内外から約 2,000 人の招 待客が出席したこの式典と記念公演は実に華 やかで盛大なものでした。本学からは、招待 を受けられた小田島理事長、山本学長が出席 できないため、松本正幸副病院長(高齢医学 教授)が代表として出席することになり、私 が同行しました。以下、式典の模様および今 回訪れた北京の現況について報告いたします。

本学は、中日友好病院が開院した直後の 1985 年9 月に姉妹提携をしており、これまで に約 40 名の研究医や研修生が本学の研究者 とプロジェクトを組んで研究に従事したり先 進医療の研修を受けて帰国されています。そ

れらの人材は現在中国国内のみならず世界中で活躍して いる状況で、中日友好病院の方々は日本で最初の姉妹提 携先である本学との絆を大変大切にしておられる模様で した。

記念式典・祝賀会

我々2 名は10 月23 日(土)午前10 時30 分発のJAL785 便で関西空港を出発しました。12 時 35 分(現地時間、

時差マイナス1 時間)に北京国際空港に到着し、魯瑶先 生の出迎えを受けました。魯先生は2002 年3 月から1 年 中日友好病院劉副院長との会談

報 告

【随想・報告】 金 医 大 学 報

50

間本学の消化器外科学で研修されており、我々一行の北 京滞在中ずっとお世話をして下さるとのことで、ほっと 安心した次第です。彼は南極に 17 カ月滞在した経験も あり国際感覚も豊かで、日本語は話せませんが流暢な英 語を話し、松本教授とも自由にコミュニケーションをと っておられましたし、私自身は若干中国語を話すことが できるので、それほど支障もなく中国語での会話を楽し むことができました。空港内で先ずは両替。1 元=12 円 87 銭のレートでした。空港からは魯先生の案内で片道4 車線から6 車線の快適な道を北京市内へ。30 年前に大学 の命を受けて1 カ月間北京で中国語の研修に従事したこ ろは1 車線の田舎道であったことを思い出すと実に隔世 の感でした。14 時頃、用意していただいたホテル、友誼 賓館に入りました。

北京到着当日の10 月 23 日の午後 5 時 30 分から展覧館 報告庁で、日本を中心に外国からの賓客約200人を招待 し晩餐会が開かれました。日本からは橋本龍太郎元総理、

阿南駐中国大使、渥美公使、吉永 JICA 理事をはじめ日 本政府や大学および病院関係者が出席し、その他 WHO の代表、欧米関係の組織の代表なども招かれました。

午後7 時30 分、隣接の展覧会劇場に会場を移し祝賀式 典が行われました。式典には中国衛生部、北京市幹部を はじめ中日友好病院の職員、関連の組織から招待された 人々、それに先ほどの外国からの賓客、合わせて約 2,000 人が出席しました。

最初に挨拶された許病院長は、日本政府の無償援助

(ODA)を受けて、中日両国政府の協力により1984 年10 月 23 日、中国衛生部の直轄病院として中日友好病院が 建設された経緯を述べ、以来今日までに発展してきた歩 み、特に昨年中国全土に蔓延したSARS 流行の際に、北 京市内の対策拠点の中心となり全職員が一丸となって対 策にあたったことなど、幾分長めではありましたが、力 強い語り口は会場の参加者全員に響き渡り、段落ごとに

割れんばかりの大きな拍手が巻き起こる名演説でした。

続いて中国側の要人、日本側の要人による祝辞が続き、

午後8 時過ぎに式典は終了しました。

記念式典に続いて、「手をつないで」と題した今回の ためのオリジナルの記念公演が始まりました。幕開けと ともに中国人民大学青年交響楽団の演奏による歌劇「軽 騎兵」序曲が流れ、舞台両側の大きなスクリーンに開院 に至るまでの写真と字幕が映し出されました。

第1 曲目が終了したところで舞台の袖に香港鳳凰衛星 テレビの人気司会者の呉小莉が現れ、彼女が話す軽快な 司会にそって、中国の有名歌手や役者、医師などが次か ら次と舞台に現れ、歌い、踊り、語り、そしてコメディ アンのショートコントと織りなすように流れ、全てが素 晴らしい演出でした。このショーは始めから終わりまで を香港鳳凰衛星テレビがビデオ撮りしており、後日放映 されるとのことでした。

日本の歌手として招待された谷村新司が歌った「昴」

には会場にいる日本人のほとんどが感動し、さらに、2 コーラス目を中国語で歌ったときは会場が割れるような 拍手が巻き起こりました。ショートコントは、中日友好 病院の看護師の多忙な家庭生活を面白おかしく演出した もので、会場の後半分を占める中日友好病院職員席から は特に大きな笑いと拍手が響いていました。

フィナーレは、中日友好病院合唱団による、中日友好 病院院歌の「白雲の歌」の力強い合唱で、歌声は次第に 会場全体からの合唱となって響きわたり、祭典は終幕へ と向かいました。気がついてみると夜も11 時近くになっ ていました。

北京での最初の夜、興奮の中に続いた宴も終わって、

暗闇の中にそびえるように建つ巨大な天安門、その前に 広がる天安門広場を廻りながらホテルへ帰りました。

廬溝橋、抗日戦争記念館、円明園を探訪

中日友好病院全景 病院玄関へのアプローチ

10 月 24 日(日)は終日北京市内観光。名所旧跡が数 多くある中、これまで行ったことのない所をゆっくりと 訪ねたいと思い、廬溝橋とその近くにある今話題の中国 人民抗日戦争記念館、そして、清代の豪華な西洋式離宮 で、1860 年第2 次アヘン戦争の時に侵攻した英仏軍によ り略奪と破壊を受けて廃墟となったままとなっている円 明園(北京最大の庭園)などを案内してもらいました。

盧溝橋は北京市の南西部郊外にあり、1937 年7 月7 日、

ここで軍事演習をしていた日本軍と中国軍が交戦し、日 中戦争が起こるきっかけとなった「盧溝橋事件」の現場 です。北京に現存する最古の石造りの橋で芸術的価値が 高く、マルコポーロが世界でも稀にみる美しい橋と称賛 したと言われます。橋の両側の欄干に並んでいる白い石 造りの 108 体の獅子の像はすべて違った姿をしており、

橋の動路面にも細かな彫刻が施してあってもちろん車の 通行はできない。燕京(北京)八景の一つとなっている

「盧溝暁月」は、盧溝橋の空に浮かぶ暁の月は格別であ ることを詠んだものとされています。

つづいて盧溝橋と指呼の距離にある抗日戦争記念館を 訪問しました。天安門広場の東隣にある歴史博物館に似 たところがありましたが、それ以上に過激に、かつて日 本軍が行った蛮行がいかにむごいものであったかを記録 写真や遺品、蝋人形、模型、映画などで展示されてお り、日本人の我々にとって胸に突き刺さるようなきつい 衝撃を与えられました。私たちの周りには中国各地から 見学に来たおのぼりさんがたくさんいて、その視線が 我々に集中して向けられているような気さえしました。

終戦から半世紀経た今でも中国では、大戦の模様をこの ように大規模に、リアルに生々しく国民に知らしめよう としている現実に、昨今の北朝鮮問題、教科書問題など を考える際にどうしても頭を過ぎるものを感じざるを得 ませんでした。万里の長城や明の十三陵、故宮などが北 京観光の表舞台だとすれば、今回廻ったところは一般人 民の真実の姿を垣間見る裏舞台のような気もしました。

中日友好病院訪問

10 月 25 日(月)朝から中日友好病院を表敬訪問しま した。許病院長、劉副院長、蔡外事処副処長と面談し今 後の交流について話し合いました。中日友好病院にとっ て金沢医科大学は開院して最初に姉妹提携協議書に調印 した大学であり、これまでに多くの医師が金沢医大で研 修し、また相互交流も続いており、金沢医科大学と中日 友好病院は今後も末永く交流を続けていきたいとの合意 を得ました。また、本学では明年9 月頃に日中交流20 周 年記念行事を金沢で開催する予定であり、是非ご出席い ただきたいとの小田島理事長からの伝言を伝えて快諾を 得ました。

中日友好病院は、1 日の外来患者 3,000 人、入院患者

1,500 人、病床稼働率 98%という盛況ぶりで、院内はど こも活気にあふれて混雑していました。

金沢医大に早い時期に長く留学され、大学院で医学博 士の学位を取得された喩唯民先生にお会いすることがで きました。私にとっても、本学におられたころに中国語 を教わり、中華料理の手ほどきを受けたとても懐かしい 老朋友です。現在中日友好病院の遺伝・代謝性疾病研究 室の主任教授として活躍しておられ、満60 歳になりもう すぐ定年を迎える年ですが、病院側からあと5 年間延長 して働いてもらいたいと言われているとのことでした。

国際学会にも毎年数回出席しており、日本にも何度も来 ておられるとのことでした。「最近の中国の若い医師は、

学位をもらうとお金のためにすぐ欧米へ行きたがるが、

私は吉田清三病院長が言われたように、金沢医大で学ん だことを祖国のために役立てる道を選びました」と、い つもの明るい口調で話しておられました。

10 月 26 日(火)北京での最終日。昨日までの曇天と 打って変わって朝から目のさめるような、これぞ北京の 秋天というよい天気になりました。朝9 時30 分に出迎え の魯先生がホテルのロビーに現れました。飛行機の出発 までには幾分時間がありましたが、とりあえず空港まで 行ってそこで食事をということになりました。4 日間い たおかげで、道路わきの中国語や英語の看板も違和感な く目に入り、車の中で運転手とも中国語で冗談を言った りできるようになり、「中山先生はだんだん中国語が流 暢になってきました。あと1 カ月北京にいたらきっと普 通の中国人と自由に話せるようになります」などと中国 式お世辞を餞別にいただいた次第です。

北京空港で最後の中華料理ということで「海鮮ラーメ ン」を注文したところ、出てきたのは一見日本のうどん のようなものだったので一瞬後悔しましたが、なんとそ の味は抜群でした。

13 時55 分発のJAL786 便で北京国際空港を発ち、大連 上空を通過して韓国を横切り、日本海に入って日本に近 づくころには雲が増え、雨の関西空港に無事降り立ちま した。特急はるかに乗り、新大阪でサンダーバードに乗 り換え午後 10 時 10 分過ぎに金沢駅に到着して今回の任 務を無事に終えることができました。湯上がりには久し ぶりに家族の前で日本酒を楽しんだ次第です。

今回の訪問では、中日友好病院の開院 20 周年記念式 典への出席を通じて、世界一の経済発展を続ける中国国 内の現状をいくらか垣間見たように思います。彼らの仕 事に対する熱気のすごさに圧倒される思いで強い刺激を 受けました。

末尾になりましたが、今回このような機会を与えてい ただきました小田島理事長、山本学長並びに関係各位に 心からお礼を申し上げます。

ドキュメント内 金沢医科大学報第121号 (ページ 48-56)

関連したドキュメント