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病院への寄付

ドキュメント内 金沢医科大学報第121号 (ページ 31-36)

内田病院長から干場祐子さん(上)、まほろば会代 表の辻口看護部長(下)に感謝状と記念品の贈呈 ビス白田 亨氏から病院新館の防災設備等についての説

明があり、次に看護部横畑副部長らから各病棟に配置さ れている防災用品の使用方法などの説明があった。

① 時間内災害訓練(第1次訓練):14:00〜/781名参加 地震後に火災が発生したとの想定で、新館・本館・別 館の各階ごとに出火場所を設定し、身体防御、通報連 絡、初期消火、模擬患者の避難誘導などを実施し、新館 1 階防災センター前に設置された災害対策本部への避難 状況の報告を全館一斉に実施した。

② 時間内災害訓練(第2 次訓練):15:00 〜/66 名参加 新館9 階西ダイニングで地震にともない火災が発生し たとの想定で、実際に発煙筒を点火して行った。煙のな か排煙装置、防火扉・防火シャッターを稼働させ、病 院・大学の自衛消防隊の出動による消火活動、模擬患者 の避難誘導など各部署が連携しての訓練を実施した。ま た、訓練通報により内灘町消防署から消防隊が出動し、

同9 階から放水が行われ病院・大学と連携しての総合災 害訓練を実施した。

③ 時間外災害訓練:19:00 〜/ 30 名参加

新館 5 階西ダイニングで火災が発生したとの想定で、

夜間など職員の手薄な時間帯における災害発生時の通報 連絡、非常呼集、避難誘導、初期消火などの訓練を実施 した。

災害訓練反省会/ 38 名参加

内灘町消防署から根布原署長を招き、今回の訓練の反 省点と今後の課題について意見交換を行った。災害に備 えた訓練内容の充実、防災設備・用具使用時の留意点、

役割分担の再検討等、活発な討議がなされた。

今回は昨年11 月に移転完了した新館では2 回目の訓練 となった。新館病棟では各スタッフステーション前から 瞬時に全ての通路を見渡すことができない構造となって いるため、避難状況の把握等に少しとまどいが見られた ものの、全体的に訓練はスムーズに行われた。今後は、

防災対策マニュアルの検討を行い、多くの職員が参加す る実践的な訓練により、災害対策をさらに充実させてい きたい。

今年度は、集中豪雨、台風、中越地震などによる災害 発生があいついだこともあり、参加者からは真剣に訓練 にとりくむ意識がみられ、充実した災害訓練となった。

(管理課 坂元仁志記)

平成16年11月19日(金)15:00 〜15:55 平成16年11月17日(水)14:00、15:00、19:00

【病院】 金 医 大 学 報

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ひょんなきっかけから現在の機能再建外科学部門の前 身である形成外科学教室に入局したのは1979 年の4 月。

金沢大学卒業後で国試合格発表前からお世話になり現在 に至っている。

学生時代にはほとんど勉強することの無かった分野で もあり、入局当初から毎日が実に新鮮であった。本で読 むか講義でしか聞いたことのないような外表先天異常に 加えて、いろんな皮膚腫瘍、顔面外傷や切断指などの手 指外傷、そして、新鮮熱傷、等々。当然、素人の私には どうして良いかわからない疾患ばかりであったが、当時 の先輩諸先生方は精力的に治療に当たっておられたよう に記憶している。

実際、初代教授の塚田貞夫現名誉教授が本学開校にと もなって、1974 年に設立されたばかりの若い医局であっ たため医局員も全員若く、皆精力的に仕事をされてい た。私も早く一人前になりたいと思いながらも医学的知 識どころか肝心の技術はなかなか上達しなかった。勉強 するにも当時はまともな日本語の教科書はなく、読まね ばならない英語論文は知らない単語のオンパレードで、

英語には少なからず自信のある自分にとっても、辞書と 首っ引きになりながら慣れない論文を読むのは辛かっ た。しかし、慣れてないから仕方がないと割り切って、

語彙や言い回しを覚えて慣れるまではじっと我慢した。

なにせ、教科書すらない日本の形成外科の先達に比べれ ばもっと楽なはずなのだから。実技面では、形成外科の 基本はとにかく真皮縫合をしっかりできることと言わ れ、来る日も来る日も糸結びや持針器縫合の練習をして いた。それでも下っ端研修医が手術で実際にやれるのは 植皮術の際に皮膚を採取してその傷を縫うことだけで、

そうこうするうちに、一般外科に進んだ同期などが虫垂 炎の手術をしたとかという話しを聞くと、具体的な疾患 の治療ができない自分はこれでいいのか、と悩んだこと もあった。

しかし、この時期に皮膚縫合をみっちりと身に付けた ことが形成外科医として大事な第一段階であったと気づ いたのは、実際に自分が執刀医になってからであった。

形成外科の手術のほとんどは結果が全て表面に見えるの で、手術直後には傷はきれいに縫いあがり、かつ、傷跡 もきれいな状態で治らない限り上手な手術に見えないか らである。ある程度、執刀もできるようになると、今度

は皮膚や皮下組織の切開・剥離の技術がなかなか難しい ことに気づいた。当時、助手をしながら先輩Dr が器用に 腫瘍を摘出したり皮下組織の剥離を行ったりするのを不 思議な気持ちで見ていた。とにかく、そういう作業のイ メージが全くなかった訳であるから、技術を基本からマ スターしていくためにはそれこそ身体で覚えるしかない と実感した。と、同時に、先輩Dr のメスの使い方や組織 の引っ張り方などもしっかり見るようになり、そこから 多くのことを学ばせていただいた。その際、先輩Dr にも それぞれの癖というか個々のやり方があることにも気づ いた。そこで、自分で手術をする際に、見て学んだこと を試しながらも自分に合うように微調整を加えながら少 しずつ自分のものとして身に付けていった。

形成外科の手術対象は皮膚から始まり、筋、腱、骨、

神経、血管など実にバラエティーに富んでおり、それに 必要な手術手技も豊富で、自分の知識欲や向上心をくす ぐるのには好都合の分野であった。それを糧に、人より は多少は勉強に時間をつぎ込んできたつもりではある が、残念ながら今になってもなお形成外科全般をカバー できるまでには到底至っていない。最近になってようや く一般にも認知されてきた美容外科などはその際たるも ので、新たに本格的に勉強を始めたばかりであるが、そ の扱う範囲の大きさや奥深さに苦しんでいる。

結局、歳はとって人を指導する立場となったけれど も、形成外科医としてはいつになっても偉そうな口をき くことなどできない若輩者という気持の宿命的な相克を 感じつつ、それにうち勝つべく努力を続けている自分で ある。

機能再建外科学教授

(特任)

石倉 直敬

先輩の回想録

昭和 52 年、奈良県立医科大学を卒業し、縁あって大 阪大学医学部老年病医学教室に大学院生として入局し た。当時医局員が8 人という、誕生して2 年目の若い教 室であった。ラジオイムノアッセイの全盛時代で、当時 の熊原雄一教授からカルシウム代謝調節ホルモンの研究 をするように言われた。研究を始めて4 カ月で、一途な 性格が災いし、夏の暑い盛りに巨大十二指腸潰瘍を起こ して体の中の半分の血液を下血して倒れた。我ながら情 けなく何とも言いようのない挫折感に病室で涙した。自 分の体もコントロールできない病人に医局の先輩方は優 しく、研修医には厳しかった大学の看護婦さんたちはナ イチンゲールに変身し、その見事なプロフェッショナリ ズムに感銘した。患者とはこんなにも情けない気持ちで 受診し、医療人の温かさに頭が下がるものかと、身をも って体験した。

大学院3 年の時、新しい活性型ビタミンD が開発・臨 床応用され、骨粗鬆症外来が始まった。新聞に紹介さ れ、多くの腰痛症のご老人が受診してくれた。外来に通 ってきてくれた74 歳の一紳士は、2 〜 3 回目の受診の時 に、活性型ビタミンD を服用しても、腰痛症は一向によ くならないが、数十年来患ってきた皮膚病が驚くほどよ くなったと若い医者に伝えてくれた。これが乾癬に対す る活性型ビタミンD 療法開発のきっかけとなった。今度 は外来が乾癬の患者さんたちであふれた。仲間からは骨 と皮のことばかりやっている変な内科医とあきれられ た。それでも活性型ビタミンD 軟膏は今では実用化され て世の中に役立っている。

私を受診してくれた多くの人たちの寛容によって、医 師として育てられたのだと思う。丁寧に接しようとし、

ご老人の話をよく聞いた。それぞれの 70 年、80 年の波 瀾万丈の中に幾多の思いがあり、学生時代に好きで読み あさった小説にもない、心を揺さぶる人生の珠玉の言葉 を、駆け出しの拙い医師に語ってくれた。老いや病は理 不尽で、これらが織りなす様々な物語の中で、それでも 人は前向きで明るく優しくいられることが本物だと思っ た。私に対する尊敬や好意からなどでは無論ない。長い 間の葛藤や怒りや苦しみの歩みから、生きてきた境遇 や、愛する者たちへの思いや、経験という資産が、生き ることそのものへの透明ないとおしみにまで凝集され、

誠実であろうとした未熟な医師がその傍に居合わせるこ

とを許されたというのが本当であろう。決して計画して そのとおりに進めたのではない。むしろ、紙の端を燃や した炎が燃え広がるような行き方だった。しかし、本物 だと思う方向にしか進めない、意固地で自尊心の高い若 い医師の勇気を奮い起こし、駆り立てたものは、いつも このときに感じ取った生へのいとおしみが根底にあった のだと思う。

大阪の生家の近くにある四天王寺は、1400 年前、聖徳 太子が建立した当時、権威と信仰の象徴で、瀬戸内海に 面した上町台地にそびえていた。大阪の語源ともいわれ る逢坂は、この四天王寺西大門から当時海へと沈む急な 坂の名称で、この坂を下って現世では叶わなかった夢に 極楽浄土で逢うことを託し多くの人たちが西方の海に入 水した場所だという。当時は多くの人が幼少期あるいは 若くして亡くなり、平均寿命は14 歳程度であった。今は このお寺はご老人たちの参拝でにぎわうが、医学が進歩 し、平均寿命が飛躍的に延びた現代でも、人の生をいと おしみ、それぞれの生に誉れと栄光あれという思いは、

1400 年の時を経てもそんなに変わっていないであろう。

今は再び縁あって、金沢の地でご老人を診させていた だいている。伝統社会の人のぬくもりが根付く町で、若 い医療スタッフがお年寄りたちに、〜しておいでる(こ うしていらっしゃいます)、〜しまっし(どうぞこうして 下さい)、〜がやて(だそうですよ)、などという優しい 金沢弁を多用して、一生懸命コミュニケーションを取ろ うとしているのを見聞きし、医師としての駆け出しのこ ろを思い出しては、人に見られないように微笑んでいる。

高齢医学教授

(特任)

森本 茂人

先輩の回想録

国際学会でパネルを見ながら説明している若いころの筆者

ドキュメント内 金沢医科大学報第121号 (ページ 31-36)

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