佐藤主光(もとひろ)
一橋大学政策大学院・経済学研究科
要旨
本章では、地震保険への加入と住宅の耐震化を中心に高齢者世帯を含めた個人の事前の 自助努力に着目、それを促す仕組みについて議論する。(事前・事後の)災害政策の枠内で
「自己完結」させるのではなく、他の政策・制度、具体的には住宅市場の活性化との関係 に着目していく。住宅に資産としての価値を持たせ、耐震化投資が当該住宅の資産価値の 増加に結び付く条件を整備することで、耐震化への誘因付けを図る。また、地震保険の加 入促進のためには低所得者を対象とした保険料補助金制度を新たに提言する。地震保険の 保険料には(立地や住宅の耐震性に関わる)地震リスクを反映されることで保険原理を徹 底させつつ、低所得者の地震保険加入を促進する(災害時の生活資金を確保する)という 二つの(一見相反する)目的を追求する手段となりうる。
1.はじめに
阪神淡路大震災(1995 年 1 月)は高齢化の進んだ都市を直撃した災害であり、多くの高 齢者が被災した。実際、被災から 1 年後の時点で仮設住宅に入居する世帯に占める高齢者 の割合は約 42%に上っていた(兵庫県「被災者の住宅支援のあり方に関する検討委員会資 料)。これは神戸市全体の高齢者世帯(世帯主が 65 歳以上)の比率 13.6%(平成 5 年時点)
をはるかに上回る。若年者層(現役世代)とは異なり、改めて住宅資金のローンを組むこ とも難しく、高齢者層の生活再建は遅々として進まなかった。阪神淡路大震災に限らず、「高 齢化社会における多数の高齢者の存在」は自力再建(自助)の困難な被災者を多く生み出 すことになる。神戸市のインナーシティー問題のように、災害前には社会的に認知されて こなかった社会的弱者が被災者となって顕在化することもあり得る。彼等の生活を再建す るためにも公的、あるいは「共助の理念に基づく」支援(義援金や被災者生活再建支援金 など)が不可欠となる。
しかし、(高齢者、低所得者層を中心に)支援を求める被災者が多く見込まれるからこそ、
(1)事前に自助努力できる個人には自助努力を促す仕組み、(2)事後(被災後)に社会的弱 者となりうる個人にも予め自助努力の機会を与えることが求められる。全ての被災者を満
足のいく水準まで迅速に救済するたけの資力は国・自治体にはない。救済対象となる被災 者が多くなるほど、各被災者への支援は薄くなり、かつ滞りがちになる。「真に救済すべき」
被災者に対して支援が行き届かない(第 1 章で紹介した「タイプIエラー」が高まる)か もしれない。ここでいう自助努力とは事前(災害前)の備えであり、具体的には(1)地震保 険への加入、(2)住宅の耐震化投資を指す。このうち、地震保険から支払われる保険金は生 活資金として「被災者の生活の安定に寄与」するだろう。住宅の耐震化は倒壊による生命 の危機、及び重度の障害を被るリスクを減じる。居住性能が維持されるならば、被災者は 住居を確保できるほか、再建・補修への出費もない。高齢世帯が行き場を失うこともない はずだ。速やかな被災者の生活再建が可能になるだろう。災害対策基本法は国・自治体の 責任と合わせて、「地方公共団体の住民は、自ら災害に備えるための手段を講ずるとともに、
自発的な防災活動に参加する等防災に寄与するように努めなければならない」(災害対策基 本法第七条2)としている。
本章では、地震保険への加入と住宅の耐震化を中心に高齢者世帯を含めた個人の事前の 自助努力に着目、それを促す仕組みについて議論する。(事前・事後の)災害政策に留まら ず、関連する他の公共政策・市場も包含した視点に拠る。具体的には既存住宅市場の現状 と課題、平均 31 年とされる住宅の耐久期間の延長について論じる。住宅に資産としての価 値を持たせ、耐震化投資が当該住宅の資産価値の増加に結び付く条件を整備することで、
耐震化への誘因付けを図ることが狙いである。また、地震保険の加入促進のためには低所 得者を対象とした保険料補助金制度を新たに提言する。地震保険の保険料には(立地や住 宅の耐震性に関わる)地震リスクを反映されることで保険原理を徹底させつつ、低所得者 の地震保険加入を促進する(災害時の生活資金を確保する)という二つの(一見相反する)
目的を追求する手段となりうる。前述のように災害時に社会的弱者となるのは(自宅が被 災した)高齢者や低所得者層である。高齢者世帯住宅の耐震化や低所得者の地震保険加入 の促進は彼等が災害に備える(事前の自助努力をする)術となるだろう。
本章は次のように構成される。第 2 節では、事前的自助努力としての住宅の耐震化や地 震保険への加入を促す現行の諸制度とその効果を概観する。耐震化に向け政府は「住宅及 び特定建築物の耐震化率について、それぞれ現状の75%を平成 27 年までに少なくとも9 割にすることを目標」(国土交通大臣による基本方針(平成 18 年 1 月 25 日))とすることが 掲げられてきた。これを受けて、国・自治体は住宅の耐震診断・耐震改修を補助する制度 が整備されている。「個人財産の形成を補助しない」という従来の災害政策の原則に関わら ず、耐震化を補助する根拠としてはその公共性が挙げられる。即ち、人的被害の減少や、
住宅倒壊による火災延焼の危険性の低下、倒壊住宅による道路閉塞を防止することで救 援・消火活動が円滑化、発災後の瓦礫など災害廃棄物の発生を抑制することである。また、
地震保険には災害時の生活資金を確保する(よって事後的な支援へのニーズを減じる)効
果があるだけではなく、その保険料に住宅の耐震性を反映させることで「新築であれ改修 であれ、耐震化促進へのインセンティブを付与する」ことが期待される。実際、地震保険 の保険料率は都道府県、木造・非木造の区別に加え、建築年数や建築基準法(1981 年)が 定める耐震基準、耐震性、免震構造に応じた 10%から 30%の割引がある。更に 2007 年以降、
損害保険料控除に代え地震保険料控除が所得税に導入されており、税制面でも保険加入の 促進が図られている。しかし、様々な金銭的なインセンティブにも関わらず、住宅の耐震 化は遅々として進んでいない。自治体が把握しているだけで約 1150 万戸(2007 年度末時点)、
耐震性が不足していると判断されている。増加傾向にあるとはいえ、地震保険の加入率も 世帯の 2 割、火災保険世帯の 4 割に留まってきた。
では何故、事前の自助努力は進まないのだろうか?個人は災害時(事後)の公的な支援 を期待して、敢えて努力を行わないモラル・ハザードが発生しているのかもしれない。あ るいは地震リスクに対する認知が高くない可能性もある。「地震リスクに対するそもそもの 選好、知識、所得水準など他の要素によるものが大きい」との見方もできるだろう。第 3 節では、近年盛んになってきた行動経済学の知見から、この問題について考察していく。
経済学では通常、「合理的個人」が仮定される。合理的な個人は「経済モデル」(自身の置 かれた経済環境)を正しく理解する。本章の文脈でいえば、(1)災害の発生確率、(2)災害 に伴う損失(被害)、(3)耐震化等、減災投資の効果についての理解が共有されているとい うことだ。しかし、実際のところ、地震の発生リスクに対する認知は人によって様々だ。
正しい経済モデルについて人々の間で合意があるわけでもない。リスクの客観的確率と主 観的確率は乖離しうる。この乖離は「認知バイアス」にあたる。加えて、人々は与えられ た情報を「活用」するよりも、情報に「左右」されているのかもしれない。行動経済学で は「フレーム効果」と呼ばれる現象だ。大規模災害のような「低頻度・高損害」なリスク の場合、特に合理的な経済(損得)計算は難しく、よって、補助金等「金銭的インセンテ ィブ」の効果も明らかではない。個人の合理性を当然視した政策はミスリーディングとな ろう。
住宅の耐震化が進まないことは災害時の被害が拡大する「原因」であるとともに、現行 の住宅市場の不備の「結果」といえる。我が国では住宅の耐久期間が平均 31 年あまりと欧 米諸国に比べて短くなっている。「住宅(上物)の資産価値については、取得後直ちに低下 が始まり、築後 20~30 年程度でほとんどゼロ査定とされるのが一般的」なため、個人の資 産としての価値が認められてこなかった(「今後の住宅産業のあり方に関する研究会」(2007 年6月4日))。実際、市場取引に占める既存住宅の割合は国際的にみて低い。仮に既存住 宅を売買する市場が成熟していれば、住宅の耐震性が住宅価格(資産価値)に反映される ようになるだろう。その結果、住宅所有者は資産価値増加の観点から耐震化投資を行うよ う促されるはずだ。特に(自らの住宅使用(生存)期間の短さから)長期的な視点を持ち