はじめに
2013年4月4日、黒田東彦総裁の下、日本銀行は「量的・質的金融緩和」(QQE)を導 入した。同政策がそれ以前の政策と異なった点は、
①「物価安定の目標」の実現に要する期間を明示 1
総合消費者物価指数(CPI)の前年比上昇率2%という「物価安定の目標」を、2年 程度の期間を念頭に置いてできるだけ早期に実現
② 操作目標を金利から量に変更
量的緩和を推進する観点から、金融調節(オペ)の操作目標を従来の無担保コール レート(オーバーナイト物)からマネタリーベースという量的指標に変更
③ 国債買入れオペの大幅増額
国債買入オペを量的緩和の実現手段と位置付け、大幅に増額
④「質的緩和」の側面も強調
1) デュレーションリスクの吸収(買入れ対象国債の残存年限の長期化)
2) 市場のリスク・プレミアムの吸収(ETF、J-REITの買入れ増額)
⑤ フォワード・ガイダンスの導入
上記①の「物価安定の目標」の実現を目指し、これを安定的に持続するために必要 な時点までQQEを継続
の5つにまとめられる。QQEはあらゆる点で市場の事前予想を上回る緩和策であった2。 今後、QQE に代表される日本銀行の金融政策が「物価安定の目標」を実現し、滑らか に「テイパリング」(量的緩和の縮小)ひいては「出口」(利上げ)に移行できるかは市場、
とりわけ国債市場の大きな関心事であり、同時に、根強い不安材料でもある。
ただし、この政策は本来、第1の矢(大胆な金融政策)、第2の矢(機動的な財政政策)、 第3の矢(民間投資を喚起する成長戦略)からなる政策パッケージであるアベノミクスの 一部である。そこで本章では、アベノミクスの3本の矢の補完関係をマクロ経済のフレー
1 「物価安定の目標」自体は2013年1月22日に、白川方明総裁(当時)の下で導入された。
2 市場が事前に想定していた策で、この「量的・質的金融緩和」(QQE)に含まれなかったものを強 いて挙げるとすれば、「補完当座預金制度」における超過準備に対する付利(IOER:interest on excess reserves)の引き下げぐらいであろう。
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ムワークで考察し、その後、第1の矢に当たる非伝統的金融政策のメカニズムを操作目標、
中間目標、最終目標の観点から掘り下げる。「期待」がいかに重要な役割を担っているかも、
その過程で強調される。QQE を一例とする非伝統的金融政策の作動メカニズムとその効 果を評価するためのフレームワークを描くことに主眼を置く。
第1節 アベノミクスにおける「3本の矢」の補完関係
1.1. 「第1の矢」と「第2の矢」の補完関係:IS曲線への働きかけ
まずは第1の矢と第2の矢の関係を見ていこう。これらはいずれも比較的短期の景気循 環に働きかけるものである。そのため、IS-LMモデルを用いることで両者の分業関係をシ ンプルに描くことができる 3。原田・齋藤(2014)も同様のフレームワークでアベノミク スの議論を展開している4。
名目金利が非負制約に直面しておらず、上にも下にも動ける状態は、シンプルなIS-LM モデルでは図2-1のように示される。IS曲線は実物経済での需給の均衡関係を表す。一般 に、金利(厳密には実質..
金利)が下がると、設備投資、住宅投資、あるいは円安を通じて 輸出が増加する可能性があるため、縦軸に金利、横軸に実質GDPをとると、IS曲線は右 下がりとなる(金利が下がると実質GDPが増える)。一方、LM曲線は金融市場での需給 の均衡関係を示す。「流動性選好理論」(liquidity preference theory)5に基づくと、一般 に実質GDP が増えると、取引動機や予備的動機から流動性に対する需要が強まり、金利
(厳密には名目..
金利)が上がる。そのためLM曲線は右上がりとなる(実質GDPが増え ると金利が上がる)。両者の交点( 𝐸𝐸0)で実物経済と金融市場は同時に均衡する。
3 IS-LM モデルは財市場と金融市場の均衡の相互関係を簡潔に描くツールとして有用である。しか
し、簡潔であるがゆえにいくつかの難点がある。代表的には①動学的(dynamic)あるいは通時
的(intertemporal)ではなく静学的(static)である、②供給側を含んでいないため内生的に物
価を確定できない、③経済主体の期待(合理的期待である必要はない)を十分に織り込んでいな い、④経済主体の最適化行動を反映していない、⑤経済主体の予算制約を反映していない、⑥先 進国では貨幣市場に劣らぬ規模を有する国債市場が内在しない、⑦金融政策と財政政策の協調
(coordination)が内生化されていない、などが挙げられる。これらを含めて、改めて第4章第1
節および同章補論でIS-LMモデルを取り上げる。
4 原田・齋藤(2014)、5-7頁。
5 Keyens (1936) は、貨幣保有の動機を①取引に備えて決済手段としての貨幣を保有する「取引動
機」(transactions motive)、②不意の支出に備えた貨幣保有である「予備的動機」(precautionary
motive)、③貨幣のコストである金利が上昇(下落)すると価値保蔵手段としての貨幣需要が弱ま
る(強まる)という資産選択に基づく「投機的動機」(speculative motive)の3つに分類した。
これは一般に「流動性選好理論」(liquidity preference theory)あるいは「貨幣選好理論」(cash
preference theory)と呼ばれる。LM曲線が右上がりとなる主な理由は①と②の動機にある。塩
野谷訳(1995)、164-198頁、西村・深町・小林・坂本(1991)、124-129頁などを参照。
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この場合、金融緩和でLM 曲線を下げ、財政出動で IS曲線を右にシフトさせると、両 者の交点は 𝐸𝐸1に移る。このとき金利が比較的安定した状態で実質 GDP は増加するため、
経済政策が一定の効果を出したと解釈できる。
図 2-1 金利が非負制約に直面していないときのIS-LMモデル
(出所)筆者作成。
しかし、日本の現状では名目金利、特に名目短期金利は非負制約に直面しており、下が る余地はほぼない(短期債の価格上昇余地はほぼない)。こうした状態では少しの金利変動 に対して、投機的動機に基づく流動性需要が極端に振幅する。つまり流動性需要の利子弾 性値(の絶対値)が非常に大きくなり、LM曲線は水平に近づく(図2-2)。これが「流動 性のわな」(liquidity trap)と呼ばれる状態である。
この場合、金融緩和で LM 曲線を右に押し出しても、LM 曲線の水平部分と交わる IS 曲線との交点( 𝐸𝐸0)はまったく動かない。したがって、教科書的な議論では、流動性のわ なの下、金融緩和が実質GDP を刺激する余地はほとんどなくなる。一方、財政出動によ るIS曲線の右へのシフトは均衡点を 𝐸𝐸1に移す。しかも金利上昇が起きにくいため、「クラ ウディング・アウト」(crowding out)6も回避でき、財政政策の乗数も高まりやすい。つ
6 クラウディング・アウトとは、財政出動に伴って長期金利が上がることで民間需要(例えば民間 設備投資)がかえって抑えられてしまう現象を指す。流動性のわなの下では、長期金利が上がり にくいため、財政出動に伴うクラウディング・アウトは起きにくい。
金利
実質GDP 実物経済と金融
●
市場の均衡
●
財政出動 金融緩和
新たな均衡 LM曲線 IS曲線
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図 2-2 金利が非負制約に直面しているとき(流動性のわな)のIS-LMモデル
(出所)筆者作成。
まり、金利が非負制約に直面した時には、財政政策の方が有効であると解釈される。
こうした教科書的な議論をアベノミクスの枠組みで言い換えると、流動性のわなの下で は、第1の矢(大胆な金融政策)よりも第2の矢(機動的な財政政策)の方が効果を発揮 しやすいということになる。事実、第2次安倍内閣が始まった2012年末から2014 年に かけて、公的固定資本形成は大きく増加した(図2-3)。日本がバブル経済 7を謳歌してい た1980年代後半の竹下登内閣以降を対象とすると、アベノミクスの初期時点(2012年末
~2014年)で見られた公的固定資本形成の増加ペースを上回るスピードで同資本形成を増 やしたのは宮澤喜一内閣のみである。さほどにアベノミクスの当初2年程度の経済を語る 上で、公的固定資本形成の増加つまり第2の矢の存在は大きい。
7 日経225平均株価は1989年の最終取引日である12月29日に38915.87円の史上最高値をつけ、
その後、長期の下落トレンドに入った。なお、日経平均株価がピークを打ったときの内閣は海部 俊樹内閣である。
金利
実質GDP 財政出動
金融緩和
●
実物経済と金融 市場の均衡
●
新たな均衡 IS曲線 LM曲線
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図 2-3 内閣別に見たGDPと主要需要項目
(注) 1. 各内閣における実質GDPと需要項目の推移を各内閣の最初の四半期を100として指数化。
2. 宇野内閣下の実質GDPおよび需要項目は図示していない。
3. 安倍(Ⅰ)は第1次安倍内閣、安倍(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)は第2次、第3次、第4次安倍内閣 を指す。
(出所)内閣府『国民経済計算』より作成。
では第1の矢であるQQEは本当に実体経済に対して無力なのであろうか。必ずしもそ うではない。ここで重要となるのが「期待」への働きかけである。流動性のわなの下では、
短期債を中心に債券価格の上昇余地(金利の低下余地)は極めて小さくなるが、為替や株 価にはこうした制約はない。実際、市場の期待に働きかけることで、QQE(あるいはQQE 導入への期待)をきっかけに円は減価し、株価は上昇した。円安は一定程度、実質輸出を サポートするであろう。また、株価の上昇は「トービンの 𝑞𝑞 」(Tobin’s 𝑞𝑞 )8の観点からは 設備投資を、「資産効果」(wealth effect)の観点からは資産保有量が多い高齢者を中心に 個人消費を刺激する可能性がある。つまり、一般的な教科書の議論とは異なり、流動性の わなの下、QQEは期待に働きかけることで(LM曲線ではなく)むしろIS曲線のシフト を企図していると解釈できる 9。あるいは、いわゆる非伝統的金融政策とは、期待を媒介
8 「トービンの 𝑞𝑞 」のうち「平均 𝑞𝑞 」は「企業価値/企業資産の再取得費用」、「限界 𝑞𝑞 」は「企業 価値の増分/企業資産の再取得費用の増分」と定義できる。本来、設備投資と連動するのは平均 𝑞𝑞 ではなく限界 𝑞𝑞 であるが、限界 𝑞𝑞 は多くの場合、観察不能であるため、観察可能な平均 𝑞𝑞 を用い て設備投資との関連を議論することが多い。この場合、自社株価の上昇は平均 𝑞𝑞 を押し上げるこ とで設備投資の誘因となりうる。
9 この点は翁(2014)が触れている。翁(2014)、5-7頁参照。なお、本文で後述するように、より 今日的なマクロ経済学の基本モデルであるニューケインジアン・モデルにおいては、そもそもLM 60
70 80 90 100 110 120 130 140 150 160
88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 (年)
実質GDP
民間 設備投資
公的固定 資本形成
財貨・サービス 輸出
竹 下
宇 野 海
部 宮 澤
(
非 自 民)
橋 本
小 渕
森 小
泉
福 田 安 倍(
Ⅰ) 麻 生
(
民 主 党)
安 倍
(
Ⅱ
・
Ⅲ
・
Ⅳ)