はじめに
1990年代に入ってからの日本銀行の金融政策運営は①操作目標の選択、②日本銀行の考 える物価安定の示し方、の 2 点を巡ってめまぐるしく変化した。このうち操作目標とは、
中央銀行が金融政策を運営する際、直接的にコントロールできる金融変数を指す 2。日本 では1980年代に入ると、短期金利すなわち公定歩合(2006年8月、基準割引率および基 準貸付利率に呼称変更)を操作目標として物価の安定を図る金融政策が定着した。その一 方で、マネーストックなど量的指標は金融政策における位置づけを下げた。
操作目標を軸として1990年代以降の金融政策を振り返ると、以下のようになる3。まず、
1990年代以降で最初に日本銀行が操作目標を変更したのは1995年である。同年3月31 日、日本銀行はそれまでの公定歩合に代えて、無担保コールレート(オーバーナイト物)
を新たな操作目標として採用した。その後1999年2月12日、日本銀行は初めてゼロ金利 政策(ZIRP)に踏み込んだ。名目金利の非負制約を踏まえると、短期市場金利を操作目標 とする限り、このゼロ金利政策が最大限の金融緩和策となる。
しかし、需要の弱さに根差す物価下落圧力を払拭することはできなかった。そこで、1999 年4月13日、速水総裁(当時)は会見で「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢に なるまでゼロ金利を続ける」と明言した。これが、日本銀行が初めて時間軸政策を導入し た瞬間である4。
さらに2001年3月19日、日本銀行は一層の金融緩和をもくろんで、操作目標を日本銀 行当座預金残高にシフトし、かつ消費者物価指数(CPI:consumer price index)が安定 的に前年比ゼロ%以上となるまでこれを続けるとした 5。これが、他の中央銀行に先駆け て日本銀行がその歴史上、初めて採用した量的緩和策(QE:quantitative easing)である。
その後、日本経済のデフレ脱却の確度が徐々に高まると考えた日本銀行は2006年3月
1 親和性の意味については序章注1を参照。
2 操作目標については第2章第2節で述べる。
3 操作目標ではなく「日本銀行の考える物価安定の示し方」という観点からの金融政策の変遷につ いても第2章第2節で詳述する。
4 ゼロ金利政策に時間軸政策が付加された日付を、ここでは1999年4月13日としている。しかし この日付の特定には注意を要する。具体的には第2章注25を参照。
5 日本銀行<http://www.boj.or.jp/announcements/release_2001/k010319a.htm/>(参照日:2018 年2月15日)。
24
9 日、操作目標を無担保コールレート(オーバーナイト物)に戻した上で、ゼロ金利政策
(ZIRP)に回帰した6。更に同年7月14日には、ゼロ金利政策の解除に踏み切った。
しかし、日本銀行の見通しに反して、日本経済がデフレから抜本的に脱却することはな かった。そこで、2010年10月5日、日本銀行は事実上のゼロ金利および新設の「資産買 入等の基金」(APP:asset purchase program)を通じた資産買入を二本柱とする「包括 的な金融緩和政策」(comprehensive monetary easing)を採用した7。これは無担保コー ルレート(オーバーナイト物)と資産買入額の両方を操作目標とするハイブリッド型の金 融緩和策である。
さらに黒田東彦総裁を迎え入れた日本銀行は2013年4月4日、「量的・質的金融緩和」
(QQE)に打って出た 8。この策を強く特徴づける要素は、世界で唯一、マネタリーベー スという量的指標を操作目標に掲げたことである。しかし、思うようには政策の効果が出 ず、2016年1月29日に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」(QQE with a negative
interest rate)、同年9月21日に「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」(QQE with yield
curve control)という具合に修正され、金利が再び操作目標として掲げられるようになっ
た9。
ここで、非伝統的金融政策を「短期金利がゼロ近傍に低下した後、同金利の誘導を代替 する目的で行われる金融政策」と定義しよう10。この定義に基づくと、日本銀行が非伝統 的な金融政策を行った時期は、①「ゼロ金利政策」に「時間軸政策」が付加され、さらに その後「量的緩和策」が採用された1999年4月13日から2006年3月9日、②「包括的 な金融緩和政策」から「量的・質的金融緩和」を経て今日の「長短金利操作付き量的・質 的金融緩和」に至る2010年10月5日以降、という2つの局面に整理できる。つまり日本 銀行は1990年代末に非伝統的金融政策に移行したといえる。
なぜ日本銀行は 1990 年代末に非伝統的金融政策への移行を余儀なくされたのであろう か。あるいは、短期金利を誘導対象とする伝統的金融政策は、なぜ 1990 年代末までに効
6 日本銀行<http://www.boj.or.jp/announcements/release_2006/k060309.htm/>(参照日:2018 年2月18日)。
7 日本銀行<http://www.boj.or.jp/announcements/release_2010/k101005.pdf>(参照日:2018 年 2月18日)。
8 日本銀行<http://www.boj.or.jp/announcements/release_2013/k130404a.pdf>(参照日:2018年 2月18日)。
9 ただしここでいう金利は、厳密には長短金利すなわちイールド―カーブを指す。したがって、1980
~90年代に見られた短期金利のみを操作目標とするレジーム(体制)とは異なる。
10 ここでの非伝統的金融政策の定義は翁(2011)、191頁を参考としている。
25 力を失ったのであろうか。
このような問題意識から、本章では、伝統的金融政策が一定程度機能した 1980 年代か ら、同政策が徐々に限界を迎えた1990 年代にかけての日本経済の推移を考察する。その 際、「貯蓄投資差額」を中心的な視座に据える 11。ただしこの間の日本経済は単に伝統的 金融政策との親和性を失っただけではない。その背景では、両大戦間期に形作られた各種 経済・社会制度が変更を迫られていた。そこで本章では、貯蓄投資差額についての考察の 後、時計の針を戦時体制下の日本まで巻き戻す。その時期に作られた多くの法令・制度に よって、しばしば「日本的」と称される金融・雇用システムが形成され、それがその後の 貯蓄投資差額のあり方や伝統的金融政策との親和性に影響したことを描き出す。その上で、
1980年代から1990年代は、そのようなシステム自体が変化を迫られた時期であったこと を明らかにする。加えて、バブルの崩壊と並行して生じた人口構造の変化も論じる。この ような金融・雇用システムや人口構造の変化が貯蓄投資差額のあり方を変え、その延長線 上で伝統的金融政策の効力は失われていった。
第1節 貯蓄投資差額に見る非金融法人の変化
1.1. 貯蓄投資差額と資金過不足
金融政策がどの程度あるいはどれぐらいの期間、実体経済や物価に作用しうるかについ ては、一定の結論が導かれているわけではない。しかし、どのような理論モデルを使うに せよ、金融政策が金融変数に一定の刺激を加えることで、実体経済ひいては物価に働きか けるものであるという構図は普遍といえよう。したがって、経済主体の金融面での行動(資 金調達や運用)が実体経済面での行動(消費、貯蓄、実物投資)とどのように結びついて いるかを明らかにすることが、金融政策の効果ひいては伝統的から非伝統的への金融政策 の移行を考察する上で欠かせない。
一般に、企業や家計などの経済主体が貯蓄や実物投資を行う際、何らかの形で資金調達 を行うと同時に、余った資金あるいは当分必要とされない資金は金融資産として保有・運 用される。つまり、貯蓄・投資行動は通常、金融資産や負債の変動を伴う。この点をバラ ンスシート(貸借対照表)に基づいて整理しておこう。
11 貯蓄投資差額は貯蓄投資バランス、IS バランスなどとも呼ばれる。なお内閣府『国民経済計算』
も貯蓄投資差額という表記を使っていたが、2004年度の国民経済計算確報以降は「純貸出/純借 入」(net lending / net borrowing)(+が純貸出、-が純借入)と表記している。
26
図1-1はバランスシートの変動を表したものである。便宜的にここでは、この経済主体 が企業(非金融法人)と仮定しよう。企業の貯蓄は、自己資本の一部である内部留保の増 減に対応する。また、企業が行う総固定資本形成(設備投資、在庫投資、土地投資)は実 物資産の増加、固定資本減耗は実物資産の減少につながる。したがって、
貯蓄投資差額≡貯蓄 - 実物投資
=内部留保増減 -(総固定資本形成-固定資本減耗)
=内部留保増減 - 実物資産の増減
と表される。つまり、貯蓄投資差額は図1-1では⑤と②の差となる。
図 1-1 バランスシートに見る貯蓄投資差額と資金過不足の恒等関係
(注)1. ⑥は実物資産の増減を表す②の一部である。
2. 拠出資本は、会計上は自己資本に含まれるが、国民経済計算では負債として扱われる。
3. 本図は貯蓄不足主体(資金不足主体)を例としている。
(出所)内閣府『国民経済計算』を参考に筆者作成。
一方、借入れや社債発行などによる資金調達は負債の増減、余裕資金の運用は金融資産 の増減にそれぞれ該当する。さらに、国際連合によって作成基準が規定される国民経済計
算(SNA:System of National Accounts)では、拠出資本(資本金、資本剰余金)も負債
として扱われることに注意したい12。
国民経済計算における資金過不足は定義上、純金融資産すなわち金融資産と負債(拠出
12 内閣府の国民経済計算の用語解説<www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/reference4/yougo_top.html
#ma>(参照日:2018年4月29日)における「持分」の項を参照。そこでは「持分は(中略)
金融商品取引法上の株式会社が発行する株式のほか、特別法に基づき設置された特殊法人等に対 する持分が含まれ、国民経済計算体系では、これを発行する制度単位の負債として扱われる」と されている。
【借方】 【貸方】
内部留保 の増減 ⑤ 拠出資本 の増減 ④ 金融資産
の増減
①
負債 の増減
③
(うち⑥)
実物資産 の増減
②
会 計 に お け る 自 己 資 本
バランス・シートにおける恒等式:
①+②=③+④+⑤
実体経済 → 貯蓄投資差額≡貯蓄-実物投資 ≡⑤-②
=-⑥
金融取引 → 資金過不足≡純金融資産の増減 ≡①-(③+④) =-⑥
∴貯蓄投資差額=資金過不足