はじめに
ゼロ金利から離脱(liftoff)した後の経済では、金利が介在する形で実体経済と金融が 徐々に結びつくことになる。このような移行過程を、本論文では非伝統的金融政策の「出 口」と定義している1。
出口をこのように定義した場合、現行の量的・質的金融緩和すなわちQQE(2016年9 月以降は長短金利操作付き QQE)がいつ、どのような形で出口に向かうか、現時点で確 度の高い見通しを示すことは難しい2。しかし、QQEには、緩和期では表面化しないもの の、出口では大きな問題として浮上しうる論点が内在する。とりわけ重要な論点として① 日本銀行の財務の健全性(ソルベンシー)、②金融政策と国債管理政策の可分性、の 2 点 が挙げられる。日本銀行の QQEに限らず、非伝統的金融政策は程度の差こそあれ、これ ら2点を出口における潜在的な課題として抱えている。そのような問題が緩和期ではなく 出口で表面化しやすいという意味において、緩和期と出口は非対称の関係にある。この非 対称性を踏まえると、出口に触れないで非伝統的金融政策を論じたことにはならない。
国債市場参加者も、QQEの出口について漠とした不安と緊張を感じている。QQEの下、
膨大な額の国債買入れオペが実施されているため、出口は国債市場の流動性が下がった状 態から始まる 3。そのため、出口において金利ないしイールドカーブにどのようなショッ クが生じるかを見極めようと市場参加者は身構えている。日本銀行が長短金利操作付き QQE に移行したことで、政策運営上、金利(特に長期金利)の引き上げが従来よりも想
1 序章注6参照。
2 出口については、資産買入れ額の縮小(tapering)を含めて定義することも可能であろう。しかし、
本章では、日本銀行の財務の健全性や、金融政策と国債管理政策との可分性に焦点を当てるため、
ゼロ金利からの離脱以降の金融政策を出口と定義する。なお、資産買入れ額の縮小に類似する現 象として札割れ(undersubscription)が挙げられる。これは、銀行などが保有する国債のうち売 却可能な分が少なくなる中、日本銀行の国債買入れに対する応札が減り、意図した金額の国債買 入れオペを日本銀行が実行できない状況を指す。この意味で札割れは「意図せざる資産買入れ額 の縮小」(unintended tapering)と呼ぶこともできる。
3 黒崎・熊野・岡部・長野(2015)は、国債市場の流動性について「先物市場のビッド・アスク・
スプレッドや値幅・出来高比率といった伝統的な指標をみる限りはでは、2014年10月の量的・
質的金融緩和の拡大以降も、国債市場の流動性は目立って低下していない」、「しかしながら、先 物市場におけるいわゆる『板』の厚みや1回の取引が市場価格に及ぼす影響、現物国債市場にお ける証券会社の提示レートのばらつき、SCレポ市場における国債の『賃借料』など、本稿が新た に取り上げる諸指標は、2014 年秋以降、国債市場の流動性が低下していることを示唆している」
としている。黒崎・熊野・岡部・長野(2015)、2頁参照。
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定しやすくなったことも、金利上昇に対する警戒と緊張を強いる一因となる。
そこで本章では QQEの出口戦略およびリスクを考察する。具体的には、コミットメン トと動学的非整合性、出口戦略の選択肢と各選択肢の課題、日本銀行の財務の健全性と損 失補償、金融政策と国債管理政策の溶融が主たる論点となる。
第1節 出口戦略の選択肢
1.1. コミットメントと動学的非整合性
2013年4月にQQEを導入するに当たって、日本銀行は総合CPI前年比2%という「物 価安定の目標」を、2 年程度の期間を念頭に置いてできるだけ早期に実現することにコミ ットした。日本銀行だけではない。物価安定を目標(target)、目途(goal)、定義(definition) のどれに位置づけるかの違いはあっても、日本銀行、FRS、ECB、BoE、SNBは全てCPI
(ただし米国はPCEデフレータ、ECBはHICP)の前年比2%あるいはそれに近い速度 での上昇を、物価の安定と認識している。しかし、日本銀行を含めて、主要中央銀行はそ のような物価の安定を持続的に実現するには至っていない(図3-1)。
図 3-1 主要国・地域のコアCPI
(注)日本は生鮮食品およびエネルギーを除く総合CPI、米国は食料およびエネルギーを除くPCE デフレータ、ユーロ圏は未加工食品およびエネルギーを除く19か国ベースのHICP、英国は エネルギー・食品・酒・タバコを除く CPI、スイスは生鮮・季節性商品およびエネルギーを 除くCPI。
(出所)総務省『消費者物価指数』、U.S. Department of Labor, Eurostat, U.K. Office for National Statistics, Swiss Federal Statistical Officeより作成。
-2 -1 0 1 2 3 4
00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18(年)
英国 ユーロ圏 日本 米国 スイス
(前年比:%)
前年比2%
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こうした中、日本銀行が今後、CPI 前年比2%にどの程度、強くコミットするかについ て、市場では意見の差異が見られ始めている。第1の見方は、CPI前年比2%という「物 価安定の目標」は政府と日本銀行の共同声明にも記されていることから4、日本銀行が「2%」
というターゲットを変えることはない、というものである。この場合、総合CPIが前年比 2%を安定的に実現するまで日本銀行が出口に向かうことはない、ということになる。
第2の見方は、現にCPIの上昇率が前年比2%を下回る国が多い中、日本銀行も最終的 には「2%」にレンジをつける(例えば2%±1%)などターゲットのソフト化に向かうは ずだ、というものである。この場合、総合CPIが前年比2%に至らない段階でも出口が現 実味を帯びる。現にFRSは、PCE デフレータが長期的な目途(goal)である前年比 2% で安定的に上がる状態に至ってはいない中でも、緩やかなペースでの利上げ局面に移行し ている。
こうした日本銀行のコミットメントの強弱に対する見方の差異は、出口のタイミング自 体を見通しにくくさせる。
中央銀行のコミットメントあるいはフォワード・ガイダンスについて、Campbell, Evans, Fisher and Justiniano (2012) は「デルフィ的」(Delphic)、「オデッセイ的」(Odyssean) という二分法を展開している5。ここでは、この二分法を紹介した翁(2013a)に基づいて、
両者の概念を整理する6。
第 1 のデルフィ的なフォワード・ガイダンスとは、中央銀行の予測や見通しであって、
強いコミットメントではない。この名称はギリシャ中部にあるデルフィのアポロン神殿の 神託(神の予言)に由来する。古代ギリシャでは、神殿の巫女の口を借りて伝えられる神 託が尊ばれ、この神託が重要な決定を左右した。中央銀行のフォワード・ガイダンスがデ ルフィ的であるということは、それが神託すなわち予想に近いものであり、経済情勢次第 では変わりうることを意味する。
2 つ目のオデッセイ的なフォワード・ガイダンスとは、中央銀行の手足を縛る強いコミ ットメントを指す。ホメロスの叙事詩オデュッセイアの主人公であるオデュッセウスは、
故郷に帰る航海の途中、魔女セイレーンが住む島に差し掛かる。セイレーンの美しい歌声 は船乗りを魅惑し、惑溺した彼らは遭難するとされていた。そこでオデュッセウスは、歌
4 日本銀行<http://www.boj.or.jp/announcements/release_2013/k130122c.pdf>(参照日:2018年 3月19日)。
5 Campbell, Evans, Fisher and Justiniano (2012), pp.2-4参照。
6 翁(2013a)、31-34頁参照。
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声に惑わされないように、彼を船のマストに縛りつけ、決して縄を解かないよう船員に指 示した。ここからオデッセイ的なフォワード・ガイダンスとは、中央銀行が自らを縛り付 ける強いコミットメントを指す。
このような二分法に基づいた場合、QQE における「物価安定の目標」に対するコミッ トメントはデルフィ的、オデッセイ的のどちらに当たるだろうか。日本銀行は「物価安定 の目標」に強くコミットすることで、経済主体のデフレ・マインドの払拭を図っている。
これはQQEの第3の波及経路である期待転換効果に当たる。そのためには日本銀行のコ ミットメントはオデッセイ的であると受け止められる必要がある。これは先の第1の見方 に相当する。
ところが上述したように、現に多くの国でCPI前年比2%上昇は実現していない。そう した中、何が何でもCPIを前年比2%で上げようとすれば、金融緩和の度合いあるいは期 間が行き過ぎる可能性がある。その状態から金融政策が出口に舵を切ると、市場や実体経 済の振幅が大きくなるリスクが高まる。これでは、日本銀行法第2条に規定される「物価 の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資する」という金融政策の理念との整 合性が失われる。加えて、後述するように、出口では日本銀行の財務の健全性が低下し、
国民負担による日本銀行の損失補償の可能性も排除できない。このような状況を避けよう とすれば、CPI 前年比2%に対する日本銀行のコミットメントが事後的にはデルフィ的と なる可能性もある。
つまり QQEにおける「物価安定の目標」に対するコミットメントは政策効果を高める ためにも、事前には....
オデッセイ的であることが求められる一方、事後には....
デルフィ的とな る可能性がある。
これはKydland and Prescott (1977) が理論的に解明した「動学的非整合性」(dynamic
inconsistency)あるいは「時間非整合性」(time inconsistency)の問題に直結する。動学
的非整合性とは、事前に最適であった政策が事後的には最適ではなくなり、事前の政策決 定が事後的に覆される現象を指す。しかも、事後的に最適ではなくなることが経済主体の 期待形成に組み込まれると、事前に意図されていた政策効果自体が削がれるという側面も 有する7。
7 動学的非整合性の例は経済政策以外にも数多くある。例えばFischer (1980) は期末試験を巡る教 授と生徒の関係を挙げている。教授は当然、生徒に授業内容を理解してもらうことを目的として いる。実際に生徒が理解したかを確かめるため、その教授は期末試験を行うことにしていた。と ころが、日ごろの授業を通じて生徒が十分理解していることが確認できた。しかも期末試験を行