Tah 16 Bグ ループの同範関係
2 遺 物
32・ 35や 間弁が界線 とな って弁 の まわ りをめ ぐる33とであ る。
さ らに特徴的 な ことは
,軒
丸瓦32が 36と,
また軒丸瓦33が 38と,外
区外縁 を除 く文様構成に お い てか な り酔似 してい る点 であ る。軒丸瓦36と 38の 外区外縁は,素
文縁 の直立縁 であ り,平
安 前期 の特徴 を備 えてい る。軒 丸瓦32と
36,33と
38は,そ
れ ぞれ細部が微妙 に異 な るた め完全 な 同絶 ではない と思われ るが,軒
丸瓦32・ 33を 古 く位置づけて,そ
れを手本 として,平
安 前期 に36と 38を 模作 した と考え るよ りは,あ
ま り年代的にへだた りのない時期に作 られた と考 え る 方 が妥 当性が あ る よ うに思われ る。 それ は 軒丸瓦32と36,軒
丸瓦33と 38と,そ
れ ぞれ胎土 ・焼 成 。技法が酷似す るか らであ る。 以上 の理 由に よって,
これ らの一群は,奈
良時代後期か ら平 安前 期 のあ る時期におい て,継
続 的 に製作 された もの と考 えることができる。そ して,
これ ら が平城官瓦編年の第 Ⅱ 。第Ⅲ期の平城宮式軒丸瓦以降 の製作であ りなが ら再び白鳳的 な特徴 を 備 えてい る ことか ら,復
古瓦 と呼 びたい と思 う。 この復 古瓦 の年代決定は極 め て難 しい問題 で あ るが,本
報告 では,軒
丸瓦32・ 33・ 35を外 区外縁 の特徴 か ら奈 良末 の もの,軒
丸瓦3・ 38は 外縁 の直立縁 か ら平安初 めの もの と,
と りあえず考 えてお くことに したい。次に
,復
古瓦 のなか で,最
も古式 の文様構 成を もつ軒平瓦は,236〜 238で
あ る。軒平瓦 236 は上外区に珠文,下
外区に線鋸 歯文 を もち,唐
車文 の流れ も流麗 で,自
鳳的 な特徴を もち,明
瞭 な段顎 であ る。 しか し
,唐
草文 は,中
心単位をので き左右対称の均整唐車文軒 平瓦 であ る点 が,白
鳳期 の偏行唐車文軒平瓦 と異 な る。 次に,上
外区左右両端 は鈍角 とな って為 り,そ
れ と 画す る線を描 く。 これは本薬師寺か ら平城 薬師寺へ運ばれた6641G・Hに
葺 く際 に両端 を打 ち 欠 いた ものが あ ることか ら,そ
れ らの経 験 をか まえた後 の製作 と考 え られ る。製 作 技 法 か ら は,平
瓦部凹面に荒い布 日痕 を残 し,瓦
当の上弦 幅 と平瓦 部端面 の幅 とが 同 じ数値 を示す こと な どか ら,桶
巻作 りではない と考 え られ る。そ して平瓦部は分厚 く,通
常 の平瓦 の2枚
分 の厚 さであ り,な
かには,平
瓦 を2枚
合せ た痕 跡 を示す布 日痕 を残す例があ る。 この よ うに平瓦部 端 面 まで分厚 い瓦は,後
述 の平安時代 の瓦 に通 じて認め られ る ところであ り,本
薬師寺 や藤 原 官 の瓦 とは明 らかに異 な る。それ故軒平瓦236を
平安時代前期 の もの と考 え て為 きた い。 軒平 瓦237・ 238は,瓦
の作 りか ら,さ
らに平安的 であ り,軒
平瓦 236と 近接 した時期 に作 られ たの である う。次に長 岡官 の時期 (734〜794)に比定 され るもの として
,軒
丸瓦29があ る。薬師 寺 例 は1点
で破片であるが,寺
域 の近 い唐招提寺 では比較的多 く存在す る。 同施例は長岡官 にあ り,唐
招 提 寺 ・長 岡官 とも飛雲文軒平瓦6802型 式 と組 み合 う。 この組み合わせは,長
岡宮 の時期 に製作 され,平
城上 皇が平城 に帰 った時期 (810年頃)に
運 び込 まれた ものであろ う。す なわ ち『 日本 紀略』には,弘
仁元年 (810)「散位外従五位下江沼小並等を遣 して招提寺 の塔を造 ら しむ」 と あ るが,こ
の弘仁元年は平城上皇に よる平城 宮再建の時期で もあ り,か
つ,平
城 上皇 が財 を施 して塔 を作 り,王
宮を毀 して長廊 を作 る とあ る。王官 とは長 岡官 と考えてほぼ誤 りないであろ う。す なわ ち,29と
6802は 長岡官か ら唐招提寺へ運 ばれた ものであろ う。軒平瓦
220(6667B)は ,平
川廃寺・久世廃 寺・山城 国分寺 出土瓦 と同絶 の可能性 が強 いが,顎 の形態はやや異 なる。文様構成は
6667Aの
系譜 をひ くものであ るが,唐
草文 の流れが 曲線 的31)「護国寺本諸寺縁起集一建立縁起」『校刊美術史料
寺院篇』上,1972,p.276。
で
,長
岡官式に近い。一応,長
岡官前後の時期においてお きたい。平安時代前期 (794〜910)の瓦 として
,軒
丸瓦38と軒平瓦 239と をあげ る ことがで きる。軒丸 瓦38は,平
城 京東三 坊大路東側溝 で同籠例が 出上 した。平城京東三坊大路東側溝は上層・下層 に大別 でき,下
層か らは天長5年
(828)の 木簡,870年
初鋳 の貞観永賓が 出上 し,上
層か ら は 908年 初鋳の延喜通賓 な どが 出土 してい る。 これ らの点か ら,東
側濤 出土 の遺物は,908年
頃以 前 の奈良時代・平安時代前期 の時期に限定 され てい る。軒丸瓦38は,外
縁 が直立縁 で鋸 歯文 を 配 さない点 で,平
安時代 の特徴 を もつが,中
房が突出す るな ど古い要素 も持 って い る。800年
代前半に位置づけてお きたい。軒平瓦239は
,薬
師寺西僧房 の間仕切に積重ね られた状態 で出上 した。天禄焼失 (973年)前
の瓦 であることは疑 いない。文様 は
7回
反転 の唐草文 で,中
心単位を除 き左右対称の均整唐草 文軒平瓦の復古瓦 であ る。平安時代の復古瓦 の中では,古
い要素を多 く持 ち,曲
線 級に斜位 の 縄 叩 日痕を残す。 ここでは,平
安前期 の年代を与 えてお きたい。薬師寺におけ る天禄火 災後 の再建瓦 で出土量が最 も多い組み合わせは
,複
弁8葉
軒丸瓦39と 均整唐草文軒平瓦245で
あ る。軒 丸瓦39は南門 ・中間で20.5%,講
堂 で13.1%,東
僧房 で8.6%,西
回廊で7.8%,食
堂 で4.5%,西
僧房 で4.3%,東
回廊 で3.8%を
占め,出
土軒丸瓦 の1〜
4位
を 占めてい るのに対 し,西
塔 では全 く出土せず,金
堂 では2%(出
土軒丸瓦の10位)に
す ぎ ない。軒平瓦245は,食
堂 で6.9%と
多 いが,東
僧房・西同廊・束 回廊・講堂 ・西僧房のllkに出 土比率が2,3%か
ら0.9%へ
と少な くな る。金堂,西
塔 で全 く出土 していない ことは,軒
丸瓦39 と対応 している。薬師 寺の天禄焼失に際 しては,金
堂 ・西塔を除いて伽藍が焼亡 してい るが,軒丸瓦 39と 軒平瓦245の出土比 率 の多い建物は
,い
ずれ も『 縁起』に よって天禄火災後再建 さ れた と伝 えられ るものばか りであ る。 この軒瓦 の組み合わせは,天
禄 火 災後 の再建瓦 として使 用 された と考 えて よいだ ろ う。軒平瓦245は,均
整唐 車文 ではあ るが,上
外 区に珠文,下
外区 に線鉢 歯文を配 し,本
薬師 寺倉U建の偏行唐車文軒平瓦を意識 した点が認め られ る。鋲は曲線顎 の特徴を示す。軒丸瓦39は,平
板 な文様を示す複弁8葉
軒丸瓦 で,間
弁 は複弁 の周 囲をめ ぐっ て界線に と りつ く。 これ は9世
紀前半 の軒丸瓦38か ら変遷・推移 した もの と考 え られ よ う。 こ の軒瓦 の組み合わせを小型化 した もの として,軒
丸瓦 42と 軒平瓦246があ り,古
市廃 寺か ら両 者が セ ッ トで出土 した。次に
,天
禄焼 失前後の軒瓦 について,軒
丸瓦 ・軒平瓦のllgに検討 してみ よ う。軒丸瓦39〜 43 は,間
弁が複弁 の周 囲をめ ぐって界線に と りつ くグル ープで,軒
丸瓦47〜 50は 間弁が複弁 と分 離す る グル ー プであ る。一般に前者は珠文が密で,後
者は粗 であ る。製作技法 で も,瓦
当 と九 瓦 の接合に際 し,前
者は 丸瓦 部凸面に斜格子状 の刻みを入れ,両
者 に 明 瞭 な 差 が あ る。興 福 寺 ・平等院 と薬師寺 で同絶関係にあ る軒丸瓦52は,間
弁 と複弁が分離す る グル ープで,直
立す る外区内縁に小 さな珠文が痕跡程度認め られ る。 これは永承火災後の興福寺復興 と同年代の平 等院鳳凰堂創建時に使用 された もの と考 え られ る。以上 の ことか ら
,天
禄4年
(973)の 薬師寺焼亡前後か ら,永
承7年
(lo52)の 平等院 鳳 凰 堂 供養の時期頃 までの間に,
まず間弁が複弁 と分離す る グルー プが主体 とな り,や
が て後者の グ32)奈良国立文化財研究所『 平城宮報告Ⅵ』1975,p.34,PL.50。
2 えミ 物 ル ープの中か ら珠文が消失す るものが あ らわれ るであろ う。ただ し
,前
者 と後者 は,一
部併存した可能性 も存在 してい る。す なわ ち軒丸瓦47は 後者の グループであ るが
,珠
文 は密 であ り,胎土 ・焼成か らは軒平瓦248と 組 み合 うよ うに思われ る。軒平瓦248は軒平瓦 245と 大差 ない時 期 の ものであろ う。前者の グル ー プで
,天
禄焼 失前 に遡 る可能性が あるのは,瓦
当裏面に布 日 を残す軒丸瓦41で,一
本造 り軒 丸瓦盛行期 の最終末におかれ るものであろ うか。軒平瓦につい ては
,239の
他に,軒
平瓦242が,西
僧房 のス面直上 で出上 して為 り,天
禄焼失 以前 の ものであ ることは疑 いない。軒平瓦240〜 243の 唐草文は4単
位 で構成 され るのを原只1とし
, 1単
位 は支葉2〜 3葉
と菅1個
に よって構成 された同一 モチーフを有す る。4型
式 とも段 顎 であ り,同
一時期 の もの として よいだろ う。軒平瓦 244〜248は ,天
禄 焼 失後 の製 作 で あ る が,軒
平瓦247'248は ,文
様が 衡略 化 してお り,や
や時期の降 る ものである う。薬 師寺 の再建は,「 造寺 国」 の制
,す
なわ ち,各
国に建物の造営 を分担 させ る制度 に よ って 行 お うと した。その分担は,『 縁起』 に よる と,大
和 ・備前 ・備後 。安芸 ・播磨・周防・美濃・伊 予 ・讚岐 の
9箇
国であ ったが,実
際 にはほ とん ど造営にかか らなか った とみ え,講
堂は別当 越 禅が造立にあた り,貞
元4年
(978),平超が別 当 とな って下間を作 り,講
堂 の再建 を 完 成 し た。 中門は平超が寛和2年
(986)に造立 し,戸 3間
と二 王像は次の別 当増ll‐hが
寛 弘3年
(loo6) に造 りは じめ,同 9年
(lo12)中 に造 り終 ってい る。 回廊は周防が13間,他
は平超 と増砧が造 立 した とい う。 これ らの記事をみ ると,最
初 の国宛に もかかわ らず,実
際 は ほ とん どすべ て寺 側 の努力に よってな された よ うであ る。 これは造瓦において も同様 であ って,前
述 の薬師寺再 建瓦 の大 部分 は,前
代 の文 様 を引 き継 ぐものであ り,そ
れ らは寺院に よって製作 された もので あ ろ う。これに対 し
,特
殊 な瓦 と して,伊
予真導廃寺 と同絶の軒平瓦253が
あ る。 この軒平瓦は おそ ら く,伊
予か ら大和へ運 ばれ た瓦 であ ろ う。『縁起』に よれば,薬
師寺焼 失後の宣 旨に よって,「 東西僧房」 は「 伊予」が作 る と定め られ てい る。 この軒平瓦は
,束
僧 房 の ほ か,講
堂 。西僧 房 ・西回廊 で出土 してお り,造
寺 国制 に よって,伊
予か ら搬入 された瓦 であ ろ う。平安時代後期 I(lo40〜1080)の瓦 につ い ては
,興
福寺食堂 の発掘成果,そ
して『 造興福寺記』の記述 な どか ら
,軒
丸瓦52・ 86と 軒平瓦276・ 277をあげ ることが できる。軒丸瓦52は ,平
等 院・ 興福寺 と同絶 であ る。関野 貞は,中
房 に1+4の
連 子を もつ復弁8葉
軒 丸瓦 が 興福寺にあ るが,こ
れ と「 全 く同様に して確かに同 じ瓦型 よ り作 られた もの」が平等院屋根裏か ら発見 さ れ,これ と組み合 う軒平瓦 を指摘 し,これ らは「 永承年間に造 られた」 もの と してい る。 また, 同 じ文様の軒丸瓦を坪 井清足 は「 薬師寺か らも同絶の ものが 出 て為 り,
これ が 永 承2年
3月 29日に華麗 な りとて賞を賜 った もの と同型式にあた るのではないだろ うか」 と してい る。軒丸 瓦86は,大
安寺 ・法成寺例 では24〜 25箇 所施傷が認め られ るが,薬
師寺例は絶傷が少ない。特 に,薬
師寺 では,中
房 の蓮 子に接す る絶傷は存在せず,あ
るいは,元
来薬 師寺 が所 有 していた 瓦 当絶か もしれない。 この軒丸瓦 は,大
安寺 ,法成寺では,素
文縁 の右か ら左へ 偏行す る唐草 33)愛媛県教育委員会『伊予国真導廃寺跡発掘調査報告書』1977,p.57。
34)関野貞「 日本古瓦文様史」『 日本の建 築 と芸 術』 上, 1940, p.776。
35)奈良国立文化財研究所『 興福寺食堂発掘調査 幸Rt写』, 1959, p.36。