2006ナショナルトレセンU-12東海より©AGC/JFAnews
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スポーツの楽しみ方の原点に「する」こ とがあるのは言うまでもありませんが、そ れと同じくらい、人々は「みる」ことでス ポーツを楽しみます。試合会場に直接出か けて、ライブの臨場感を楽しむだけでなく、
いつの時代にもさまざまな媒体(メディア)
が、人々の「見たい」「聞きたい」「知りた い」欲求に応えてきました。
今号から数回にわたって、スポーツとメ ディアのかかわりについて考えていきたい と思います。まずは、サッカーから少し離 れますが、日本における野球の発展を題材 として、「新聞」がどのようにかかわってき たのかをみていきましょう。
近代スポーツが輸入された明治維新のこ ろは、「新聞」という新しいメディアが登場 した時代でもありました。1872(明治5)
年の東京日日新聞(毎日新聞の前身)をは じめ、讀賣新聞(1874年、以下読売新聞)、 朝日新聞(1879年)などが次々とこの時期 に創刊されています。
政府要人の援助や支持を受けていた初期 の新聞は「政府の御用新聞」として機能し ていましたが、次第に「征韓論」や「自由 民権運動」など、さまざまなテーマについ て論客、思想家が意見を表明する場となり ます。19世紀末までの新聞の内容は社説・
論説が中心で、読者層は主にエリート階層 を対象としていました。
19世紀末から20世紀にかけて、新聞社は 徐々に「報道」に重きを置くようになりま
す。国民の大きな関心事であった日清・日 露戦争の報道は、新聞の購買層を一般大衆 へと広げ、各社は「売れる新聞づくり」へ の取り組みを始めます。スポーツ・イベン トを新聞社が主催するようになったのは、
このような背景があったのです。
1915(大正4)年に大阪朝日新聞社主催 で「全国中等学校優勝野球大会」(夏の甲子 園大会)がはじまりました(注1)。1872年 に日本に紹介されて以来、高等教育機関の 学生によって盛んに行われていた野球は、
このころには中学生(今の高校生)にも十 分広まっていました。多くの観客が集まる ようになったため、第3回大会からは、阪神 電鉄が所有する鳴尾競馬場の中に、野球場 を2面設けて行われるようになりました。
1905(明治38)年創立の阪神電鉄にとって、
路線の伸張と沿線の開発、乗客の誘致を目 指した多角経営はこの時期の重要な課題で あり、鳴尾競馬場の改修もその一つでした。
それでも観客は収容しきれません。つい に1924(大正13)年、阪神電鉄は甲子園球 場をつくり、以後、高校野球のメッカとし て今日に至ります。球場への移動は鉄道で 行い、試合の模様は新聞で知る。ここに電 鉄会社と新聞社の利害が一致し、高校野球 は大いに発展し、大学野球や社会人野球の 隆盛とともに、後のプロ野球誕生の伏線と なるのです。
「朝日」と「毎日」が野球大会を主催し て発行部数を伸ばしていたこの時期に、読
売新聞社は経営難に陥っていました。1924 年に社長に就任した正力松太郎は新企画を 次々と打ち出し、読者の興味・関心を引こ うとします。特に、首都圏で絶大な人気を 誇る学生野球は、メディア価値の高い貴重 な 商品 でした。
当時の学生野球界は、第一高等学校(一 高。現在の東京大学教養学部)隆盛の時代 から、早稲田大学と慶応義塾大学による覇 権争いの時代に移ろうとしていました。
1903(明治36)年の初対戦以来、両校の試 合は年々ヒートアップを続け、1906(明治 39)年には両校の応援団のあまりの過熱ぶ りに対戦中止となり、以後1925(大正14)
年に復活するまで19年間、早慶戦は開催さ れませんでした。
1925年の復活戦にあたって、読売新聞で は「早慶戦の模様を今夜のラジオで本社か ら皆様にお伝えします」との告知を出しま した。この年に始まったラジオ放送も、野 球を伝えることでメディアとしての地位を 確立し、またラジオで伝えられることで野 球人気も高まります。スポーツとメディア の WIN-WIN な関係が、「読売」の名前を 広めることにもつながります。
正力はアメリカから大リーグ選抜を招聘 することにも取り組みました。日米間の微 妙な時代に「世界最強野球軍」とも言われ た大リーグ選抜が来日したのは1931(昭和 26)年11月のことです。「打撃王」ルー・
ゲーリック、「スモーク・ボール(見えない 球)」のロバート・グローブなど、大リーグ の一流選手につけられた呼称は、新聞・ラ ジオのメディアが命名したものです。これ
サッカー文化論
スポーツの社会科学
中塚義実(筑波大学附属高校教諭)
スポーツとメディアのかかわり①
―高校野球・
プロ野球と
「新聞」の
関係を探る―
新聞社と高校野球
※写真はイメージ©Jリーグフォト㈱
新聞社とプロ野球
らメディアの宣伝もあって、各地で行われ た17試合は大盛況でした。「全米軍を招くの は日米親善に資することと、読売新聞の宣 伝をするという二つの目的しかない。本社 は一文ももうけようという気持ちはない。
もしもうかったら、それは全部そちら(大 リーグ側)に提供する」との契約により、
読売新聞社に利益はありませんでしたが、
野球を知らない人にまで「読売は大したも のだ」と思わせるほどの大評判を得、「販売 にもたらした利益は想像以上に大きかった」
ことが指摘されています(文献1)。 1934(昭和29)年の第2回日米野球では ベーブ・ルースも来日メンバーに加わりま した。読売新聞では号外を発行し、「帝都沸 く、見よ!!この大歓迎」の大見出しで来日の 模様を伝えます。沢村栄治(「沢村賞」はこ の人の名前を由来としています)をはじめ とする日本選手も、大リーガーの活躍とと もに新聞紙上で取り上げられ、今回も大盛 況のうちに幕を閉じました。
このときの日本選抜のメンバーを中心に 同年12月に創設されたのが「大日本東京野 球倶楽部」、後の読売巨人軍です。正力は野 球に関心を持つ企業の経営者に声をかけて 球団の設立を呼びかけ、国内でのプロ野球 興業を目指します。声がかかった企業の中 には、年2回の中学野球以外に甲子園球場を ほとんど利用できていなかった阪神電鉄も 含まれます。
こうして1936(昭和31)年2月5日、日本 職業野球連盟設立総会が開かれ、ここに日 本のプロ野球が誕生しました。設立時の7球 団の親会社はすべて電鉄会社か新聞社でし た。
日本のプロ野球は、「経済制度の野球制度 に対する上からのプロ化として捉えられ
(中略)、それは今日のプロ野球のあり方や 性格をも、ある程度規定しているように思 われ」(文献1)ます。親会社にとって、野 球チームを持つメリットがなくなったと判 断されたときに球団は「身売り」され、球 団名や活動地域が変わっていきました。電 鉄会社や新聞社が中心だったプロ野球は、
東映、大映、松竹などの映画配給会社、日 本ハム、ヤクルト、ロッテなどの食品産業、
ダイエー、オリックスなどの消費者直結型 産業の参入を経て、近年はヤフーや楽天な
どのIT産業の参入が見られます。その一方 で、国鉄、西鉄、阪急、南海、近鉄といっ た電鉄会社や、毎日新聞などがプロ野球の 経営から離れていった歴史も知っておく必 要があるでしょう。
企業の論理とは異なる論理が必要です。
われわれはプロスポーツの先輩の歩みを通 して、こうしたことも学んでいく必要があ るでしょう。
最後に、1911(明治44)年に東京朝日新 聞紙上で展開された論争を紹介してこの項 を終えたいと思います。それは8月20日か らの「野球界の諸問題」、続いて8月29日か ら「野球と其害毒」と題して計26回にわた って連載されたものです。論争の背景には さまざまな事情がありますが(文献5)、ま ずは一高校長の新渡戸稲造氏の主張を紹介 します。
「野球選手の不作法、これはほんの一例 に過ぎぬが、何処の学校の野球選手でも、
剣道柔道の選手のように試合をするときに 礼を尽さぬ。(中略)運動家らしいと言えば、
何だか礼儀も知らぬごろつきのように聞こ えるのも、日本の運動家の品性下劣から来 ている。(中略)最も憂うべきことは、私立 は勿論のこと官立公立の学校といえども、
選手の試験に手加減をすることがあり得る ことである。もし選手が落第でもしそうに なると、他の選手が教師のところに来て、
先生、実はあの人はよくできるのですが、
試合前でしたので、我々が無理に運動場へ 引き出しましたのでできなかったのです。
先生もご承知の通り、あの人は平生できる のですから、今度の学期には勉強させます から、と懇願されると、生徒の平常を知っ
ている教師はつい手加減をするに至るので ある」(文献2)。
東京朝日新聞に掲載された「野球の害毒」
についての識者の意見に対して、野球を擁 護する意見も他紙には掲載され、一大論争 になりました。いずれの論も、今日に通じ るものがあります(文献2/3/5)。
系列の大阪朝日新聞社が、今の高校野球 の前身となる大会を主催するのは、この論 争のわずか4年後のことです。主催者の意図 は、「運動競技会における最も必要なことは、
よき鞭撻であり、監視であり、さらによき 指導者である。(中略)明治末年から大正の 初頭にかけて、めざましき勃興の気運に向 かいつつあったわが運動競技の実状に鑑み、
我が社が事実の報道という在来の新聞使命 から一歩を進めて、積極的に各種の競技会 を自ら計画し、または後援するようになっ たのも、この精神から出発したものに他な らぬ」というものでした。つまり、学生野 球の 本来の 精神を大切にし、それを監 視、指導する立場で全国的規模の大会を開 くに至ったという主張です。こうして今日 の高校野球は、「すべてを正しく、模範的な」
あり方を内外に示す場として、新聞という メディアによって形づくられました(文献 2)。「学生野球はこうあるべきだ」と信じ、
また「そうあってほしい」という願いを込 めてつくられた高校野球を報じるメディア からは、「らしさ」にまつわる物語が、昔も 今も発信され続けています。こうしたさま ざまな「物語」が、独特の日本的スポーツ 観につながっていることは言うまでもあり ません。
(注1)1924年には大阪毎日新聞社の主催で「全国中 等学校選抜野球大会(春の選抜)」も始まりま す。同社は1918(大正7)年に「日本フートボ ール大会」を主催しています(本誌Vol.10参照)
<引用・参考文献>(引用箇所は一部現代文に修正)
(1)菊幸一、『「近代プロスポーツ」の歴史社会学−日本プロ野球の成立を中心に』、不昧堂出版、1993
(2)清水諭、『甲子園野球のアルケオロジー−スポーツの「物語」・メディア・身体文化』、新評論、1998
(3)坂上康博、『にっぽん野球の系譜学』、青弓社、2001
(4)波多野勝、『日米野球史』、PHP新書、2001
(5)石坂友司、「野球害毒論争(1911年)」再考、スポーツ社会学研究第11巻、2003
野球害毒論争とメディアからの メッセージ
団地のど真ん中にあるホームスタジアム(ジュロンイースト・スタジアム)で、
前日の調整練習をするアルビレックスSの選手
アルビレックスS vs ゴンバック・ユナイテッド
日本職業野球連盟設立総会時(1936年2月5日)のプロ野球球団 創立日
1934年12月26日 1935年12月10日 1936年 1月15日 1936年 1月17日 1936年 1月23日 1936年 2月15日 1936年 2月28日
商号 大日本東京野球倶楽部
大阪野球倶楽部 大日本野球連盟名古屋協会
東京野球協会 大阪阪急野球協会 大日本野球連盟東京協会
名古屋野球連盟倶楽部
球団名 東京巨人軍 大阪タイガース
名古屋軍 東京セネタース
阪急軍 大東京軍 名古屋金鯱軍
資本関係 読売新聞社
阪神電鉄 新愛知新聞社
西武電鉄 阪急電鉄 国民新聞社 名古屋新聞社