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通 婚 圏

ドキュメント内 _i 速読-華美 (ページ 129-140)

う。

第 5 節 通 婚 圏

難 波 征 進

足 守 町 の 通 頼 圏

「農村は娘 的 で ある」 とか r農村 は封 鎖的で ある」 Lh う吉葉 を我々は1 く耳 にする。事実 尺玉主義と云 われる今 日の牡 a)中で相変 らず ,江戸 .明治期に固定化された種 々の博行 が ‑ ち ちろん長 いもの も多 くあるが ̲ 当然 と Ll七お こなわれ .津々の規制を個人 に対 して与えてい る こと。鳩舶忙 かける親 と子供の 宕鬼の食い違 い ,嫁 と姑 との Iラル .村 落内部 で の村八

など.これ らの多 くの問題が現在の戯村に存在 してい ると云 うことである。 この 上うな顎在 日本 の戯村に与え られてい る既成の概念が一休 ,そのgI実の中に どの ような必然性と方向性を もつ も の なのかを飽村(ここでは足守町 とい う逝祢農村 と云えるか も しれ ない )とい う存在 'e通 じて明 らかに してゆ こ うとす るのが我 々の研究 の目標で ある。一 方

於 いて r農村は変 る」 と云 わ れ . 他方に おいて 「とDの こされ た戯村」 と云われる矛盾は一体何 をの か。我々はこの中に あってと

くに 魁村の封鎖性と云う問題をと

b

あげ ,開放 程度を明らかに して みたい.そ の指槽 と して通 婿 とい う事実に よって その封 鎖性と開放性を明 らかに してみたいと考 えるのである。

棚 が本人同恵の個人 にとどせらず ,村落共同休 内部の深部に根 ざす人 口移動で ある こと ,那 ち通解 とい う事実のみな らず ,背後にある農村社会の構造咋 t で逆登 ることが必要 である とい5 ことにはか ならないの である。山本生民の指摘 している エう

「通梅軒の把 握は村落の封鎖性コと 開放性の程度 を理解しようとする場合の客横的 な欄 た b得 る」とい うの である。

‑ 251‑

T 家 族 構 成 .〜

足守町の家族構成は どの ようにみ られるだろうれ 微かに この他吠人 口は動脚 (社会的 )

∴みる といわゆる プッシュ (pL18h)の力が年 とと もに犬尊 くなって いると衰 え ようo具 体的 uJ南部の上 土田のE3築地城そ れ も耕地両親 の掛 ゝところは別 と して ,上足守 ,柳 の人 口窄皮 :/)掛 、地域 ,及び 日正を中心と した粕 我伽 域に なると ,いわゆる5反盲姓のf印 ‑入 る戯 一J誹 多く ,必然的に人 口の都市煎 出という現 象がま われて くる。家族構成か らも長子相 続 とい ぅ旧来 か らの伝軟 がそのまま受け艇 が九 ,その家 と良美 を受けついでゆくとみ られる形態 が砺 :,'耽 み られ るの であ り ,そ こから次 ・三男の都市‑ の 押し出 しとい うことがみ らす止 o もっと

新 しい国勢温室 によると足守町全体の一戸 当Dの家 族月数 をみると次の ように なる。

第12表 足守町の人口と一戸当少の家族月数

I

. \ ー

世 脚 数 人輿 女口 JE 計 l 家 族 口 数 f上 声当 bo ー足 守 60 3 1,28 1 1,37 0 2,6 5 1 4.4人

!大 井 515 1,119 1,17 4 2.2 93 4̲5 i 日 近

I 3 41 8 38l 887 1,79̲5 5.l l

'岩 田 28 0 69 4 674 1,3 68 4.9

福 谷 5 12 1,3 26 1,42 6 2.7 52 5.4 一 計 2,3 01 5,258 1 5,531 1 0.7 8 9 4.」

国勢謝糞 (昭和35年10月実施 )役場統 計課 より

l胎 5年 の戸翁に よb家族構成 をみ ると次の ようにな るo 抽出は上足 守の深伐。 ・r

′ ■ 一一→▼

11j)55 lt

l■

質 ㍗:5{ 拷 ; c

m

. . 一 t,

既 ン:ノ̲2/二6 字妨 ≧彰三 諾;■抑 5(++15<棚

明治5年 役墳壬甲声批 よる

碍 12表 によると家族数は北部になるほ ど一般に大 きくなっていると云 えるだろ う。何故に

⊃よ うな現鹿奇起 しているのであろ うかO一般に鎧乾はその磯雄的塩見上 ,人 口抱容力が大 き

●̲.〟‑.′ヽ.̲ ′

い と云われている。即 ち ,砧碇 の文 化生活は 吐深 ないに して も ,俗 VLい う 「食 いは ぐれ」が な く ,ど うにか生 きてゆ かれるので あるo と もか ( ,生物的 なその他の 頚司が あるに して も ,少 なくと も山菜 という土地 を生産手 段と して家族 Bの 労岱把 上る生産活動 と同 じ家族Bの 弼鞠 M とい う基本的 を的係に沓 すことは否定 出来 ない ところ であろ う。 明 治5年の壬甲戸

こ上 ってみた第13菱 に よると家族櫛成 は一戸に1人 〜 1,

.

5人〜 8,9人〜 15の3つに 分か れ ゝ

るようft' 家駅構成がそ れ だけ 複雑で同居人な どが一家に2 ,3人 居ると云 う場合 も少 な く ない。 舟

的・

忙曲射 匂道都 した平

と云 われ る家 族輔成と士 族 ,商人 はその家族 構成 が興 る こ とが 予想 され る.二亮 新戸紫 k ェると .4人〜 9人 の掛 で圧

的な 戸数 があるとい うo所謂正 常曲鞄 を現出 してい る. 祖父 ,祖位 ,両親 ,子 供 (2‑ 6人 )と云われる形 の家 族が現 実には

著にみ られる とと把 よるの であろ う。 もちろん家族 賂餅 は常に変 化す る も(t)である LIF,tに一 定

の周

期 を もつ ことが 予想される。すなわち,帆父 ,楓はの 存 在とその両者の死 亡に

b 末 節

族の 出現 ,次 に子供の転 蝦及び 山盛 に よ‑・,てqrしい紅茶家族 が形造 られる という関係が たえす くb返され てゆ くという もの である。 ‑一万 .,人口の都TT

T

流出 とい う点か らも しだいに ,平籾Ba 家の次 ,三男の脇付 か らの流出とこの家族 織

に大 なるk響 を与える ことを否定 する もの でJ/i

なしも 第14衷 運 営耕地面 軒広狭別Ra崇 敬及び上t解 く全 足 守町 )

良 策 セ ン サ ス3 2年 役場・

第1 4表 で もわかも 1うに桝地 面府が少 を く

所紺「 5

反 百姓」 が多 いことが わかるで あろうo

J

足守 町の 嘩地軸

通好奇 問RBにす る場合 ,婦人と姫 瓜Z)2つの‑7@朋が あるが,これは村蕗 を単位に村落へ 外部 か ら入 る もの ,蝦入 ,逆 に柑L# 内部か ら外部 に放 出す る もの

出との2つに限定 して (もちろ ん村 紡内部のみ で ,行政上 .人U の増減には関係の潅いものがあることは もちろんで あるが ) 分析する方が断 りか と思われるo婚畑 の拡大はすで LL我 々の予想すると ころであるが ,一体

どの ようなタイ プを もち ,どの ような方 向にあ るのか を考 えてみ たいo まず瓜初に内船 (人 口 移動に 関係のな い もの )についてみ ると足 守町 の現在 (昭和3 6年1月1日

エb

半年間の もの を分析 してみると )の内輯率は 11.1車 (162作中 18件 )を示す。 一方 明治 ,大正期 ,チ なわち これらの両 親 に放 ける内鳩車 をみ ると1nJ.6串を示 している. この ことか ら ̲1牡代前に 比 して 内姫率 の沌 少 ,いい かえれば 通嶋 田の拡大をみるの であるo

I) 入婿 と出頼 a) 入 婿

‑ 251‑I

足守町 へ堀船に 上ってどこから入ってきているか である。

筋 15表 塘籾に 上る有 人 音数

岡 山 市 7 倉 赦 市 2

卸 建 部 7 赤 磐 郡 2

.失 職 町 6 総 社 市 2

都 錘 部 5 児島顔除村 2

棚 届受 付 (役場史 料 上b )

最 も多 くの転入者の出身地は 岡山市 で ある。

少を くとも棚 関係が成立す る為把 は 地域的には いろいろな重要 な要 因

がなければ ならない と考えられるが , い ったいその要因は何であろ うか】

ます 岡山市 VCつい て考 えてみると , もちろん地方の商業 .文化の中心地 で あるか らして ,種々の交渉は必然 的VC多 くなる ことはわかる。この 足 守 町と地理的に もひ じ 上5に笥接 で ある こと ,自動車で1時 間余

b

とい !交 渉 し易盲 ,それ に鉄道 も敷設 され ているという 交通 洩

の執 重要な要凶 である !.t思 われる。 逆に棚 に 上る転出 の壌合 も同 じこと が考 え られる と思うが,この点交通損関の発達に よる交渉の増大と蝦舶成立 の諜付けは何 でなされるだろ うか。 我 々は明治大正期 VC釈け る転入者

どこからかな もう一皮考煮 して みなければならないであろ う。

第16表 明治 ・大jb 転入者の 出身地

地 域 名 噂梱報 地 域 名 I姫舶 突放

舌 備 郡 7 久 栄 都 1

御 津 郡 6 広 島 県

2

(昭 和36年1月1日よb 6月30日までの第1 5表 抽 出の戸免 から父親及び母親の出身地 を表わす )

この第16表 で解か るように この頃 の通婚砂 ;ひ じ lうに狭少でかつ限 恕 r拓いたことをよく吻琴っていると 思われる。即 ち前にみた最近の もの と比較 して第1に目につiのは岡山 市との交渉がないと云 うことであろ うO即 ち交通機関の未発運に 上る鐘 済文化面 での接触 が少 ない冶それ ら が必然的に姫舶関係の生れ丑い要因 となってい る ことがわかる。当時 の との足 守町の経済文化の面か らも .そ うである ように接触度はいたって乏 し,足守町か ら距離が速 くなればそれだけ 棚 関係が少なくなるとい う一般的な傾 向をみせ て いたの で ある。

b) 出 婿

次に足 守町か らどの ような ところへ棚 で出て行 ったかをみ る ことに い う。

第17表から して岡山耐 王もっとも多 い ,次 いで総社市 であるが ,やは

b

入婿 と同 じよ ) な原因が考 え られるてあろ う。 いかに接触度が大 きいか を物語ってい ると思われるo出輯

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3の焚髄町 が入 好 では8と倍の 数 字 を出して いる。同 じく転入 2の総社市は転 出7と大 きく転 出の方が増加 してい る点 か ら考 A .婚姻 に 上る人 口流動 は上流 か ら下流への方 向が一般的 であ る ように 考え られる し,地 方の 文化 ,経 済 ,政 治の 中心地 ,こ

こでは 岡山

に あって人口28 万人 を数 える婚掛の吸引 力及び 押出 しの力はかな

b

大 きな こと も

第17盛 伽 に よる転出先 (数字は人数 )

岡 山 市 8 食 政 市 . 4

総 祉 市 7 焚 騎 町 1 3

御 津 郡 7 玉 島 市 3

高 松 町 =l 新 釈 市 (動 静 3

都 銀 邸 5 ;そ の 他 33

昭和36年1月 1日

少半 年帆の 転 出 (役場受付けよb) も ,この第15表 ,第17表か ら もわかると ころ である。

I 足 守町

通解圏

足 守町 と現 在云 われてい る地域に合併 前の 大井 ・上足守 ・上 土田 1日近‑ .・・の 各々の 町村 が あ るが ,それらの 町村 内部 に も更 に細かな根 上の

刑が存在 して いるC たとえば上 足 守 に は 「.岡 ,余丁,山下 ,川 崎町 ‑ .)などが あるが ,此戒 的足 守町を代表 してい ると思われ る凍 茂部 落 について ,適職 全般について歴 史的に扱 粛して み

よ うQ

第18表 出恥 入 婚 の地域別 百分率 第18喪は明 治5年 と現在 との 出妨

、 ㌔ 出 婚 人 生

時 代 別 明治5年 現 在 明 治 可 現 在 自 村 内 40% 3

5

3 6弟 5

S

l 自 郡 内 33 7% 23

50年 1 55 仙 那 内 2 3% 74多 2 4g 65

年 I

及び入婿 の比率 の比較 である これ に よって明 らか な どと く ,一 首に し て通婿圏 の拡大がみ られ るで あろ う.

いわゆる ,村 内婿 ,内婚と呼 ばれ る 婿

形態 減少 し ,那 ,県と拡大 して いるのである この点は我 々の 予想 役 粉 壬 甲声 軌 荊F幻

はb

す ると ころである。交通 の 先達 とい ら ,人 口流通 を班塩化 する人類史化 の発 展 とと もに ,年 々増 大す る米英 戯家の動 向は 必然的 に この街好樹 を拡大 させる もの で ある

苗蛙の類 本 王義弟 旗途 上の現在 の 日本 が ,かっ て世界 殺 教わ 汽本三成的生産様式 にユタ世 界 曙 臨 した当時 のあのイギ リスの ように ,瞳皮の人 口の都 市尖中が現実の我国に於 いてみられている し ,又今晩 と も ,その才 向性ますます新 著にな るこ とが予想される。 この足 守町に放て も蝦舶に 上る戸所 領.上の みの足守町人 口増大 とたり転入者 す なわち入婿が 減少 し ,棚 は全国的 な ものとなるで あろ う。 もちろん通 轍 を・この足守町 を中心 こしてい る

上少 な くとも ,足守町の色民 として永住す る老 のみ を対 攻 と しなければな る まい。 こうなるとや比b第15と第17真の とと く足守 7i・中心 と した同心 円は

大 をみ る こ

‑ 255‑

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