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はじめに

これまでのハワイ日系宗教の研究は、現地への適応過程という視点で論じられることが 多かった。その中でも、教団組織や現地法人については、中野毅やMichihiro Amaがハワ イ 本 派 本 願 寺 1を 対 象 と し て 、 ハ ワ イ の 法 制 度 の 側 面 に 注 目 し て 論 じ て き た[中 野

1979,1981][Ama2011]。中野は、法人として認可された教団組織の基本構造がアメリカの法

人法の規定に従っており、法的規制に従うことは、ハワイ社会の文化的社会的価値に準ずる こと、即ち適応過程であると述べる。そして、1923年の「議制会2」設置以降、徐々に「信

徒支配(Layman control)が増大」し、第二次大戦以降には本格的に「信徒支配が増大」し

た、とその変容過程に言及している[中野1981:65-66]。

また、Michihiro Ama は、第二次大戦以前のアメリカ本土とハワイの本派本願寺におけ

る、組織の変容過程を明らかにしている。特に当時の教団の定款を読み解き、ハワイにおけ る本派本願寺の法人設立について論じている[Ama2011:38-43]。

中野やAmaによる研究によって、ハワイの日系仏教の代表である本派本願寺の教団組織 の形成・変容過程について詳らかにされているものの、果たして他宗派も同様であったのか、

その点は検討の余地が残っている。そこで、教団による正式開教が最も早かったにも関わら ず、現地法人の設立が遅かった浄土宗を対象として、財団法人の設立過程を精査する。

第1節 財団法人設立の前史

財団法人設立以前の布哇開教区については、第1部にて述べてきたように、1898年より 浄土宗による正式開教がはじまり、1905年にはホノルルに開教本部が設置され、開教が本 格化していった。だが、先に述べたように、開教院の檀信徒組織の分裂といった諸問題を内 包するなど、必ずしも順調ではなかった。これは、法人設立に関しても影響を与えていた。

そこで、法人が設立される以前の動き、即ち前史を本節では見ていく。ちなみに、日系宗 教で最も早かった本派本願寺は、1906年に法人設立の申請を出している。だが、当時の知 事によって申請を却下されており、次代の知事によって1907年10月に法人設立の許可が 下りている3

ハワイ浄土宗の現地法人を設立しようとした初発の動きは、1916年8月22~25日に開 催された布哇開教区開教使会で見られる。

▲区長の提案議案

一、布哇県法律の下に浄土宗教団を組織する件 一、右教団の規則及細則

一、右教団支部規則及細則 一、布哇開教区教区制定案 一、開教区規定改正案

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(『浄土教報』1916年9月15日1233号:10-11)

ここで伊藤開教使長によって提出された議案に於いて、初めてハワイの法律が意識され るようになる。その後も、1921年7月7日に開催された開教使会議においても「一、財団 組織に付きて(本部案) 決議 成るべく促進に努力すべし」と開教使会議にて議案が出る ものの、設置に向けて努力するという決議のみであった4。しかし、実際に現地の法律に依 る教団組織について検討がなされたのは、1924年7月21日から23日まで開催された「大 正十三年度開教使会議」になる。この会議においては、以下のような議事録が残されている。

五 教団組織ノ件 本部ノ意向

目下本部ノ事情ニヨリテニハカニ組織シ難シ

機ヲミテ□ラナサントス、本部支部トガ準備ヲ□□。

(『浄土宗開教院日鑑』:15)

この議事録では、本部すなわち開教院の「事情」によって組織することが難しいことが記 されている。この「事情」について直接は記録に残っていないが、「事情」として推測しう る出来事が3点ある。

第 1に外国語学校取締法反対試訴の影響である 5。1916 年から1927 年の間には、日系 社会を大きく揺るがした「外国語学校取締法反対試訴」が起きている。外国語学校取締法案 は、排日感情を含み、日本語学校の根絶を目指すものであった。同法が県会を通過し成立し たことに対し、日系社会から「教育の自由を奪う、米国憲法違反である」と試訴が起きた。

更にこの試訴は、日系人社会を「自由と人権を守るために試訴すべき」という訴訟派と「米 国内に居住するのであるから、日系児童将来のために試訴しないほうがよい」という反訴派 に二分した。

布哇教育会がまとめた、『布哇日本語教育史』に載っている試訴校のリストを見ると、試 訴に参加した浄土宗関係の学校は10校あり、基本的には訴訟派に属していたと言えよう6。 このように、外国語学校取締法案の制定といった、排日運動が展開されていた社会状況を鑑 み、現地法律に則った法人へと申請することは、はばかられていたのであろう。

また第2に、開教使長の頻繁な交代・帰国が続いたことである。1917年に第2代開教使 長の伊藤円定が辞任し帰国することになる7。そして、1920年には、第3代開教使長久家 慈光が病気のために辞任する8。更に1922年には、第4代開教使長立川真教が病気療養の ため1年間日本へ帰国している9。このような状況では、開教使会議などに於いて、法人申 請に関する議論がなされるのは難しかったであろう。

そして第 3 に布哇開教区内において、不祥事が続出してしまったことである 10。まず、

1922年に病弱であった立川開教使長の「排斥運動」が開教使、檀信徒を巻き込んで勃発す る11。この運動は1924年2月に立川が復帰したことによって収束する。復帰とは言え、排 斥運動が起きたことによって、立川の帰布を乞う要請が何回も立川に出された結果、完治し ないまま帰布することになったようである12

ちなみに会議議事録を見ると、立川の一時帰国中の代理事務として開教使宮本文哲が業 務を行っていたことを、一部開教使や檀信徒が疑問視し、代理事務を勤めたことを「排斥」

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と指摘したようである 13。ただ宮本自体は、代理監督を佐山学順に譲るつもりであったよ うであり、詳細は不明であるが、組織内において内紛があった、ということは事実であろう。

その後も、立川の死後、宮本が日本の宗務所より代理事務の辞令があった際には、明照会 の名前で、宗務所や布哇開教使会、開教連盟宛に不信任の電報を発信するなど、この排斥運 動や宮本に関する遺恨が残ってしまったようである。ただ宮本は、第二次大戦後も布哇開教 区において奉職し、1948年には推薦によって開教総監に就任、1962年には浄土宗大本山善 導寺法主に就任するなど、布哇開教区、浄土宗に対する功績がある。このようなことからも、

宮本に対する不信任は、一部開教使や信徒が宮本に対して不満を持っていただけであるよ うに筆者は考える。

また、同年4月15日にワイルク浄土宗教会に着任した開教使加藤照山を一部檀信徒が擁 して独立宣言を出してしまう14。これは、「ワイルク騒擾」と名付けられていた15。この騒 擾は、現地法人設立に関して大きな意味を持っており、詳細に見ていきたい。

この騒擾は、ワイルク浄土宗教会の一部檀信徒が一方的に独立宣言を出しただけで無く、

財団設立の手続きを行い、浄土宗布哇開教区と別組織になろうとしていたものであった。実 際に1924年9月17日に財団法人として設立許可が下りており、浄土宗布哇開教区として は、初めて現地法規に則った財団法人であった16。『日鑑』の記録には、以下のような記録 が残っている。

立川監督は馬哇島ワイルク教会の一部信徒は加藤照山を擁して独立宣言をなせしため 病体を拝して出張し彼等一派の同教会敷地及び財産を訃報横領して独立財団手続きを 了し居るを発見しそを取消すために苦辛し、一方社会の世論に訴□て奮闘せらるために 世の理解及び同条は立川師に集まり第一回第二回第三回と仲裁者出で仮后にワイルク 日本人会立ちて

加藤は近き将来他に転任する事、彼等の了せし財団組織の定款中不都合なる条項 を訂正してワイルク教会浄土宗財団として認める事、現在の役員は全部解散して 新たに運営する事

の条件を以て双方握手し□約定履行逐了は日本人会にて責任を以て監視する事となつ て立川監督は三ヶ月間の苦闘に疲れたる病体を擁して十一月□院せられしも病勢□はり 身体衰弱して昇殿動□さへも出来ず病床に苦悶中、更に同要勢の報告を兼ねて加藤裁□ の同意を求むるため布哇島に出張二□□四□にして帰院せられ□

□間加哇島コロア教会主任山口隆戒をワイルク教会に加藤をコロアに赴任せし□

(『浄土宗開教院日鑑』:23)

この記録によると、解決に関して、両者の間に日本人会が入って仲裁にあたっており、更に 立川が病体をおしてワイルク教会まで出向いて解決に尽力したことが判る。このように、

「大正十三年度開教使会議」が開催された7月は、「ワイルク騒擾」の仲裁、調停が行われ ていた最中であり、このような不祥事も「事情」として処理されていたのであろう。

また、この騒擾の沈静化に尽力した立川は、自身の病を押してマウイ島に赴き、調停を行 っていたことにより、騒擾の解決後、体調を崩して入院してしまう。11 月にホノルルへ戻 ったものの、体調が戻ることなく、1925年2月12日に亡くなってしまう。立川の死去は、