本論文では、植民地時代以降の歴史のなかで、ラーオ語が国民語として形成さ れていく過程が、ラオスの国民形成にどのように関わってきたのか、明らかにす ることを目的に考察を進めてきた。以下に、植民地時代、王国政府、パテート・
ラーオの順に本論の内容を振り返り、本論で明らかとなった、言語ナショナリズ ムの展開を追っていくことにする。
6-1
フランス植民地時代―植民地支配下の言語ナショナリズム
フランスの植民地支配は、ラオスとタイの間に政治的な国境線のみならず、言 語上の国境線をもたらすこととなった。19 世紀末より、植民地化を円滑に進める ため、フランス人によって辞書など一連のラーオ語出版物が編纂され、そのなか で、タイ語に対してラーオ語を下位におく、言語の「序列」が形成されていった。
フランスは、ラーオ語とタイ語の起源的同一性を認めたうえで、後者は文字の増 補や声調符号を付すなどして発展を遂げてきたのに対し、前者は原初の姿のまま にとどまっているとして、ラーオ文字の尐なさ、書記言語としての未整備を、ラ ーオ語をタイ語の下位におく根拠として挙げた。そしてこのような、ラーオ語の
「衰退」の要因を、ラーオ族の諸王国がシャムの支配下におかれていたという、
植民地化以前の「歴史」に求め、「旧支配者」であるシャムの脅威からラオスを守 る「保護者」として、ラーオ語の復興・再建に乗り出していく。ここに、タイ語 からのラーオ語の言語的独立という、現在に至るまでのラーオ語形成の基本方針 が誕生することになる。
フランスが、ラーオ語の近代語化を進めるにあたって第一に着手したのは、ラ ーオ語の正書法を確立し、ラーオ語をタイ語とは異なる「言語」として、つくり あげていくことであった。そうしたなか、1918年ごろよりフランスの主導のもと、
ラーオ語正書法を検討するための会議が開催されていく。植民地時代をとおして、
ラーオ語正書法には教育バックグラウンドの相違を背景に、語源型、音韻型、ロ ーマ字化という 3 つの意見が出され、この対立が解消されることはなかった。し かしながら、仏教を介してのタイ語の影響を遮断しようとした語源型支持者をは じめ、いずれの立場も、ラーオ語のタイ語からの言語的独立をはかろうとした点 で一致していたことは、第3 章でみたとおりである。
タイ語からの「独立」という枠組みは、タイの失地回復要求を退け、安定した 植民地支配を進めようとしたフランスによって編み出されたものであり、その意 味で、植民地時代のラーオ人の言語ナショナリズムは、フランスによって仕組ま れた、反タイ語・ナショナリズム的色彩の濃いものであった。一見すると、フラ
ンスとの関係がもっとも希薄にみえる語源型支持者にしても、仏教協会設置の背 景に、仏教を通じてのタイとラオスの関係を断ち切ろうとした、フランスの意図 があったことを考慮すれば、彼らの主張がフランスと全く無関係なものではなか ったことがわかる。しかし一方で、音韻型の支持者が、ラーオ語とタイ語の序列 を逆転させたことに顕著にあらわれているように、議論の進展とともに、ラーオ 人の言語ナショナリズムは、次第に「保護者フランス」のもとを離れ、一人歩き を始めるようになる。そして音韻型の優位が明白なものとなるなか、文字の尐な さ=合理性=進歩という認識から、タイ語に対するラーオ語の優位を確立するよ うな言説が形成されていく。
以上のような経過のもと、フランスの植民地下、タイ語との区別をとおして、
ラーオ語の「姿」を実体化するという、否定的同一化による国民語形成の基礎が 構築されていった。植民地時代の議論からは、それが当初はフランスの意図によ るものであったにせよ、タイ語とのシンボリックな境界を求める意識が、正書法 という、コミュニケーション手段としてのラーオ語の機能を決定していくうえで、
最重要ともいえる領域に決定的な影響を及ぼしていたことがわかる。ローマ字化 に対して、根強い反発の声が存在したことも、このことを明確に示すものといえ よう。そしてそうしたなか、エリートたちのあいだに、「ラオス」の領域に住むラ ーオ人以外の人びとにもラーオ語を普及させ、「ラオス人」をつくっていこうとい う、ラーオ語=ラオス国民=ラオス国家の一致を求める言語ナショナリズムが高 まり、こうした動きは王国政府、パテート・ラーオの双方へと継承されていくこ とになる。
6-2
王国政府-分裂する言語ナショナリズム
王国政府においては、植民地時代末期に音韻型が優位となった流れを引き継ぐ かたちで、1949年の国王令によって、「発音どおりに綴る」というラーオ語正書法 の原則が決定された。このとき、タム文字の使用が同時に認められたことから、
語源型支持者の意見は完全に退けられるかたちとなった。そして1951年に設置さ れたラオス文学委員会のもと、音韻型をベースにラーオ語正書法の規範が定めら れていく。
1949年のフランス連合内での協同国としての条件付独立に続き、53年にはラオ ス王国として、「ラオス」は完全な独立を達成する。このような歴史的流れのなか、
旧支配者の言語、タイ語の脅威からラーオ語を守る「保護者フランス」という構 図は完全に破綻し、シャム・フランスの支配のもとに衰退を余儀なくされたラー オ語の、「我々ラオス国民」による復興・発展が謳われるようになる。そしてイデ オロギー面において、ラーオ語はタイ(Tai)系諸民族語の祖語であり、ラーオ族は タイ系諸民族の起源であるという、ラーオ語、ラオス国民の「偉大な過去」をつ
くりあげ、現実のタイ語の脅威に対抗しようとした。しかしこのようなイデオロ ギーの形成はまた、「解放」を求める言語ナショナリズムが、膨張主義的な「大言 語ナショナリズム」的主張と表裏一体の関係にあることを示している211。
一方、独立後もフランス語が公用語として残り、中等教育以上の教授言語はフ ァー・グム学校を除き、すべてフランス語が採用されていたという事実は、フラ ンス語のもとに、ラーオ語がいわば「下位言語」としておかれるという事態を招 き、国民語としてのラーオ語の前途に暗い影を落とすこととなった。とりわけ教 育におけるフランス語への依存は、中等学校進学時の不公平という、世俗教育に おける不平等とともに、文学委員会でのマハー・シラーの立場にあらわれていた ような、仏教教育修了者と世俗教育修了者のあいだに亀裂を生じさせ、国民統合 を阻害する大きな要因となっていた。1970 年代にアカデミーと宗教省のあいだで 繰り広げられた、タム文字かラーオ文字の追加かという議論には、世俗教育と仏 教教育という、二つの教育制度のあいだにできた亀裂の深さがうかがえよう。そ して世俗/仏教の対立を背景に、音韻型/語源型という正書法を巡る対立が解消され ないまま、タイ語の影響は仏教教育の教材だけではなく、映画やラジオなどの新 しい娯楽、新聞や雑誌といった出版物をとおして、圧倒的な勢いでラオスへと流 入し、人びとの日常の言語生活に影響を及ぼすようになっていた。
しかしこのようなラーオ語をめぐる混乱が、王国政府の人びとのあいだに、次 第にフランス語の追放とタイ語の影響からラオスを守り、ラーオ語を真の国民語 としていこうという、言語ナショナリズムを醸成させていくことになる。『サー ト・ラーオ』には、タイ語語彙の流入に対する懸念や、政府のフランス語重視へ の反感を表明した、一般の読者からの投書が頻繁に届いており、このことは広範 な人びとが、タイ語とフランス語の脅威に直面するなかで、ラーオ語を国民語と して認識するという、否定的同一化の過程に取り込まれるようになっていたこと を示すものといえる。そしてこうした人びとの言語ナショナリズムは、やがて表 向きはアカデミーを設置し、ラーオ語の復興を謳う一方で、現実の公務において はフランス語を使い続ける王国政府エリート政治家たちへの不満となって現れ、
パテート・ラーオへと合流していくことになっていった。
6-3
パテート・ラーオ―革命と言語ナショナリズム
メコン川流域の都市部を支配領域とする王国政府と異なり、パテート・ラーオ においては、ラーオ族主体の国民統合にいかに尐数民族を取り込み、多民族から なる「ラオス国民」をつくりあげていくかが、革命闘争を勝利へ導くための、第 一の課題となった。そのため、パテート・ラーオの言語政策は、諸民族の共通語 としてのラーオ語の形成・普及と「尐数」民族語の発展の二大方針のもとにすす
211 大言語ナショナリズムについては、1-2-3を参照のこと。