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ラオス王国政府

ドキュメント内 HERMES-IR : Research & Education Resources (ページ 80-122)

ラオス王国は、1949年に条件付の独立を認められた後、1953年のフランス・ラ オス友好条約の締結をもって、完全な独立が達成された。これにより、ラーオ語 はいよいよ、国民語として発展していくための「国家」を獲得したことになる。

しかしながら、対外的には領土問題など、隣国タイとの間に微妙な問題を抱え、

対内的には尐数民族問題に加え、かつてルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャ ムパーサックの 3 王国へと分裂していたという歴史的背景を要因とした、地域主 義に根ざした対立が強く残るなど、国家建設の前途 には難題が山積していた。ラ オス史研究者である、スチュアート・フォックスが、独立直後のラオスには「い かなる想像の共同体も存在しなかった」と述べているように[Stuart-Fox 1997: 60]、

政治的な独立を達成したものの、国家建設の担い手となる「ラオス国民」とは誰 なのか、その内実をこれからつくっていかなくてはならない、という段階にあっ たのである。そして共通の歴史など、他に決定的なシンボルを求めるのが困難な なか、ラーオ語を国民統合の求心軸として、ラオス国民=ラーオ語の一致を目指 す一連の作業が開始されることになる。

これらの作業には、ラーオ語正書法の統一や近代語彙の整備など、標準化によ ってラーオ語を均質な国民語へとつくりあげていこうという、コミュニケーショ ン手段としてのラーオ語の整備に関わる側面と、国民がラーオ語を共有すること に何か特別な価値を見出し、取り替え不可能な「国民語」として認識していくた めの、言語イデオロギーを構築する側面という、2つの側面が存在していた。そし てラーオ語の形成と普及をとおして、「ラオス国民」としての国民意識を醸成する よう、企てられていたのである。

しかし、フランスが植民地時代にとった「愚民政策」は、こうした動きに暗い 影を投げかけることとなった。植民地時代をとおして、ラーオ人で中等教育以上 の教育を受けることができたものはごくわずかであったという事実は74、ラオスに は独立後の国家建設を担う人材が著しく不足している、ということを意味してい た。そして教育に関しても、教師不足を理由に中等教育以上では、フランス語を 教授言語としたカリキュラムが採用され、公用語としてもフランス語が重用され たことから、フランス語はエリート層と一般の人びとを隔てる、社会階層分化の 要因となっていった。当時、エリート政治家 たちは、ラオスの共産化を恐れてつ ぎ込まれた、アメリカの経済支援を私的に流用して私腹を肥やしており、賄賂や 汚職の絶えない政治家たちへの、人びとの不満は日ごとに高まっていた。そうし たなか、彼らの特権的地位の象徴でもあったフランス語を排除し、フランス語と タイ語という、新旧支配者の言語からの言語的独立を求める動きが王国政府の人

74 3-3-4を参照のこと。

びとの間で活発化していく。

本章では王国政府において、タイ語とともに、フランス語からの言語的独立を はかりつつ、ラーオ語が国民語としてつくられていくプロセスを、みていくこと とする。

4-1

ラーオ語標準化へ向けて―ラオス文学委員会の設置

4-1-1 1949

年の国王令

王国政府では、1947 年発布の王国憲法において、ラーオ語がフランス語と並ん で公用語とされたことにより[Katay 1953: 100]、ラーオ語に初めて、法的な地位が 与えられることになる。翌1948年には、ラーオ語正書法の基本的な規則を協議す るため、ラオス文学委員会(Khanakammakan Aksonsat Lao)が開かれ、そのときの決 定をもとに、1949年に国王令第10号が出された。国王令では、1)ラーオ語の文 字体系、数字、記号、その使用法に関しては、添付の表において規定されている とおりである。2)ラーオ語、そして外国語からの借用語に関しては、土地の発 音にしたがって書くこととする。3)タム文字は昔の方法を使用すると規定され [Kasuang Mahat Thai 1949.1: 21]、発音どおりに綴るという方法が、ラーオ語の正書 法として正式に採用されることになった。先述の1944年の正書法会議報告書であ る『ラーオ語の文字と正書法』に見られる正書法と、1)で言及されている添付の 表とを比較してみると、例えば末子音字のみに使われる「脚」と呼ばれる文字の 使用をやめるなど、より発音に沿った方法が採用されていることがわかる。しか し一方で、語中の音節に限って語源を表わすための特別な末子音字の使用を認め るなど、語源的な要素が完全に排除されたわけではなかった。また国王令では、

タム文字の使用が認められたことから、語源型正書法支持者の意見は、完全に退 けられるかたちとなった。

4-1-2

ラオス文学委員会

1949 年の国王令をもとに、ラーオ語の標準化を進めていくための機関として、

1951年8月27日の総理大臣令第207号により、ラオス文学局(Kong Vannakhadi)

とラオス文学委員会(Khanakammakan Vannakhadi Lao)が設置された[Vannakhadisan no.1. 1953. 8: 7]。この委員会はラーオ語では「カナカムマカーン・ワンナカディー・

ラーオ」といい、ラーオ・ニャイ期と1948年に設置された文学委員会が「カナカ ムマカーン・アクソンサート・ラーオ」とされていたのと、名称が異なっている。

しかしながらフランス語では、どちらも Comitté Litéraire Laoとされていることか ら、本論文ではすべて「ラオス文学委員会」と訳すこととした。「ワンナカディー」

も「アクソンサート」もほぼ同義であるが、前者が文学作品そのものを指すのに

対し、後者は現在のラオス国立大学の文学部がカナ・アクソンサート(カナは学 部の意)と呼ばれているように、広義には、哲学、言語学なども含めた、自然科 学・社会科学以外の学問を指す。

文学局と文学委員会は教育省の管轄におかれ、1951 年の総理大臣令には、将来 的にはこれらをフランスのアカデミー・フランセーズのような、アカデミーへと 昇格させることを目標とすることが記されていた[Vannakhadisan no.1. 1953. 8: 7]。

委員会の定員は 25 名とされ、創設時のメンバーは委員長がクー・アパイ(Ku Aphai)、副委員長がプイ・パンニャー(Phui Pannya)、委員兼書記がマハー・シラー・

ウィーラウォン、委員がボン・スワンナウォンとソムチン・ピエール・ギンの 5 名 で あ っ た 。 彼 ら は 教 育 大 臣 に よ っ て 任 命 さ れ[Vannakhadisan no.1. 1953. 8:

7][Rasabanditsapha Lao 1972a: 18]、マハー・シラー以外は、1948年の文学委員会に

参加していた。その後、1952 年 7 月の委員会会議で、ニューイ・アパイ(Nhouy

Aphai)75、マハー・プーミー・チッタポン(Maha Phumi Chitthaphong)76、ヌーハック・

シッティモラダー(Nuhak Sitthimorada)、ケーンの4名が新たに委員となり、さらに 同 年 10 月 の 会 議 で は 、 宣 伝 局 長 で あ っ た ク ア ン ・ パ ト ゥ ム サ ー ト(Keuong Pathumusat)が委員に承認された77[Rasabanditsapha Lao 1972a: 18-19]。1953年には、

委員会の改編が行われ、委員長がギン、副委員長がボン・スワンナウォン、マハ ー・シラーが書記となり、クー・アパイ、プイ・パンニャーはそれぞれ、名誉委 員長と名誉副委員長となった[Rasabanditsapha Lao 1972a: 19]。その後1959年まで に、タイ・ケーオ・ルアンコート(Tai Kaeo Luangkhot)、スパン・ブランシャール・

ドゥ・ラ・ブロス、プーウォン・ピムマソーン(Phuvong Phimmason)、クン・ピラ ーワン(Khun Philavan)が加わり78、合計14名となったが、定員の 25名に達するこ とはなかった [Rasabanditsapha Lao 1972a: 20] 。

メンバーの大半は、1940 年代の正書法会議に参加しており、名家出身でフラン ス式の世俗教育を受けたエリートたちであった。例えば、初代委員長のクー・ア パイは、チャムパーサック県の出身で、植民地時代にはサイゴンとプノンペンで 教育を受けた後、フランスのル・アーブルの商業学校(École Commerciale)にも留学 していた[Stuart-Fox 2001: 164]。1941年から47年までチャムパーサック県の知事 を務め、47 年から 49 年には教育衛生大臣、その後も国王審議会の議長、1960 年 には首相も経験するなど、要職を歴任している[Stuart-Fox 2001: 164]。プイ・パン ニャーはルアンパバーンの貴族であり、ボン・スワンナウォンもヴィエンチャン

75 1942年、44年の正書法会議に参加していたターオ・ニューイと同一人物と思われる。

76 同じく42年、44年の正書法会議に参加していたマハー・プーミーと同一人物と思われる。

77 同じく42年、44年の正書法会議に参加していたクアンと同一人物と思われる。

78 タイ・ケーオ・ルアンコートは教育局長、スパン・ブランシャール・ドゥ・ラ・ブロスは芸術局 長、プーウォン・ピムマソーンは総理大臣府に所属していた。なお、スパン・ブランシャ ール・ド ゥ・ラ・ブロスは植民地時代に正書法会議に参加した、ブランシャール・ドゥ・ラ・ブロスと同一 人物と思われる。また、クン・ピラーワンも44年の会議に出席していたパニャー・クンピラーワ ンと同一人物であろう。

の名家出身の政治家で、植民地時代にはハノイとフエで教育を受け、独立後には 教育相をはじめとする、政府の要職に就いている[Stuart-Fox 2001: 38]。ニューイ・

アパイは、クー・アパイの弟で、ベトナムとフランスへの留学経験があり、王国 政府の教育衛生大臣などをつとめた。そしてギンは、カンボジア人通訳とラーオ 人の母親の間に生まれ、サイゴンとパリへの留学も経験していた[Stuart-Fox 2001:

219]。ギンが 1940年代の正書法会議で、中心的な役割を果たしていたことは、前

章でみたとおりであり、王国政府時代には、ヴィエンチャンのリセのラーオ語教 師となっていた。

このように、文学委員会の主要メンバーたちのほとんどが、フランス式の教育 を受けた、高いフランス語能力をもつ、政治家や政府高官といったエリートたち であった。そうしたなか、東北タイ出身で、バンコクで仏教高等教育 を受けたと いうマハー・シラーは、他のメンバーたちと教育的バックグラウンドを異にして いた。マハー・シラー以外には、マハー・プーミー・チッタポンが、出家経験者 であることを表わす「マハー」の称号を持っていたのみで、文学委員会のメンバ ーは、フランス式の世俗教育出身者によって、圧倒的多数が占められていたので ある。

4-1-3

『文学(ワンナカディーサーン)』

1951年8 月に設置された文学委員会であったが、その後約 2年間、実質的な活 動はほとんどおこなわれていなかったようである。『文学』創刊号の「編集長の言 葉」では、運営に必要な予算が獲得できなかったことと、文学局専属の職員を確 保で き な かっ た こと の 2 点 を、 そ の理 由 とし て 挙 げて い る[Vannakhadisan no.1 1953.8: 3]。そしてようやく、必要な予算と人員を確保し、活動を開始した文学委 員会の情報を国民にしらせるため、1953年8 月に、文学委員会の機関紙として『文 学 ( ワ ンナ カ デ ィ ー サ ー ン )Vannakhadisan』 が 創 刊 され た [Vannakhadisan no.1

1953.8: 3]。『文学』は 1953年8 月の創刊から、1955年1月の第9号まで、約2年

にわたって発行された。創刊号では、毎月 1日発行の月刊誌とされていたが、第 2 号以降は2ヶ月に1度の発行となった[Vannakhadisan no.2 1953.10: 2]。発行部数は、

第2 号の時点で1000部と記されており[Vannakhadisan no.2 1953.10: 2]、バンコク とヴィエンチャンの二箇所の印刷所で印刷されていたようである79。編集長はマハ ー・シラーで、委員会による会議での決定事項として、ほぼ全号にラーオ語文法 や行政用語、ラーオ語辞書編纂に向けた語彙表などが掲載されていた。 目次をみ

79 『文学』は、バンコクとヴィエンチャンの二箇所で印刷されたいたようで、同じ号であっても、

出版所がバンコクの出版所とヴィエンチャンの出版所の、2種類の版が存在する。出版所が違うだ けで、ページ数や内容は同一であるが、7号と8号について、表紙に記されたヴィエンチャン版の 発行年月が19547月と12月であるのに対し、バンコク版はどちらも195810月となっている。

内容などから判断して、バンコク版がミスプリントであると思われる。

ドキュメント内 HERMES-IR : Research & Education Resources (ページ 80-122)

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