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若干の事例

ドキュメント内 インドにおける1973年外国為替規制法と (ページ 35-42)

(2)ITC

第7節  若干の事例

イシドにおける1973年外国為替規制法と外資少数所有化

        第16表 いくつかのFERA会社の製造能力増強の程度

製品名およびそれを製造した会社名 拡張以前の  製造能力の 製造能力 増強比率(%)

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

ω

oの

Compressors(Ingersoll Rand)

Drilling equipment[Ingersoll Rand]

Ion exchange[Ion Exchange(lndia)]

Water treatment plants[lon Exchange(1)]

Aluminium foils(India Foils)

Tinplate/tinfree stee1(Tinplate Co of India)

Paper(Tribeni Tissues)

Sodium, ammonium and potassium perchlorates(WIMCO)

V鴨e61s(V%eels India)

Tank Wheels(Wheels India)

Top rollers(Wheels India)

Elevators(Otis Elevators)

Rubber chemicals(Alkali and Chemicals)

Sintered tungsten carbide(Sandvik Asia)

Rubber chemicals(Bayer)

Ball bearings(Associated Bearing)

Textile machinery components(Associated Bearing)

Commercial vehicles(Ashok L,eyland)

ThinwaUed bearings, bushings and thrust washers

      (Bimetal Bearings)

 2704nos  212nos

20000cu ft

Rs 1201akhs

 3000MT 90000tonnes  8500tonnes  50tonnes 320000nos  4880nos  1440nos  480nos  2770nos  84tonnes  2500tonnes

 3.75mill nos  21.1mill nos

 5400nos

 lO lakh numbers

101

218

150 100 25

77

59

900

134 100 100

68

116

78

160 80 38 85

900

〔出所〕S.Chaudhuri,ρρ.α1乙, p.739(原資料=各社の会社内容説明書)。

51.8%・47.7%を占めている。また,第16表は,19社(第9表に記載されていない会社も4 社含まれている)における一定の製品の製造能力の増強を示したものである。これによれば,

全体的に生産能力が著しく増強されていることが明らかである。とりわけ,WIM一       く  CO・Bimetal Bearingsのように900%という驚くべき伸びを示している会社もある。

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dustan Leverが複雑な技術を用いるラインに参入しているので,株式の過半数所有を維持 し続ける資格があると主張し始めた。また,Unileverによる1965年の所有比率低減後, Hin−

dustan Leverは,1969年に固形合成洗済の生産に,さらに1970年に多数の化学製品(食品  乳製品・化粧用打粉・特定の歯磨)の生産に参入した。以上は1970年頃までの状況である。

これについてRathは次のように述べているが,正にそのとうりである。「まず第一に,

Unileverは,同社の金融的支配権のインド人への譲渡という名目で,その地位を強化した。

第2に,同社は,外国人普通株式参加を減ずる時はいつも,その営業を新生産ラインへ拡張 することにより,その事業を強化した。第三に,同社は,同社が新生産ラインへの拡張によ

りインド工業化に貢献していることを,政府に納得させ,これに基づき普通株式の過半数所 有を主張することができた」。また,以上から明らかなように,1965年のUnilev6rによる第

2次の株式低減後にHindustan Leverは事業拡張やインド市場の捕捉を進めていたのだが,

彼は「この時期にMRTPA(独禁法一1969年)とFERA(1973年)が議会を通過したことは,

      く  興味深い」とも述べている。

 1977年,インド政府の圧力により第3次の外資所有比率低減が行なわれた。耳industan Leverはこれにより外国人普通株式所有比率を65.5%まで低減させたが, UnileverのHin−

dustan Leverへの払込資本は1965年の7946万4000ルピーから1977年の1億1534万5000ル ピーへと増大した。所有比率の低減にもかかわらず,Unileverの払込資本額は,1.5倍近く にまで増大したのである。1979年,Hindustan Leverは,精製化学薬品生産のためのタロジ ャ工場稼働により,一層拡張した。1980年に行なわれた最終次の外資所有比率の低減では,

外国人所有比率は51%まで低減された。これにより,Unileverの払込資本は1.3倍近くの1 億4871万6000ルピーまで増大した。その後,Hindustan Leverは,一層の成長を画策する中 で,ジャソムの合成洗剤プラントを拡張した。また,このプラントの近くには精製化学薬品 生産のための新工場も出現しつつあった。さらに,インド政府は,マドヤプラデシュのチン

ドワラ地区に新工場設立のための仮認可を発給するとともに,ハルディアの日産500トソの DPA肥料生産にかんする申請を検討中であった。

 1982年,政府は,次の理由に基づいて,且industan L,everによる51%の過半数株式所有の 維持にかんする申請を認めた:(a)Hindustan L,everはその製品価額の10%超を輸出してお

り,かつ(b)同社は製品価額の60%超を「付録1」産業において生産している。ところが,

Rathの資料(同社の年次報告書に基づく)によれば,1同社は「付録1」のわずか3つの製 品ライン(合成洗剤・工業機械・精製化学薬品)において操業していただけであり,1977年

〜1981年におけるこれら3製品の価額の同社の製品総価額に対する割合は15〜25%程度でし かない。したがって,彼は,(b)は事実とは異なっていると主張している。もちろん,彼は,

輸出にかんする:FERAガイドラインにおける外資所有比率40%超を可能とする「例外条項」

では最低輸出比率が60%となっており,したがって(a)を理由とする外資多数所有の承認は不       くるり可解であるとしている。さらに,彼は指摘していないのであるが,1976年ガイドラインによ

る各条項の組合せにかんする規定を考慮しても,インド政府によるHindustan Leverにおけ るUnileverの51%株式所有承認は,まったく正当性を欠くものと言わざるをえない。なお,

1970年代以後についても,Rathのそれ以前にかんする先のコメントがほぼ当てはまる。

 (2)つぎに,1983年1月のEooπo〃沈απ4 Pり1耽α1晩6々砂誌の記事に拠りながらGlaxo Laboratories(India)を取上げよう。

 58年間インドで営業してきたGlaxo L,aboratories(India)は,多くのFERAの制限条項や

「新薬剤政策」から免れるため,自発的に非居住者の所有権を40%まで低減させつつあった。

同社は,非居住者所有の低減計画の一環として1株5ルピーのプレミアム付で1株10ルピー の株式を560万株公開発行していた。こうした低減計画について,同記事は,「同社はこれに より薬剤事業においてより大なる適応性と成長の展望を得,かくて同社のより多数の製品は 政府が発表した生産増強促進のための自由化計画の利益を得る資格を有するであろう」と述 べ,その拡張・多角化計画として次の5点を挙げている:同社は,中央政府にカルナタカに 建設される新工場である有機化学薬品を製造するための許可を求めていた;同社は,トウモ ロコシ澱粉を原料とする製品製造のためKarnataka Industrial Development Corporationと の合弁企業の可能性を検討していた;同社は,既に,野新工場を設立する予定のグジャラート のアソクレシュワールで5つの新bulk drugsを製造するための仮認可を取得していた;同 社は,同地でさらに3つの新bulk drugsを製造するための許可を政府から得ようとしてい た;同社は,additional betamathasone製造のための産業認可を取得し,またadditional betamethasone formulations製造のための認可取得を期待していた。同社は,販売・利益に おいて好業績を記録し,45年間にわたり間断なく定期的な配当を行なっており,それまでの

6年間に二度のボーナス発行を行なっていたのだが,同記事は次のように締めくくっている。

「同社は,計画された業務の拡張・多角化により,さらに成長し,拡大された資本の下で相       り ラ

応の配当を行なうであろう」。

 外資側が外資所有比率の低減という条件を受入れることにより,かえってインドにおける 企業活動の展開が容易となり,1980年代に打出されてきた自由化政策のメリットを享受でき るという点は,きわめて興味深い。われわれは,FERAの考察に当って,この点を重視す る必要があると思われる。

  2 前述のように,FERAの下での外資の撤退件数も少なくない。つぎに, T.N.

Gladwinと1. Walterの著作に拠りながら, Coca−ColaとIBMの撤退の事例を,両社のイ ンドにおける簡単な歴史をも含め取上げてみよう。

 (1)Coca−Cola Companyは,1950年代初にインドへ進出し,まもなく主要都市に4つの びん詰工場を設立した。Coca−Cola Export Corporation in Indiaは,1977年まで自社工場か ら22のインド人所有のびん詰工場ヘシロップを供給した。インドで年々販売された4億5000 万本は,1977年の137国における販売から得られた親会社の収入31億ドルの0.2%にしか当ら なかった。

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 1977年8月初,インド政府は,4年間にわたる多国籍企業全般に対する(ことにCoca−

Colaに対する)反対キャンペーンの後,事実上, Coca−Colaに,1978年4月までに同社の 所有権と「ノウハウ」支配権をインド人投資家へ引渡すか,それともインドから退去するか を,要求した。新たに選挙で選ばれたJan環ta党は,Indira Gandhiの国民会議派より熱心に,

       く 1973年FERAを実施しようとの姿勢を示そうとしているようであった。 FERAの一つの狙 いは不法な利潤送金を抑えることであったが,政府は,Coca−Colaは1950年代初以来1200 万ドル超の投資しかしていないのに親会社へは1250万ドル超の利潤送金を行なったと,主張 した。また,政府は,同社がインド人ビソ詰め業者との取引きで400%の利鞘を得ていると の証拠を,発見したようであった。評論家達も,同社が以前の国民会議派政府の官僚に便宜 をはかってもらって政府規制を回避することにより,どうにかして競争を抑えて利潤を吸上 げようとしていたことを,批難した。Janata党の指導者は, FERAが発効したにもかかわ らず,Coca−Colaへ同法に従うようにとの通達が出されなかった点に注目した。その通達 が初めて出されたのは,Janata党が権力の座に着いた後の1977年4月になってからであっ た。他方,ビン詰業者のほとんどは,政府によるCoca−Colaの取扱いは「政治的復讐」の 臭いがすることを,認めた。    一

 Coca−ColaとJanata党政府との間の「政治的衝突」は,新たに就任した工業相George Fernandesが議会でCokeの過去と未来について述べた1977年8月8日,初めて大衆の注意 を引きつけた。彼の意見によれば,インドでのCoca−Colaの諸活動は,「発展途上国の優 先度が低く高利潤の分野で営業する多国籍企業が,いかに急成長を遂げ,当該国政府の側の 警戒姿勢がない場合発展途上のより弱体な土着産業を軽くあしらうことができるかという典 型的事例」を提供したという。Coca−Colaは,普通株式の60%をインド人へ移譲し,その

「ノウハウ」を新規のインド人支配会社へ移譲するのに,1年間の猶予を与えられた。

Cokeの濃縮液をインド人ビソ詰め業者へ供給する Coca−Cola Export Corporationは,普 通株式所有比率の40%への低減に同意した。しかし,親会社は,その軽飲料水の製造に際し 注意深く守られた営業秘密を保護するために,「品質管理権」を保持するとともにインド連 絡事務所を保有することを許されるべきであると,主張した。インド政府側は,このような 条件下では提案されているインド人支配会社は依然として米国会社の製造支配権の下に置か れる濃縮液の販売会社として機能するに過ぎず,そのような条件は受容れられないと,述べ

 くるの た。

 1977年8月14日,Coca−Colaは,同社が幹部社員Anthony Youngを訪印させ,守秘製法 という袋小路からの出口についてなんとか交渉させるための任務に着けたことを,明らかに した。しかし,政府は9月初までに同年のCoke濃縮液輸入の認可を拒否し,これにより同 社の全販売活動が事実上停止したようである。その上,Fernandesは,政府の化学老がコー ラ代替飲料の製法を考え出し,1978年3月までに販売するための準備を行なうことを,明ら かにした。官僚達は,1977年はIndira Gandhi政府の終結ならびにCoca−Colaの最後とい

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