「包括政党」自民党の支持基盤は、1970年代に入って停滞から衰退へと転じつつあった。
高度成長期とそのまま重なる池田・佐藤内閣は、およそ12年間、国会の「安定多数」を 謳歌したが、72 年の田中内閣から不安定期に入る。その後、二度にわたる石油危機を経た 低成長時代で「利益の配分」による党内統治も不全に陥り、絶対的なリーダーの不在は権力 構造を複雑にして、派閥の領袖らによる「たらい回し」にも似た2年前後の政権がおよそ10 年続くことになる。
日本共産党の伸張に危機感を覚えた保守・右翼勢力から反共、反左翼の言論活動が活発に なり、やがてそれは財界・産業界の強い要請と結びついて、後年言うところの「新自由主義」
的な潮流を生み出してゆく。いわば、「革新自治体」を理論・実践の両面で支えた知識人の ような動きが、保守側の知識人でも顕在化してきたわけである。これについて第一節で検討 する。
革新勢力の中核となってきた組織労働者も曲がり角を迎えていた。高度成長期に準備さ れていた労働側の「企業主義的統合」(1)は、第一次石油危機後の不況と低成長によってよ り促進されることになった。そして左翼的性格の特に強かった官公労(公労協)が1975年 末の「スト権スト」の挫折によって発言力を低下させ、自民党政権は結果的に、国鉄・電電 公社の民営化への端緒を作ることに成功する。言うまでもなく、これは中長期的にみて社会 党の最大の支持基盤が細ってゆく結果につながった。分岐点となったスト権ストの位置づ けを中心に、衰退に向かう労働運動を第二節で分析する。
不安定化した保守に対して、革新政党の中でもマルクス主義に拘束されない「中道」より の公明党・民社党が70年代の後半にかけて接近してゆく。特に民社党は本章の時期に、安 全保障政策を自民党に近づけて、もともと有していた反共性をより強く前面に出すことで、
社会党が期待する「全野党共闘」が不可能であることを明確にした。
民社党の保守化・右傾化の伏線は60年代から引かれていて、自民党・財界への資金的依 存が――当時は自民党に関しては表ざたならなかった――相当の効果を及ぼしたというの が本稿の見立てであり、第三節で民社党の性格、歴史的な役割とともに論証したい。
本章が扱うのは、自民党では主に三木武夫が政権を担当した時期である。三木は「保守左 派」と目され(2)、党内基盤の弱さを指摘されることが多かった(3)が、三木政権自体は防 衛力整備や、後年の新自由主義的な政策につながる提言を行い、保守政治の転換点となった という評価がある。(4)これは宰相三木の器量・信条を超えて、保守勢力全体が高度成長後・
ベトナム戦争後の新しい保守路線を模索し始めたことの表れと考えられる。民社党の保守 化や労働運動の衰退も、そうした前提での理解が必要であろう。
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第一節 保守・自民党の変容――保守知識人の台頭と新自由主義のめばえ
内閣調査室に関係していた香山健一の共産党批判
「日本共産党が、政権担当能力をそなえた責任ある野党とはいえないことは明白である」
「グループ一九八四年」を名乗る、自称「各分野の専門家二十数人から成る」研究集団によ る「日本共産党「民主連合政府綱領」批判」と題した大掛かりな共産党批判が1974年、月 刊誌『文藝春秋』6月号に掲載された。73年に野党各党が政権構想を発表していた中から、
特に共産党の構想を取り上げて、資本主義、自由主義、議会制民主主義を擁護する立場から 詳細かつ徹底的に批判したものである。
『文藝春秋』次の号には共産党からの反論が掲載された。その過程でグループ一九八四年 の筆者名を明らかにするように共産党が求めたが編集部は応じず、そのまた次号に同グル ープの反論への再批判が掲載された。(5)すでに当時、グループの中心人物は香山健一と推 測されていたが、実際には香山が一人で執筆したもののようである。(6)当時『文藝春秋』
編集長だった田中健五によると、この「日本共産党「民主連合政府綱領」批判」の原稿を持 ち込んできたのは、田中と親しい山崎正和だった。(7)
香山、山崎はいずれも若き日に共産党に入って左翼運動に身を投じ、短期間でそこから離 れ、大学教員になってからは保守系と見なされるようになった学者である。(8)本稿冒頭で 触れたように山崎は佐藤栄作政権のブレーンの一人で、この当時「左翼政権の誕生」の可能 性を真剣に危惧していた。そして二人は、70年代前半ころに内閣調査室がスポンサーとな った「国家の政策を考える」勉強会に一緒に参加していた仲間でもあった。(9)当時の内閣 調査室長は、旧内務官僚で警察庁警備局長などを務めた川島広守である。川島はまもなく田 中内閣の後半から三木内閣期にかけて官房副長官を務め、前章既述の「創共協定」や、次節 で扱う「スト権スト」の時期を、官僚のトップとして迎えることになる。
保守・自民党政権の危機感と「反共」
「グループ一九八四年」の論説が、こうした人脈から形成され世に出てきたことは当時、
知られていなかった。その頃の政治状況について、山崎は次のように述べている。
――われわれとしては当時、日本に左翼政権が絶対にできないという自信はなかったで すからね。(その場合の左翼とは)社会党・共産党の社共連合です。それに公明党は当時は 社共側でした。民社党を含めて、もし社共公民が連合したら、短期的な左翼政権ができる可 能性はあったわけです。新聞世論では、そちらのほうが与党ですからね。いつひっくり返る かわからない状況の中で船を操っているという意識は、われわれみんなにありました―(10)
時期的には前後するが、田中政権下のインフレと石油危機による混乱の中、1973年12月 21日付の『毎日新聞』に掲載された世論調査の結果は、保守・自民党にとって衝撃的なも
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のであった。(11)「将来望ましい政権」の形をたずねたところ、
①自民党政権25% ②社共連合政権24% ③全野党連合政権19% ③社公民連合政権18%
上記調査に限って言えば、野党政権を望む世論が自民党政権を上回り、しかも共産党の政 権入りを認める回答も4割を超えている。
この結果はやや極端とも見えるが、73年11月の『朝日新聞』世論調査における政党支持 率でも、自民40%、社会27%、共産9%、民社5%、公明4%となって(12)、野党支持の合 計(45%)が自民支持(40%)を上回っている。物価高やモノ不足などは自民党政権では解 決できない、という不信感が社会に広がっていたものとみられる。
田中政権の後継争いの過程で、田中自身は総裁選挙による盟友・大平正芳への政権移譲を 考えていたのに対し、それに反対する福田赳夫らは新党結成の構えを見せ、三木にも民社党 から連携―首班指名の打診があるなど、自民党は分裂含みの危機的な局面を迎えていた。
(13)一方、共産党の勢いは74年も止まず、報道への登場機会も増えて、75年には宮本顕 治が大手一般新聞の一面に登場して「70年代に革新政権」「大衆の動きに急変の要素」など と、政権への意欲を語るような状況に推移していた。(14)
政府・自民党と伴走する保守系学者・文化人の増加
1972年以来の共産党の伸張と、上記のような「新聞世論」が、保守・自民党及びその中核
的な支持者の危機感を募らせたことは想像に難くない。それが具体的に表れたのが香山ら の反共的な言論活動であり、『文藝春秋』で1975年末(1976 年新年号)から発表され、2 年にわたって続いた立花隆「日本共産党の研究」も、これと共通する性格を持つと考えてよ いだろう。
文藝春秋は69年に論壇誌『諸君!』を発行してから保守・右派色を強めていた。そして
「グループ一九八四年」を世に出した田中は『諸君!』の初代編集長であり、ノンフィクシ ョン作家の本田靖春によると「かなり確固たる信念に基づく保守主義者」(15)で、のちに社 長を務める。一方、『産経(サンケイ)新聞』は、元日経連専務理事の鹿内信隆が68年に社 長に就任して以来、73年6月に『正論』欄を創設、同年10月には雑誌『正論』を創刊して、
やはり保守・右派色の強い紙面(誌面)を展開した。共産党批判の企画は主軸のひとつで、
香山も寄稿者の一人だった。(16)
このように、70 年代半ばから反共を前面に出して活性化した保守論壇の中で、政府・自 民党と伴走する新しいタイプの学者が増加・台頭してきた。それまで佐藤内閣のブレーンだ った猪木正道、高坂正堯ら「新現実主義」派の政治学者や山崎に加えて、香山、佐藤誠三郎、
公文俊平らは数年後、大平正芳政権で首相諮問機関である政策研究会のリーダー役を務め ることになる。(17)
1970 年代前半の世界は、広く反戦のうねりを起こしたベトナム戦争が終結に向かい、米