日本共産党は、1922年創立の日本で最も古い歴史を持つ政党であり、世界のマルクス主義 政党の中で最も組織的に成功した例のひとつといえる。戦前・戦中の国家による弾圧、敗戦 後の占領軍による解放と躍進、一転して占領軍からの排除、それに対抗した火炎ビン戦術な ど暴力路線の失敗という動乱を経て、1955年の六全協(1)以降は平和路線による立て直し に成功。、70年代には衆院選挙の得票率で10%を超えるところまで伸長してきた。(2)
かつては関係が深かったソ連・中国という二大社会主義国と60年代に対立した後には独 自路線を歩み、冷戦後も、さらに21世紀に至るまで一貫した抵抗政党として組織を維持し 続けた。そして右翼・保守層・公安関係・経済界といった勢力の反共攻撃にも屈することな く、国会に一定の勢力を確保し続け、政府を監視している。また総与党化が進んだ地方議会 では、とりわけ共産党の担うチェック機能は大きい。こうした姿はある意味で革新政党の亀 鑑と見る向きも多いだろう。冷戦後に社会党と民社党が消滅し、公明党が自民党の補完勢力 に転じた政治史を顧みるとき、一層その感を強くする。
しかし、日本の政党政治全体の発展という観点から共産党を位置づけるとき、また別の評 価が浮かび上がってくる。共産党の存在や批判が社会党の現実化、社会民主主義への路線変 更を阻む大きな外的要因であったという本稿の仮説は、これまで論じてきた通りである。マ ルクス=レーニン主義に基づく「真の革新」を自称する共産党は、「革新首座」の社会党が 右寄りになることを牽制する一方で自らとの共闘を促し、社公民路線の推進者であった江 田三郎に対しては批判を加え続けた。一方で、70年代前半には官公労はじめ社会党の支持 層を侵食して勢力を伸ばしている。
本稿が主題とする革新勢力の分裂と対立の主役は、ある意味では共産党であったし、この 党の存在は野党間の合従連衡の節目で常に影響している。80年代には総評・社会党が社公 民路線にかじをきったことで、共産党の「自主孤立路線」(3)は決定的になったが、「連合」
への労働戦線統一に対抗して「全労連」という共産党系の労働組合中央組織(ナショナル・
センター)を発足させた。その党史は、野党の役割と存在意義について考える題材でもある。
しかし共産党を正面から取り上げた学術的な先行研究は、極めて少ない。公明党と同様に、
その閉鎖性と外部の批判に対する反発の大きさが要因と思われる。
本章では、第一節で60年安保闘争後の共産党の復活と拡大に至るまでを記述しつつ、
1972年衆院選挙での伸張の背景、および他の野党との関係について分析する。第二節では、
自民党政権が不安定になった73年から 74年にかけて、野党の政権担当能力に注目が集ま るようになり、各党が政権構想を発表するに至った状況を描く。第三節では創価学会と共産 党の歴史的協定と締結とその波紋、その後に協定が無効化した経緯について検討してゆく。
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第一節 高度成長期の共産党の復活――組織力と日常活動の成功
高度成長期における共産党の歩みを、以下に年表的に記した。(4)
1961年7月 第8回党大会 「反帝反独占の民主主義革命」をうたう新綱領を採択 構造改革派を退け宮本顕治書記長の指導体制が確立した。
1962年8月 原水禁世界大会、共産党と社会党・総評との対立が深まる。のち社会党 系は原水協に分裂。部分的核実験停止条約めぐりソ連との関係も悪化。
1963年11月 衆院選挙、公認候補は5人当選。
1964 年 4 月 春闘で総評・中立労連などの共闘会議が予定したストライキに反対す る声明を出し混乱、のちに自己批判する。
5月 衆院で党方針に反した志賀義雄ら「ソ連派」国会議員を除名。
10 月 作家の野間宏、佐多稲子、画家の丸木位里・俊子ら著名な文化人党員
を分派活動により除名。
11月 第9回党大会、党員数「十数万人」と発表。
1966年3月 中国共産党(毛沢東)と宮本ら党代表団の会談で対立生じる。
10月 第10回党大会。党員数「30万人近く」。
1967年1月 衆院選挙、公認候補5人当選
4月 統一地方選で美濃部亮吉が東京都知事に当選。
1969年7月 東京都議選で9議席から18議席に倍増。
12月 衆院選挙で14人当選。
1970年7月 第11回党大会、ソ連・中国を批判。党員「30万人」。
野坂参三議長、宮本委員長の体制に。書記局長に不破哲三を抜擢。
1971年1月 宮本委員長が革新三目標を提起、統一戦線呼びかけ。
1972年7月 設立50周年、党員数「約30万人」、『赤旗』読者、日刊紙55万人、
日曜版195万人と発表。
12月 衆院選挙、38人当選(革新共同、沖縄人民党含め40議席)の躍進。
1973年11月 第12回党大会、党員数「30数万人」。民主連合政府綱領案を決定。
武装闘争方針の失敗で衆院議員ゼロ、高度成長期に急上昇
1950年代前半は党も分裂状態に陥り、当時の徳田球一書記長らが武装闘争路線をとるな ど各地で警察との衝突を起こし、1952年の北海道・白鳥警部殺害事件などで反社会的政治 集団という批判を浴びた。49年には35人が当選した衆院議員も、52年にはゼロに急降下 した。のちに宮本顕治は党内の混乱も収束に向かった 58 年頃について「党員は三万数千、
党機関紙『赤旗』本紙読者は数万部程度」と振り返っている。(5)
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そこから10年あまりで党員数も『赤旗』読者数も数倍以上となる急上昇は、ほぼ高度 経済成長のタイミングと軌を一にしていた。基本的には創価学会・公明党と同様に、農村 から都市への人口移動を適切にとらえて党員・支持者を拡大したものだった。
ただし公明党とは異なり、共産党は当選可能性を度外視して60年代以降はほぼ全選挙 区に公認候補を擁立し、選挙活動を通じて党勢の拡大をはかる方針をとってきた。このた め得票率に比べて当選者数が少ないのが特徴で、67年の衆院選挙では初めて進出した公 明党が得票率5・38%で25人の当選だったのに対し、共産党は4・76%で5人にすぎな い。その後も共産党はこうした得票率と当選者数の大きなアンバランスという現象に見 舞われることになる。(6)
厳しい組織管理と徹底した他党批判
高度成長という時宜を得たとはいえ、この時期に党最高指導者の地位を揺るぎないもの にした宮本が卓越した組織拡大・管理の手腕を示したことは疑いないだろう。
その半面、党決定に反する行動や分派活動につながる動きは徹底的に排除し、構造改革論 での春日庄次郎、対ソ連問題での志賀義雄ら政治家をはじめ、社会的にも著名な野間宏、佐 多稲子、丸木位里ら文化人などの党員も次々に除名した。第二章で見てきたように、社会党 の江田三郎に対する批判が特に強かったのは、江田が61年7月に共産党から離党した幹部 に提携を呼びかけたことが影響した可能性がある。(7)
また、機関紙、機関誌を通じた他党に対する批判も執拗なものだった。反共色の強い民社 党、公明党は言うに及ばず、社会党でも江田らのいわゆる「右派」だけでなく、左派の社会 主義協会に対しても頻繁に批判の矢を向けている。(8)東京都知事選などで共闘関係が復活 した後も、68年には、社会党の機関紙『社会新報』が企業・公社の広告を掲載しているこ とをとらえて「〝腐れ縁〟断つ姿勢を」「革新政党の看板が問われる」と指摘する(9)など、
「野党内野党」とでも言うべき姿勢は一貫していた。
もちろん、公明党・民社党などからの共産党批判にも激しいものがあったが、部数的にも 成功した共産党の機関紙・機関誌を通じて他党に繰り出す批判は、政治の世界で「空中戦」
の文化を増幅し、革新勢力の分裂を促した面があることは否定できない。共産党のこうした 体質を「独善的」と革新他党は批判した。また「民主集中制」、すなわち民主的な党内決定 にもとづく党中央と指導機関の指導にはすべての党員が無条件に従うという組織原則は、
「中央集権」「上意下達」という批判を招いたのも必然といえる(10)
公権力による弾圧と監視という歴史、そして党内分裂による失敗の過去が、そうした体質 を生んだとも言える。民主集中制が党組織を守ってきた半面、過度の統制と閉鎖性のため、
一定以上の支持を広げられないジレンマが、この党にはつきまとっている。
1962―64年「社会主義国の核兵器容認」と「スト反対声明」の失敗
革新勢力内で共産党の評価を下げる大きな失策が、60年代前半に二つあった。62年8月
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の原水爆禁止世界大会後の9月 1日、ベルリン問題での米ソ対立を理由にソ連が核実験を 実施した。共産党はこれを支持する立場を打ち出し、非難を受けた。この後の部分的核実験 停止条約の是非も絡んで、原水禁大会は社会党系の原水協(原水爆禁止協議会)と分裂する。
これは原水禁における社会党との主導権争いという側面があった。(11)共産党の主張は、米 帝国主義に対抗するための社会主義国の核兵器は認めるものと一般に受け取られ(12)、す べての国の核兵器に反対すべきという世論の大勢と乖離することとなった。
また1964年4月初め、総評・公労協が主導する春闘は賃上げの不足などを訴えて17日 に統一ストライキを予定し、高揚する局面に入った。そのさなかの4月 8日に共産党は、
「スト中止」を呼びかける声明を出す。アメリカ帝国主義のたくらむ挑発に乗るべきでない という理由だが、真意は不明である。総評はこの声明を批判して、傘下の単産内ではスト参 加を拒否して処分を受けた共産党系の労組員が多く出るなど、労働運動においての共産党 の信用を大きく落とした。(13)
1972年衆院選、地道な日常活動が花開いた躍進
上記のような失敗がありながらも、共産党は1960年代後半、停滞する社会党・民社党と は対照的に党勢を伸ばしていった。党員拡大と機関紙拡張による収入増、各職場、地域での 組織拡大という近代政党の基本に則った日常活動の励行は、「成田三原則」(14)などで労組 依存が指摘されて久しい社会党とは対照的で、「団地でも<社会新報>を配る党員は一階に 積んで帰ってしまうが、<赤旗>を配る共産党員は四階まで階段を上って各戸配布してい る」などと評判になったという。(15)
原武史は、東京近郊の団地における創価学会と共産党の活動の類似性を指摘し、創価学会 が共産党を「後追い」したという見方を示している。(16)
労働組合での勢力拡大以外にも、共産党は未組織労働者と学生を中心にした周辺組織、関 連団体の構築に成功した。民主商工会(民商)、新日本婦人の会、学生組織の民主青年同盟
(民青)、民主医療機関連合会(民医連)などである。(17)民商での税務相談、新婦人での 保育問題などの取り組みは、とりわけ高度成長期の都市住民の需要に応えるもので、共産党 の機動力と「足腰の強さ」を示した。
労組へ「政党支持の自由」の主張
ただし、上記の各団体は「共産党の関連団体」と呼ばれることを否定する傾向もあった。
労働組合内の共産党勢力が執行部に「政党支持の自由」を訴えていたことと整合性をとった 形になっている。
白井泰四郎の分析によると、労働組合が支持政党を機関決定する慣行に対して、同一労組 内の共産党支持勢力(多くは反主流派)が批判・攻撃を加えるようになったのは69年衆院 選での社会党の大敗以降に目立つようになり、特に総評傘下の官公労では74年7月に行わ