本章では「六〇年安保」後から高度経済成長時代の1960年代末にかけての革新勢力の中 で主に社会党を分析対象とする。また、この間の中心的な政治指導者であった江田三郎につ いて考察を加える。社会党は59年~60年に民社党の分裂および安保闘争、党首浅沼稲次郎 へのテロに直面し、さらに60年代前半には「構造改革論」および「江田ビジョン」をめぐ る党内論争を経て、徐々に党勢を低下させてゆく。その間、公明党が本格的に国政へ進出し、
長らく低迷していた共産党も60年代後半には勢力を伸ばしてきた。
そして、社会党が大敗して多党化が鮮明に表れた1969年の衆議院選挙に至る。
第一節で先行研究による「社会党の衰退要因」分析について、併せて社会党の指導者の中 では特に政治学者やマスコミに注目されてきた一人である江田三郎の政治的な役割と評価 について、整理・検討のうえ、本稿が「歴史的転換失敗説」に与することの論拠を説明する。
第二節では社会党内で江田が主導した構造改革論とそれに続く江田ビジョンについて、
共産党・総評との関係を中心に検討する。またこの時期は、地方首長選挙で社会党・共産党 が推薦した候補が続々と当選していった「革新自治体」の興隆期にもあたり、多党化現象も 絡んで革新勢力の関係が複雑化してゆく。これに関しては第三節で考察する。第四節では、
革新勢力にとって分水嶺となった1969年衆院選までの、社会党の派閥争いと内向き体質に ついて分析する。
本章を通じて、これまでの研究では見落とされがちだった社会党に対する共産党の影響 力の強さについて改めて焦点を当てる。社会党内で構想改革論が棚上げされ、江田ビジョン が否定されたのは、総評首脳の批判が外部要因としては大きいと考えられるが、共産党と社 会党との人的なつながりもまた、社会党の現実化を阻止する力として陰に陽に働いていた ことは確実と考える。総評は当時、総体として社会党支援に軸足を置きつつも、もう片足を 共産党にかける余地を残していた。局所的に見れば、社会党の「左バネ」の背景には総評と 共産党が存在した。
また、他の革新政党に比べても民主的な運営を行う社会党の「風通しのよさ」が、結局の ところ党内派閥抗争の深刻さを助長したことに関しても、第四節を中心に検討した。頻繁に 党大会を開いて多数の役員を公開選挙で交代させる方式は、公明正大ではあるが、党執行部 のリーダーシップを阻害し、党活動を内向きにして社会党の低落傾向の遠因となった面は 否定できない。「開かれた党」であることは皮肉にも組織政党としての弱さにつながり、最 も重要な時期に、対照的な党運営を行う公明党、共産党に未組織労働者の支持獲得で後れを とったと言えるだろう。
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第一節 社会党の衰退要因――社民政党への「歴史的転換」に失敗
社会党の衰退要因を整理する
日本社会党を対象にした政治研究は、1980年代半ばにその不足を指摘する声が上がって いた(1)が、その後は90年代にかけて徐々に増えていった。(2)とくに94年に村山富市委 員長が自民党との連立政権で首相に就任、安全保障に関する基本政策の転換を明らかにし、
そこから間もない96年に社会民主党に名称変更して分裂、その党史を終えたことが少なか らぬ研究者を刺激し、より活発に研究が発表される状況が生まれた。世紀をまたいで2000 年代に入ってから書籍化された研究も多い。(3)
社会党の消滅は、「保守・革新」が対決する政治の構図が名実ともに終わったことを意味 した。その幕切れは多くの政治学者の関心を引いた。最大の焦点は、山口二郎によれば「戦 後日本政治の一翼を担った社会党がなぜあのような悲惨な末路をたどったのか」であり、
「社会党がなぜ衰滅したのかという問いに対する回答は、戦後日本政治論にとっての不可 欠の一章である」という問題意識が共有されていた。(4)
そうした中で、五十嵐仁はいち早く社会党の衰退要因に関する研究を簡潔に整理して提 示した。(5)さらに谷聖美は五十嵐の提示をもとに、各説の詳細な検討と見解を発表してい る。(6)また、岡田一郎も五十嵐の分類に依拠しつつ、検討を加えて自説を展開している。
(7)これらの先行研究を基に、大まかにではあるが各説を以下のように整理してみた。
① 歴史的転換失敗説(主な論者、石川真澄、安東仁兵衛)
社会党の主流がマルクス・レーニン主義に固執して西欧型の社会民主主義への転換が失 敗した(大きく遅れた)ことに原因を求める見解であり、1960年の江田書記長による「構 造改革論」から62年の「江田ビジョン」にかけて新機軸を打ち出したことが転換の好機で あったが、いずれも党内で否定されたことで好機を逃したと考える。社会党指導者の中での 江田への高い評価は、ここから発している。
63 年に「保守政党のビジョン」で保革の逆転を予測した石田博英が、それが外れた理由 を振り返ったのは政界引退後の85年で、この分析も歴史的転換失敗説の説得力を補強した。
石田は、62年に江田が書記長の座を追われたのは「社会党は貴重な自己改革の機会を逃し た」ことを意味し、「高度成長がもたらした社会環境の変化に対応できず、ますます労組(総 評)依存体質を強めた」、「自民党が曲がりなりにも「労働憲章」を採択する柔軟性を持って いたのと対照的な硬直性」と指摘した。石田は江田と親しかったという。(8)
② 社会的基盤不在説(渡辺治、新川敏光)
日本の企業内組合が独自の労働者政党を作ろうとする意欲を希薄化させ、企業の発展に よって生活を改善しようする「企業的主義的統合」によって社会党、民社党といった政党か ら引き離されたとする説である。(9)また、労働組合が左右に分裂した結果、経営側と右派
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労働との強力な企業主義的な体制が成立し、社会民主主義政党は構造的に劣勢を強いられ るようになった。(10)社会党および民社党は、支持基盤である労働組合の変質と衰退によっ て、あらかじめ伸長の余地を奪われていたとする分析が社会的基盤不在説の柱といえる。
特に新川は、階級政治の観点から見た「階級交叉連合」、すなわち経営権と労働権の相互 承認という労使の和解体制が、全労(のち同盟)、総評を問わず浸透していったことを重視 する。それは1960年の三池争議が労働側の敗北に終わって以降顕著であり、階級政治にお いては「五五年体制ではなく六〇年体制を主張することが可能」という。(11)
象徴的なのが64年に発足したIMF-JC(国際金属労連日本協議会、後の金属労協)で、
その後の貿易自由化に対応する輸出産業の労組を結集させ、高度成長下で春闘の賃上げ相 場を主導する存在となった。労組運動における階級主義と企業主義の対立は、官公労と民間 労組との対立という形にも反映された。
③ 組織・活動説(田口富久治、太田薫、五十嵐仁、岡田一郎)
社会党の労組依存体質に衰退要因を求めるのは②社会的基盤説と同様であるが、この労 組依存体質が党組織の近代化を阻み、新たな党員の獲得、機関紙の拡張といった日常活動が 不足していたことが、衰退につながったとする見解が組織・活動説である。(12)特にこの説 では共産党との比較において、社会党の近代政党としての未熟さ、活動の不徹底さを指摘す る意見が強い。
労組の機関決定による「丸抱え政党支持」への安住が、社会党を政権から遠ざけたことは 否定できない歴史的事実であろう。1950 年代から 70年代にかけて社会党国会議員は労組 出身者(いわゆる組織内候補)の比率が高まる一方、低落傾向が明らかになった70年代以 降は候補者数を絞り込んで新たな人材の発掘に消極的になった。(13)
上記いずれも説得力を持ち、それぞれ妥当する部分はあって、どの説をより重視すべきか、
順位をどうつけるかは畢竟、社会党の果たすべきだった役割をどうとらえるかによるだろ う。本稿は、歴史的転換失敗説を最上位とすべきという立場である。
野党第一党である社会党が政権を担いうる勢力の中心になるため何をすべきだったかと いう観点に立てば、マルクス=レーニン主義政党から社民政党へ、60年代から遅くとも70 年代前半のうちには明確な転換を実現することこそが大前提であったことは自明と考える からだ。これについては本稿第一章の後半部分で、国際比較を参考にしつつ論証したところ でもある。
歴史的転換失敗説の妥当性
仮に江田三郎が采配を振って社民政党への「歴史的転換」が1960年代から行われていた としても、社会党主導の政権交代が近づいた可能性は微かだったであろう。政権担当のため には、左右の枠を越えた社会党の看板政策であった「非武装中立論」をどう扱うかというも