第 4 章 対比分析
4.2 輪島塗産地の様子
4.2.1
産品と産地構造漆器の生産は古来よりおこなわれていたが、江戸時代中期に素麺生産の減退に代 わり生産が拡大した。輪島塗の特徴は、堅地塗物な実用漆器といえる。厚手の木地 に、焼成珪藻土を混ぜた下地を厚く施し、丈夫さに重きをおく。微生物の死骸から なる珪藻土「地の粉」は、輪島塗特有のもので、産地から持ち出しが禁止されてい た。海洋交通が中心の江戸時代、その要所であった輪島塗産地は、上塗り職人が、
顧客の豪農を行商して回った。従来の輪島塗の生産工程は図表8のようになってい
た。上塗り職人が、生産の核となっている。作り手の心境は、高いといわれても動 じぬが、品質を指摘されると怖い。上塗り職人自ら行商することは、信用を重んじ、
品質を第一とする、輪島塗に適したシステムといえる。だが、ともすれば自らの力 量に注文を受ける商品が制限される。製造卸なら、難しい注文が舞い込んでも、仕 事をこなせる職人の顔が浮かび、注文が受けられる。
『輪島市史』(1973,p.292)から転写 図表8:輪島塗の産地構造
4.2.2
輪島塗の変遷能登の山間には古来から漆の木があった。発祥には諸説があるが、応永年間、
根来塗の本場紀州根来寺の僧が、輪島の重蓮寺に来て寺の什器の膳、椀に漆加工 したのが始まりというのが通説となっている。北野信彦の『近世漆器の産業技術 と構造』(2005)は、鎌倉時代の漆器や漆壷が大量に出土したことから、12世紀
にはすでに漆器生産が始まっていたと述べている。
能登半島の先端に位置し、輪島は中世以来日本海交易の寄港地として栄えてい
「加越能大路水経」でさえも、素麺を特記するのに対し、「又塗物細工人有り」と軽く付記さ れていることは前にも述べた。天明七年(一七八七)の記録に、鳳至町の塗師十二人とあっ たのに対し、同年の「百姓・頭振五人組稼商売付ならびに借家人等書上申帳」は、鳳至町組 合頭三郎左衛門手合の分に過ぎないが、八十人近い人数のうち、木地屋二人・塗物二人の計 四人があげられ、素麺家が二十人以上も記されているのに比して、すこぶる劣勢である。『輪 島市史』(若林喜三郎1973 pp.88-289)
[41]――元禄四年(一六九一)の「農隙所作村々寄帳」では、素麺生産について比較的に詳述さ れているのに対して、塗師は鍛冶とならべてあげられているに過ぎない。明和八年(一七七 一)の書上に、塗物類を「他国へ指遣わす商売」としているところから、この頃から他国へ の移出品として知られていたようであるが、文化八年(一八一一)の「三州交易出入大略」で は、二三百貫目輪島椀、但年分出来五六百貫目斗り、半は御領国用に相当り申候とあり、全 生産高の半量を他国移出用としている。『輪島市史』(若林喜三郎1973 p.289)
「地の粉」について次のようにある。
[42]――この史料に、地の粉関係の記録が最初にあらわれるのは、嘉永六年(一八五三)で、従 来当番をきめて掘っていたのを年行司の世話で引請けたのがこの年であった。『輪島市史』(若 林喜三郎1973 p.311)
流通の主体が陸上交通となって輪島は奥能登の僻地となった。電気が使えるよう になるのも遅かった。次のようにある。
[43]――明治四十三(一九一〇)ごろ、北陸のいたるところに電灯会社が続出、輪島にも名古屋 の誠電社社長大岡俊が、当時の輪島漆器同業組合長大岡与三次に電気事業の有望なことを説 き、翌年三月会社設立が許可され、明治四十五年三月十五日から営業を開始したものである。
『輪島市史』(若林喜三郎1973 p.496)
第一次大戦により、景気が好転した。好調な販売を支えた電動轆轤導入の様子 が描かれている。
[44]――第一次大戦による日本資本主義の好景気の中でその生産をのばし、それに従事する人び との数も激増した。輪島電気会社の送電により、椀木地業者の間では、追々手挽ロクロから 動力ロクロに変えるものがでてきた。『輪島市史』(若林喜三郎1973 p.499)
第二次世界大戦前後の漆入手難が次のように記載されている。
[45]――中国との全面戦争がはじまって、中国のうるしがいくらでも手にはいるかのような期待 がもたれたこともあったが、それは一時の幻想にすぎなかった。 (中略) 中国との全面戦 争のはじまった翌年、昭和十三年(一九三八)の秋には、金の使用が制限されて、輪島漆器 は死活の岐路にたたされた。 (中略) 翌年、太平洋戦争のはじまる年になると、漆の入手 はますます困難になった。中国からの漆の輸入が淡い期待におわって実現しなかっただけで
はない。戦争の長期化にともない船舶や弾丸・魚雷の塗装に漆の使用が増大し、軍が漆を統 制したからである。『輪島市史』(若林喜三郎1973 p.553)
[46]――中室福太郎漆器組合長は、昭和二十五年にうるしの統制が撤廃されて中国から原料が入 るようになり戦前の五割に達した。この方はよいのですが、困るのは技術者の不足です。三 年や五年で一人前の技術者が養成できないことと、戦時中青年達がほとんど漆器業から離れ たので現在は技術者の平均年令が五十歳以上という状態です。『輪島市史』(1973 p.578) 上塗り職人による見本販売方法は、1960年代まで続けられた。国民の生活様式 の変化し、輪島漆器の中心であった膳腕物の売れ行きが減衰する。高度成長によ る所得の増大に対応する新商品の開発や販路の開拓等がおこなわれ、1970年代、
デパートや問屋による販売が軌道にのり再び活性化する。木地部門の業者数の減 少と加飾部門の業者数の増加という構造変化が始まり、輪島塗は元来の日用品か ら工芸品に変わりつつある。変遷の構造をイノベーションの観点からまとめる と、図表9のようになる。
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