第1章でく高雅で感傷的なワルツ〉を逐次的に分析し、第2章ではそこ で使用されている和声上の様々な手法を分類した上で、それらと同様の手 法、もしくはそれらと関連を持つと考えられる手法の使用例を、ラヴェル の他のピアノ曲に求めた。
この第3章では、前二章で行なった検証をさらに総括的にふりかえり、
ラヴェルの和声語法の概要、あるいは機能和声、機能調性に対するラヴェ ルの意識のありようを考察したい。
まず、第1・2章を通して浮かび上がってきたラヴェルの和声語法の特 徴を、以下に列挙してみよう。
(1)3度の堆積による和音、及び添加和音を「自律した和音1として多用し
ている。
(2)白和声音、あるいは非和声音群が作り出す瞬間的な響きを積極的に利 用し、またそれにある程度の自律性を与えることで生じる「口和声音和 音」を多用している。非和声音がその解決を省略されていること、ある いは五和声音(または変位音)が連続する場合も極めて頻繁に見られる。
さらに、非和声音と本来の和音構成音との間、もしくは異なった非和声 音どうしの間に生じる増8度、減8度、減3度音程をむしろ偏愛し、自 身の作品の音色を決定付ける重要な要素としている。
(3)属七画面、属九和音、あるいはその他の和音の平行進行が、機能的な 和声進行の中に織り込まれることがある。特に訴因和音、属九和音の平 行進行については、旋律線に付帯して和音を充填することを目的として 使用するだけでなく、転調に利用しているケースがみとめられる。また、
平行進行する属七和音、属九和音の間に他の和音を挿入することで大胆 な修飾が施されることもある。
(4)平行調関係にある長短調を同一次元のものとして捉え、しかも、具体 例こそ少ないがその発想を作品中で論理的に実現している。
(5)作品の性格に応じ、各種の旋法を使用している。しかし、多くの場合 旋法は長短両音階のメタモルフォーゼとして捉えられており、そこに機 能的な和声の運用が適用されている。
(6)低音が持つ機能の支配力に大きく依存している。例えば旋法が使用さ れているために機能感がやや希薄化されている作品、あるいは弱進行が 多用されている作品中においても、要所、すなわち段落点においては、
低音線の5度進行によってD−T、時にはS−D−Tのカデンツが明確
に示される場合が大半を占める。また、上声部がかなり感覚的な和声進行からなり、機能感は低音線の動きのみによって確保されていることも
多い。
(7)明確な機能的関連を持たない和音連結に際しては、先行、後続両和音 の間に共通音、あるいは半音進行を介在させ、それによって連結を滑ら かなものとしている。さらにそれに関連して述べれば、半音階的な声部 進行は様々な局面で、やや意外とも思えるほど多用され、ラヴェルの和 声語法の中で重要な位置を占めている。
(8)一般的に、(2)で述べた非和声音によって生じる縦の響きが(当時と しては)不協和度の強いものであった場合、その和音は後続和音へと機 能的に進行することが多い。逆に、先行、後続両和音間の機能的な関連 が希薄である場合、それらの和音にはどちらかといえば協和的な、つま り響きの穏やかなものが選択されている。
上記の(1)〜(5)は第2章ですでに述べたことであるが、(6}〜(8)は 個別的な「手法」と言うより「傾向」と言うべきものであり、従って第2章の
目的であった1分類」になじまないと考えたため、ここであらたに提示する
こととした。
(1}の事柄は、シャイエの言うところの「明瞭に物理的法則を満足させ て1いる「自然協和音」、及び「すでに容認済みの自然協和音の類推かある いはそれの拡張」と考えられる「非自然協和音1(}1)が、機能和声音楽の進 化とともに次々と累積されていったという必然的な流れの中に、ラヴェル
もまた当然のごとく位置していたことを意味する。
(2)に関しては、一つ一つの三和声音、あるいは非和声音和音の処理法 だけを取り上げるなら、それらはすべてラヴェル以前に確立されていたも のといえ、あらためて問題とするにあたらない。しかし、ある作曲家の独 自性とは、その作曲家のみが使用した個別の手法(筆者は本質的な意味で はそのようなものは存在し得ないと考えているが}よりも、むしろいくつ かの手法の組み合わせ方、あるいはその使用頻度といったような、つまり は1傾向1というしかないいくぶん曖昧な要素にこそ求めるべきものである。
その意味で、(2)であげた温和声音が生み出す減8度、増8度、減3度音 程への偏愛や、解決音を省略した直和声音和音の多用、また非和声音和音
(あるいは変位和音)の連続といったような要素は、ラヴェルの作品の独自 性を語る際に欠かすことのできないものであると言える。
(1)及び(2)が機能和声音楽の流れの中でごく自然に生じたものである ことに対し、(3)の手法をどのように捉えるかは極めて微妙な問題である。
例えば長短三和音の平行進行については、機能和声の地平が開拓し尽くさ れた時代に、機能和声確立以前の遠い過去にあらたな素材を求めた結果行 き着いたいわば「先祖帰り」、すなわち非機能的な「複数の横の線の集合体1
と考えることで決着が着くだろう。属七和音、属九和音の平行進行に関し ても、それらの和音を単なる独立した発音体とみなし、その連続を非機能 的な和声進行の典型例と分類してしまうこともできるが、観方を変え、例 えば異名同音的な解釈を施すことによって機能和声進行の一形態と捉える ことも、まったく不可能なわけではないe筆者には前者の捉え方、すなわ ち二七、属九和音の連続もまた非機能的な和声進行と考える方がより自然 なように思われるが、その論理的な根拠を示すことができない以上、現時 点では結論を保留しておきたい。
(4)の手法は、感覚的な次元ではすでにモーツァルトの時代から現われ ていたとはいえ、それを論理的に具現化したという意味で、ラヴェルの和 声語法の中でも特筆すべきものと考える。
(5)及び(6)は、機能和声的な思考がラヴェルの中でいかに大きな位置 を占めていたかを逆説的に証明している。ラヴェルの作品にあっては、教 会旋法や五音音階による旋法が長短調のメタモルフォーゼとして扱われる だけでなく、全音音階さえも機能和声という有機的生命体の中の一細胞と して使用される。また、旋法や弱進行の使用によって機能感が一時的に希 薄化された場合にも、少なくとも調性感、機能感が見失われようとする一 歩手前で、低音線の5度進行があらためて音楽の方向性、あるいは着地点 を明示するのである。
(7)の事実は19世紀末のヨーロッパ音楽を席巻した半音階主義の洗礼を、
ラヴェルもまた受けずにはいなかったということに加え、機能和声音楽に とって不可欠な要素の一つである「各声部の横のつながり1の重視という側 面を示している。(8)も実はそれと関連しており、瞬間的な響きが感覚的 な意味で機能和声音楽の(当時における》限界点を越えかけたものである時 には先行・後続両和音間に強固な機能的関連を作ることで過去との、すな わち純粋な機能和声音楽との連続性を確保し、また逆に、瞬間的な響きが 過去の音楽作品を通して聴衆の耳にすでになじんだものである時には、機 能和声の原理に束縛されない感覚的な和音進行が選択されているのである。
つまりラヴェルは、「縦の要素1あるいは「横の要素jの、少なくともいずれ か一方の面で、過去の音楽の連続線上に踏み止まることを自己に課したの ではないかと考えられる。
以上(1}〜(8)のうち、(3}を除けばそのすべてが機能和声音楽の要素 として位置付けられる事柄である。ラヴェルの和声語法が、18世紀以来の 機能和声の進化の当然の帰結として現われたものであることは、これらの 事実によって明白に証明されると言ってよいだろう。
さらに誤解を恐れずに言うならば、そのように機能和声の枠から本質的 には逸脱しなかったこと、末梢的な部分における一見逸脱と見える手法も、
つまるところ機能和声的な手法の拡大・発展に過ぎないこと、言い換えれ ば機能和声の呪縛からついに逃れ得なかったことに、例えば同時代のドビ ュッシーと比較した場合のラヴェルの「小心1、あるいは1限界]もまた見て 取れると言うべきかもしれない。あるいは、このように理論的、体系的な 考察が可能であるという点に、ラヴェルがヨーロッパ音楽史の最高峰に名 をつらねるにはあと一歩及ばなかった所以を求めることもできよう。
しかしまた、それ故にこそ、ラヴェルの和声は個人の語法であることを 越えた普遍性をもって、以後の音楽の世界に開かれている。
ドビュッシーが、あるいはまたシェーンベルク(Arnold Schonberg l874
−1951)が、機能和声の根幹そのものを否定することで新しい音楽の地平を 切り拓いた(今その功罪を論ずることは避けるが)こととは対照的に、ラヴ ェルは機能和声の連続線上にさらなる豊かな地平が存在し得ることを、そ の鋭敏な聴覚と緻密な思考によって現代の我々にも示し続けているのであ
る。
註1 シャイエ,前掲書、20頁,