設楽博己(駒澤大学)
このセッションはパワーポ イントなしのレジュメだけで おこないます。昔ながらの発 表でお楽しみいただければと 思います。このテーマでどう いうセッションをくむか小澤
さんと相談しました。小澤さんがこれまで同成社[小澤 2008]や歴博の研究報告第 149 集に書かれた論文を読 ませていただきますと,祖先祭祀を前面に出しておら れます。私も独立棟持柱をもつ掘立柱建物に若干の検 討を加えたものを,祖先祭祀と大きく関わっているの ではないかという観点から研究報告に書きました[設楽 2006]。祖先祭祀を一つの統合原理と位置づけたわけで す。その背景を含めて重要な検討課題になるのではな いかと考えます。
もう一つ小澤さんが手がかりにしているのがお墓と の関わりです。私もお墓との関わりは重視していまし て,祖先祭祀ですから当然お墓とも関わりを持ってく る。したがいまして集落研究の中で大形の建物とお墓 が空間的にどのような配置関係にあるのか。これらを 手がかりに考えてみたいと思います。
大形の建物は独立棟持柱を持つものだけではありま せんが,それを考える上でいつも問題になるのが首長 との関係です。首長との関わりといいましょうか,こ れはお墓との関わりももちろんあって,お墓の存在を 持って首長との関係がクローズアップされてきます。
大形建物,祭祀,墓,この三つをキーワードに考えて いきたいと思います。
まず設楽から独立棟持柱建物について,レジュメ集 67 頁からの要旨をご覧いただきながらお話しいたしま す。分析視点は独立棟持柱建物の構造,分布,地域差,
総数,規模の変化,竪穴住居や墓との関わりです。
独立棟持柱建物(以下,独立建物)がはじめて取り 上げられたのは,1981 年の九版研究会で宮本長二郎さ
150
らいの存続幅を持つとすると,1 期が平均で 25 年ぐら いになるかと思いますが,そのなかで最大 3 棟存在す るためには基本的に,1 棟あたり 15 年ぐらいなのでしょ うか,そのあたりのお考えを聞かせていただきたいの と,竪穴住居の耐用年数について何か資料をお持ちで したら,教えてください。
濵田
竪穴住居 1 棟の存続期間を遺跡から読み取るのは難 しいという実感です。先ほどから最大 3 棟,といった 表現をしていますが,これは,ある一定期間存続する 可能性が高い竪穴住居の組み合わせです。
たとえば,黒ボクの入り方を見ていますと,次の時 期に埋没した竪穴住居が認められるのに,黒ボクの堆 積が連続して認められる場所が幾つかあります。可能 性の域を出ませんが,黒ボクの堆積が人の関与の度合 いによるとすれば,私が作成した変遷図では見かけ上 は連続した居住が行われているように見えても,その 間に断絶が一時的に生じていたことを想定することが できるのではないでしょうか。
6 期に集落規模が拡大し,7 期に縮小している期間の 竪穴住居跡を事例として説明をしますと,6 期は 30 年 くらいの幅をもっていると考えていますが,この間に 埋没したとみられる竪穴住居跡が複数認められる居住 域では,7 期の断絶によって生じたと仮定される黒ボク の有無によって,少なくとも二つの組み合わせが考え られます。また,竪穴住居跡間の距離によって,それ らの中でも併存できる住居が絞られてきますので,居 住域によっては三つの組み合わせを考えることができ るものもあります。このように見ますと,長く見積もっ ても 10 年~ 15 年くらいの幅で一つの組み合わせを捉 えることができますので,竪穴住居の耐用年数につい ては概ね 10 年ぐらいを見込みたいと思っています。さ らに,拡張や重複の痕跡,柱の抜き取りと再設置が認 められる竪穴住居跡に着目することで,そのあたりが 見えてくるのではないかと思っています。今回の私の 分析では,作業の都合上,拡張された住居については その存続期間を無視していますので,そのあたりでも う少し竪穴住居の存続期間について絞り込めるのでは ないかという見通しをもっています。
藤尾
それでは所定の時間がまいりましたので第 1 のセッ ションを終了させていただきたいと思います。
若林
藤尾さん,小林謙一さんのコメントは総合討論でい
いですね。では次のセッションに移りたいと思います。
次は集落の形成要因と統合原理というテーマで,設 楽博己さんと小澤佳憲さんをリーダーにセッションを 進めていきたいと思います。
【第 2 セッション】
「集落の形成要因と統合原理―祭祀・
経済―」
設楽博己(駒澤大学)
このセッションはパワーポ イントなしのレジュメだけで おこないます。昔ながらの発 表でお楽しみいただければと 思います。このテーマでどう いうセッションをくむか小澤
さんと相談しました。小澤さんがこれまで同成社[小澤 2008]や歴博の研究報告第 149 集に書かれた論文を読 ませていただきますと,祖先祭祀を前面に出しておら れます。私も独立棟持柱をもつ掘立柱建物に若干の検 討を加えたものを,祖先祭祀と大きく関わっているの ではないかという観点から研究報告に書きました[設楽 2006]。祖先祭祀を一つの統合原理と位置づけたわけで す。その背景を含めて重要な検討課題になるのではな いかと考えます。
もう一つ小澤さんが手がかりにしているのがお墓と の関わりです。私もお墓との関わりは重視していまし て,祖先祭祀ですから当然お墓とも関わりを持ってく る。したがいまして集落研究の中で大形の建物とお墓 が空間的にどのような配置関係にあるのか。これらを 手がかりに考えてみたいと思います。
大形の建物は独立棟持柱を持つものだけではありま せんが,それを考える上でいつも問題になるのが首長 との関係です。首長との関わりといいましょうか,こ れはお墓との関わりももちろんあって,お墓の存在を 持って首長との関係がクローズアップされてきます。
大形建物,祭祀,墓,この三つをキーワードに考えて いきたいと思います。
まず設楽から独立棟持柱建物について,レジュメ集 67 頁からの要旨をご覧いただきながらお話しいたしま す。分析視点は独立棟持柱建物の構造,分布,地域差,
総数,規模の変化,竪穴住居や墓との関わりです。
独立棟持柱建物(以下,独立建物)がはじめて取り 上げられたのは,1981 年の九版研究会で宮本長二郎さ
151
んがその重要性を問題提起されました。研究会では掘 立柱建物と竪穴住居の関係について集中した議論がお こなわれました。ただ墓との関わりは見過ごされてき たというわけでそれほど取り上げられていません。当 時 53 棟見つかっておりましたが現在では 82 棟の独立 建物が見つかっています。前期 2,中期中葉 5,中期後 半 22,中期後半~後期初頭 5,後期前半 5,後期後半 7,
庄内新 4(この時期だけは遺跡が多くもっと増える可能 性あり)。中期後半に画期があることがわかります。
構造的に見ると九州・四国と本州の二つに分かれる。
梁間の間隔が九州・四国では 3 間,本州は 1 ~ 2 間。
つまり妻側の柱を 2 ~ 3 本もつのが本州であり,4 本も つのが九州・四国にある。もちろん本州型は九州・四 国にもあります。
住居やお墓との関わりで類型化しますと,1 類は居住 域に伴います。2 類は墓域に伴う。1 類は三つに細分で き,A は竪穴住居と混在,B は竪穴住居が周りに見あ たらない。特定の場所を占めるようになる。c 類は区画 を伴うようになる。区画の中に配置されるものもあれ ば,脇に配置されるものもある。
規模は小・中・大の三つがあり,それぞれ 20㎡以下,
50㎡以下,50㎡以上に分けられる。
一つの遺跡の中で何棟あるか,という点ですが,1 棟 のみが 37 遺跡,2 棟が 10 遺跡で,この二つで全体の 9 割を占めることから,一つの集落遺跡の中でもきわめ て限られた建物であることがわかる。3 棟見つかってい るのが 3 遺跡で鹿児島と佐賀にしか見られません。4 棟 は鹿児島県前畑遺跡と三重県菟上遺跡,8 棟見つかって いるのが滋賀県伊勢遺跡です。
以上が独立建物の内容です。それでは分析をしてみ ることにします。
まず系譜ですが三つあります。一つは昨日の韓国青 銅器時代の発表にもありましたように韓半島系譜説,
二つ目が縄文系譜説です。縄文時代の場合は,全部ぐ るりとつなぎまして,六角形になるように上屋構造を 復元しています。でも真ん中の 2 本の柱を結べば弥生 時代の独立建物と同じになるところに縄文系譜のより どころがあります。最後が弥生時代に独自に現れたと いう説です。
規模に関しては先ほど大・中・小の三つをあげまし たが,中期前半から大型化してきます。中期前半,唐古・
鍵遺跡に 80㎡のものがある。非常に早い段階から大型 化志向があるわけで,中期後半に巨大化のピークがあ ります。
これは 135㎡の非常に大きな池上=曽根遺跡の例で す。庄内式段階になると方形区画の中に入るものが見 られるようになりますが,滋賀県伊勢遺跡の 11㎡,同 県針江川北遺跡の 16 ~ 20㎡,同県黒田の 22㎡とか,
大阪府尺度の 26 ㎡,のように小形のものが顕著になっ てきます。
機能,役割ですが,証拠は柱,しかも柱痕しかない
図8 徳島県桜ノ岡遺跡の独立棟持柱建物と 柱穴遺物出土状況
独立棟持柱建物
▼
0 5m 0 20 m
0
0 100m
0 100m
図9 埼玉県北島遺跡
独立棟持柱建物
▼
0 5m 0 20 m
図10 三重県菟上遺跡