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ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報21 (ページ 34-39)

シル トを基調 とす る。礫 を含 むが、

V層

よ り量 は少 ない。横断ベル ト

Cで

は、 このⅥ層が石垣裏込めの最下部 に 入 り込んでいることが確認 されている。

Ⅶ層

調査時にはⅢ層 としていた層序である。

4列

の北寄 りか ら大規模 な攪乱 までの範囲に分布す るが、平坦面の東 端 に近い部分 には分布 しない。若千 グライ化 した粘土質シル トの土壌 である。調査 当初 は、盛土直下でⅣ層 よ り 上位であると認識 していた。 しか し最終段 階で、調査 区西壁で基本層序 を検討 した ところ、V・ Ⅵ層 より下位 に なることが明 らか となったので、Ⅶ層 に改称する。層の厚 さは、厚い ところで15cm程度である。

石垣前面堆積層

C‑3〜 4区

では、段差の斜面 を削 り込んだ ところに造 られた小規模 な石垣が検 出された。石垣 の前面の斜面 を削 り込んだ部分 には、遺物 を比較的多 く含む土層が堆積 していた。上部か ら崩壊 した土壌が堆積 した、 自然堆 積層 と考 え られる。調査 した範囲内の、最 も厚い所で測 って

lm程

度の厚 さがある。 まとめて調査 中は仮

A層

と 呼称 した。幾つかに細別 したが、基本的な層相は類似す る。 にぶい黄褐色か ら褐色の粘土質 シル トを主体 とす る が、下部 には砂質の部分 もある。礫 を多 く含 んでお り、 これ らは石垣 の裏込め層 に由来す る もの と考 え られる。

段差の斜面が残 る部分 に堆積 した2〜 5層は、斜面が切 り込 まれているところの境で、分布がほ とん ど途切れる ため、石垣前面堆積層 と2〜 5層の関係 はつかめなかった。遺物が比較的まとまって出土 してお り、幕末頃の も のが主体 を占める。

地山

地山層 は、段丘礫層お よび、礫層のす ぐ上位の固 くしまった黄褐色粘土層である。南半部の平坦面 に粘土層が 若千残 っている以外 は、段丘礫層が露出 している。

(2)変

遷段階の設定 と推定時期

変遷段階の設定 にあたっては、整地層が多 く確認 された平坦面南半部での認識 を基準 とした。南半部では、遺 構 の掘 り込み面が、地山上面、

V層

上面、Ⅳ層上面の

3段

階認め られた。 これ を基準 に、他の区域 を対比 させ、

I期か らⅢ期の

3段

階に区分 した。

I期

整地層の下面の、地山面の段 階をI期とした。

Ⅱ期

平坦面南半部では、V・ Ⅵ・Ⅶ層が整地 された段階で、遺構が掘 り込 まれていることが確認 されている。その ため

V層

上面段 階を区分 して、 Ⅱ期 とす る。平坦面北側 と斜面では、対応す ると考 え られる整地層が存在 しない ため、地山面 とな りI期 と変わ らない。

V層

が石垣裏込め層 と同 じ段 階 と考 えられることか ら、石垣が構築 され た時期 と考え られる。

Ⅲ期

1層とした明治以降の盛土直下の段 階である。 Ⅱ期段階か ら、平坦面は北側では Ⅱ層、南側ではⅣ層が整地 さ れ、斜面では2〜 5層が堆積 した段階で、 これ らの層の上面の段階 となる。

I期の遺構 は確認 に留めている部分が多 く、

 I期

の開始時期 については、細かな限定は難 しい。ナII内地区での 武家屋敷 としての利用が、17世紀初頭であることか ら、上限は17世紀初頭 と考え られる。

I期か らⅡ期へ移 り変わる時期 について も、厳密 に確定することは難 しい。I期の遺構か ら出土 した遺物であ る程度特徴が判明す るもの としては、 ピッ ト19出土の陶器中型丸碗 (図

18‑CT2)が

あ り、18世紀前半の もの であろう。 ピッ ト17からは、細片で図示 していないが、18世紀代 と考 えられる灰釉碗が出土 している。 これ らか ら、 Ⅱ期が18世紀 まで差 し掛かることは間違いない。次 に、

 I期

とⅡ期 を区分す る

V層

・Ⅵ層・Ⅶ層の出土遺物

を見てみたいが、Ⅵ層か らは陶磁器 は出土 していない。

V層

出土の陶磁器は、少量の上、細片ばか りで、細かな 年代が判 るものはない。その中で、陶器 に大堀相馬の糠 白釉 を施 した ものがあ り、釉薬の様相か らは19世紀代 に 下 るものである。 しか し、

 lcmに

もみたない ご く細片で、混入の可能性 も否定 しきれない。Ⅶ層か ら出土 した 陶磁器では、磁器 に網 目文や若松文の中型丸碗や陶器 に小野相馬の中型丸碗 な ど、18世紀代 の遺物が含 まれる。

一方、次の Ⅱ期の遺構 では、遺物か ら年代が判明するものはほ とん どないが、確実 に18世紀代 に遡 るものはない。

以上の点か ら、おおむねI期が18世紀代 まで、 Ⅱ期が19世紀代 を主体 とす ると考 えてお きたい。

Ⅱ期か らⅢ期へ移 る時期 については、両者 を区分す る層序か らの出土遺物が参考になる。斜面部分では、

 2〜

4層で陶磁器が出土 しているが、いずれ も幕末が主体で、それ より古い資料 も混在 している。その中で、

 4層

か ら出土 した、大堀相馬の山水文土瓶の可能性がある破片が、最 も新 しい遺物である。これは、白化粧 をした上に、

鉄絵で細 い線描 きを施 した細片で、文様部分 は残 っていないが、大堀相馬の山水文土瓶 と考 え られる。大堀相馬 の山水文土瓶の出現時期 を厳密 に限定す ることは難 しいが、主体 となるのはむ しろ明治に入 ってか らと考 え られ る。仙台城二の丸の資料で も、明治15年の火災 に伴 う廃棄層 に多い。平坦面の整地層ではⅣ層が封象 となるが、

磁器・陶器 ともに、18世紀か ら19世紀の資料が混在 している。その中で、細片のため器種 は不明 としたが、大堀 相馬の鉄絵の細い線描 きで花文 を表 した ものがあ り、明治初頭 に下 る可能性 も残 る。石垣前面の堆積層か らは、

磁器・陶器 とも18世紀か ら19世紀の資料が混在 して出土 している。中で も19世紀の ものが主体 を占め、幕末 よ り 確実 に下るものは含 まれない。 これ らの出土遺物の状況か ら、 Ⅱ期か らⅢ期へ移 る時期 は、明治時代 に入 り込む 可能性 もあるが、明治時代 に下 る遺物の割合 はわずかであるため、下 って も初年 頃に留 まる もの と考 え られる。

以上の状況 を踏 まえれば、 Ⅱ期か らⅢ期への移行 は、幕末か ら明治初頭 と考 えて大過ない と思われる。

今 回の調査 区の東側 には、 グラン ドとの境 に大規模 な石垣が造 られている。 この石垣 は、大規模 な盛土でⅢ期 の遺構 を埋 めた上で造 られている。江戸時代の絵図 と明治時代以降の地図を比較す ると、川内地区では、明治21 年の第二師団設置の前後 に、道路の位置が変更 されている。調査 区東側の石垣 は、南北両端が現在の道路の位置 に合わせて造 られている。 この点か ら、 この石垣 は道路が付 け替 え られたの と同 じ、明治21年前後 に造 られた可 能性が高い。 このことか ら、 Ⅲ期の下限は、明治21年 (1888年

)頃

と推定 される。

以上 をまとめる と次の ようになる。

I期 :17世 紀初頭か らおおむね18世紀代

Ⅱ期:おおむね19世紀代で幕末頃まで

Ⅲ期 :明 治初年頃か ら明治21年 (1888年

)ご

ろまで

4.検 出遺構

(1)I期

の遺構 (図3。 15。7、 図版2・

5〜

8)

段丘崖 に由来す る段差があ り、段差の上の平坦面では、掘立柱列が

2条

、 ピッ ト

4基

、性格不明の遺構 である

2号

遺構 と

3号

遺構が検 出されている。

4基

の ピッ トは、いずれ も

2号

遺構・

3号

遺構埋土 に掘 り込んでお り、

これ らよ り新 しい。 また

V層

の下面が、

B‑3区

で南側 に向かって落ち込んでいっているのが確認 されている。

しか し、南側 は未掘のため、詳細 は不明である。

【段差】

段丘崖 に由来す る段差で、本来 は自然 に形成 された ものである。北側では、上の平坦面か ら

60cmほ

ど下 った ところで、幅0.5〜1.lm程の平坦 な部分が確認 されてお り、 ごの部分 は人為的な造作が加 え られている可能性が ある。ただ し、 この平坦面があるところでは、地山のす ぐ上位の層が1層となってお り、 どの段 階で加 え られた ものであるかは不明である。段差の方向は、等高線の走 る方向で測 ると、北か ら26° 西偏 している。この段差 は、

4ア1までは、ほぼ直線的に延 びている。5列以南 も、本来は北側の延長で、直線的に延びていた もの と考 え られ

るが、

 

Ⅱ期の石垣が造 られている削 り込みによって改変 されてお り、不明である。 この削 り込みがなされた時期 については、石垣 の構築 と同 じであれば Ⅱ期であるが、石垣 の構築に先行 して削 り込 まれていた場合 には、

 I期

に遡 る可能性 もある。

【1号 柱列】

B‑5・ 6区

で検出された掘立柱列である。柱穴

3基

のみの検出である。北側は大規模な攪乱のため不明で、

南側の延びは判然 としない。方向は、北か ら26.5° 西偏する。 1号 柱列の柱1と柱

2が

、それぞれ

2号

柱列の柱 1と柱2を切っている。柱間の間隔は

6尺

と考えられる。これまでの川内地区での調査成果から見ると、

 6尺

いう柱間間隔は江戸時代には類例が無 く、明治時代以降に出現する。柱穴

3基

のみであるので、柱間寸法が若干 ずれる可能性 も残る。柱穴は、径40〜

75cmの

不整形を呈するが、隅丸方形を指向している可能性 もある。深さ は

20cm程

度である。遺物は出土 してお らず、詳細な時期は不明である。

2号

柱列】

1号

柱列の東側に沿って、

B‑5。

6区 で検出された掘立柱列である。柱穴

3基

のみの検出である。北側は大 規模な攪乱のため不明で、南側の延びは判然 としない。方向は、

 1号

柱列 とほぼ同 じで、北か ら27° 西偏する。

2号

柱列の柱1と柱

2が

、それぞれ

1号

柱列の柱1と柱 2に 切 られてお り、

 2号

柱列が古い。柱間の間隔は 5尺 と考えられる。柱穴は、径30〜

60cmの

不整形を呈するが、隅丸方形を指向 している可能性 もある。深 さは20〜

30cm程

度である。遺物は出土 しておらず、詳細な時期は不明である。

2号

遺構】

B‑3〜

5区 で検出された。平面プランのみの確認で、埋土は一部分を掘 り下げただけである。そのため、遺 構の性格や詳細な時期は不明である。南北4.2m程 、東西1.6mの、南北に長いプランである。

3号

遺構 を切って お り、

 2号

遺構が新 しい。横断ベル ト

Cに

沿ったところで、一部断ち割って調査 した部分では、深さは

20cmで

、 皿状の浅い落ち込みになる可能性がある。埋土をほとんど掘っていないため、出土遺物は極めて少なく、磁器1 点、陶器 3点 だけである。特徴のある程度判るものは、図示 した磁器小中皿 (図

19‑CJ2)と

陶器壺奏類 (図

18‑CTl)の 2点

のみで、他はごく細片である。

3号

遺構】

B‑3〜 5区

で検出された。東側のほとんどは

2号

遺構に切 られてお り、西側は調査区外へ続 く。南側は、

V

層の未掘部分 まで続いてい く。そのため、全体の規模・形状は判然としないが、南北4.9m以 上、東西

2m以

上 となる。北端部分の調査区西壁際を一部掘 り下げた所見では、浅 く落ち込んでいってお り、横断ベル ト

Cの

深掘 り部分で

35cm程

度の深 さである。比較的浅 く、広い落ち込み となる可能性が高い。一部 しか掘 り下げていない ため、性格や詳細な時期は不明である。遺構ではなく、整地層の範囲をとらえている可能性 もある。埋土をほと んど掘っていないため、出土遺物は極めて少ない。磁器

6点

、陶器 1点 、土師質土器

5点

だけである。図示 し得 たのは青磁香炉 (図

19‑C」 1)だ

けである。他に、陶器には長石釉の九皿の小片が含まれてお り、17世紀初頭 か ら前葉に遡る資料であるが、遺構の年代よりは古いものである。

(2)‖ 期の遺構 (図13・ 16。 17、 図版2・

5〜

8)

段丘崖に由来する段差の南 よりの部分では、この段差が大 きく削 り込まれている。削 り込まれた部分には、小 規模な石垣が設けられている。段差の上の平坦面では、攪乱の北側で 1号 遺構が検出されているほか、

 1号

遺構 の付近でピット

2基

が検出されている。攪乱の南側では、

 1号

溝が平坦面の縁に近い場所で検出された。南 より の

B‑2〜 4区

では、

 8基

のピットが検出されているが、相互の関係は明らかにはできなかった。

【段差】

5列 より北側では、

 I期

と同じである。

4列

と5列 の境付近より南側は、大 きく削 り込まれている。この削 り

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