所部
〆弥兵衛系統 安兵衛系統 銀兵衛系統 二重記号は 本家
。 口 ム
'Î、。 住宅 を 川 北 に か ま え た理由
a . 自 動車 出 し 入れの便 b . 広 い 宅地
1981年 8 月 現在
。
C . 新分家
』よ セ ン タ ー
接集落 の原
、所部と
共同 利用す るセ ンタ
ー
(公民 館) を新 にた 建築 して い る。 地
の 塩 左Z 野 沢Z 平 ま ワ か で ら 約 大 玉 江 キ 町 ロ 中
Jし、山形市ま
自で 動車 で 一時 間 の距 離 にあ る。 パ スは 月布川北岸
の県 道を 一日 十往復 して おり
、左 沢
・
寒河 江 へ通 じる
。左 沢ま でな 人ら 数 によ って ハイ ャー を頼 んで もパ ス賃
と
大差な
い。 左沢 から 一日 十三 復往 の国鉄 左沢
線で
寒河江 駅ま で十 六分
、終
点山形駅
まで 一時 間弱
で
着く。
また 寒河 江 のパ
ス
ター ミナ ルか ら各方面
行
のパ ス便 が利 用 でき る。 冬 の聞 は除雪体制
が整
つ
てお
り道路交通
確は 保さ れて いる ので
、塩 野平 か
大 江 町塩野平 の 世帯数 ・ 人 口 ・ 平均世帯 員 数 の 推移
大 J工 町 土孟 野 平
年次 世帯数 人 口 平均世帯 員 数 世帯数 人 口 平均世帯 員 数
25 年 2 , 799 1 7 , 1 5 9 6 . 13
30 年 2 , 841 1 6 , 731 5 . 89
35 年 2 , 898 1 5 , 819 5 . 46 18 1 1 5 6 . 39
40 年 2 , 937 1 4 , 489 4 . 93 20 1 1 3 5 . 65
45 年 2 , 9 1 2 1 3 , 126 4 . 51 20 102 5 . 1 0
50 年 2 , 782 1 1 , 801 4 . 24 20 101 5 . 05
55 年 2 , 679 1 1 , 450 4 . 27 1 8 101 5 . 61
表 1
契約講
の社会人
類学的研究 E
ら寒 河江、
山形 市 どな への 通勤、
買物 は年 聞を じ通 て可
能
にな てっ いる
。
ただ 左沢 まで 自転車 で出 る高 校生 は、 冬 路面がの
危険な での
、そ の簡 は寄 宿、
下宿 に頼 る。
現在
の塩 野平 の人 々の 道路 に対 るす 要望 は、
県道
に出 る まで
河岸段
を正 昇降す る坂 道を 通ら ずに
、段 丘上 の両 岸を平ら
に渡 るれ 大 きな 橋 の架 けら れる こと であ る。 徳川期
塩の 野平 は松山藩(酒井氏)
の治 下に あ った
。「編年
西村山
郡史」
では 臣豊 時代 の天 正十 二年 (一 五八 )四 の記 事 に塩 野平 の地 名が みえ る。 十七 世紀 から 十九 世紀 にか けて の村
惣高は
六十 石か 七ら 十石未 満 であ 近隣諸村 り、 中 では 石高 低の い方 であ
っ
幻
大十 江町史
編纂委員の
沓沢
喜代次氏
アオ
ソ
によ とる
、近世以降
の月布川流域産業
史 は、
青苧期、
養蚕期、
果樹栽培期
に三 区分 して 特徴付 らけ れる
。大江町西部山間
の七 軒地 区は 今日 でこ 過そ 疎化、
ぶ著 しい が、 青苧や ろう 漆を 産出 して たい 時代 には
、酒田 の本 間家
に
金
を貸 たし ほど の豪 農もあ
った
。村山地方
の青 苧収 益 は 一般 に近世
後期に
は減 少し たと され てい るが
、塩 野平 では
昭和初期
頃ま で青 苧栽 培 はみ られ とた いう
。衣原料と
し て木綿が
普及
、し 養 蚕も 盛 んで あ った 時期 もで 品価 、商 値 のあ るう ちは 続け て栽 培さ れて いた わけ であ る。 塩野 平 に伝 わる 宝 麿十 三年 (一
七六
三) の名 寄帳 をみ ると
、村惣 高 六十 七石 の内
、田
方 五十 資料 : 閏 勢調査
六石 で八 割強を占
め、 年貢米八
十七 俵 一斗 余 (一 俵 一二斗 入な ので 約 二十
六
石) の内
、青苧代米
に課 され る年 貢は 新田新 畑 その 他 に課 され る分 含を め ても 石四 に過 ぎず
、当時米作
の比 重が なか り高 か った も のと 推 測さ れお
? なお
、月布川北側
の段 上丘 耕地 一八 O町 歩 に水 を送 る担 樹、
南側 八十 町歩
ミ ナミ ゼ キ
を潤す 南堰 開の 削さ れた はの 十九世
紀
に入 って から のこ でと ある ので
、そ
まれ で ハラ は南堰 の恩恵を
受け られ ず水 利 の便 は悪 か った あで ろう から
、
八
契約講 の社 会人 類学的研究
H
山 から 水を 引 ける モト ノ塩 野平 の方 に水 田が 多く あ った と考 えら れる
。養 蚕期を塩野
平 では いつ 頃迎 えた か明 らか でな いが
、桑畑 は昭 和四 十年代
ま
で残 って いて
、
一ニ十 年代 には まだ かな りの 面積 の桑 畑が
あ
った ら しい
。養 蚕よ りも 米 の方 が良 い、 と いう 理由 で桑 畑 の水固化
が進 んだ のは 戦後 の現 象 であ る。 果樹栽培
も戦 後始
ま
って いる
。塩 野平 の十 八戸 中、 農家 は十 六 戸 であ る。 その 内、 専業 農家
は
二戸 で、 兼業農 家 では農外収入
の方 を多
と
する 第 二種兼業農家
が多 い。 五十 五年 農林業 セン サ スで は水 田面 積 一、二 四五 a、 果樹 三O O aで あり
、農産物販売金額
の第 一位 に稲 を挙げ た農
家
が十 二戸 であ るの で、 現在 でも 塩野 平 では 米作を基
盤 とす る農 業が 展開 し てい
る。
大江町 では 戦後果樹栽培が
盛 んに な って
、五 十年 代 に入 ると
、果 樹収入が
米作収 入を 上回 るほ どに な って いる
。塩 野平 には ブド ウ、リン
ゴ、
モ モ、
カキ など を栽 培す る八 戸が ある
。出稼 ぎ には 一人
出
るか 出な いか
と
いう 程度 であ る。 最近 の減反政策
の進 行 で米 作農家 は転 換を 迫ら れて いる
、が 塩野 平 で酪 農経 営 に進 もう とし て設 備投 資を し てい る聞 に失 敗 し、
家
族 は分 散し て転 出し てし ま った 例が一
つ聞 かれ た。 人口 の変 遷 は、 慶応 四年 (一 八六 八)の
「人 別宗門相改書上帳」
で十 二 戸 (百姓 八戸
、水呑 四戸 )、男 女 三十 六人 ず つの 計 七十 二人 が数 えら れて
い
る。 五十 六年現 在 では 十八 戸 に男 四十 七人
、女
五十 四人 の計 一O 一人 であ る。 間取 りに よる と、 戸数増加
は明治末期以
降 の傾 向 あで り、 昭和 四十年 代 に最 多 の二 十戸 に達 した
。人 口の 方 は昭 和 二十年代後半頃が
最多 であ
っ
たら し い。 近年 にな って 平均世帯員数
は増 加 の傾 向 に転 じて いる (表 11 これ は順調
に
ヨメ
、
ム コを 迎え て、 子供 の出 生が 相継 いで いる こと の表 わ れ で、 塩野 平 で誇 りと する とこ ろで ある
。他 の農村集落
では 結婚相 手が
見
入 っか らず 困 って いる ので
、そ う いう 知人 宅を 訪 ねて
、う っか り マゴ の話 を 出 して しま うと 気 の毒 に感 じる と いう
。
塩野平 の全 戸は 同姓 で、 安兵衛、
弥兵衛、
銀兵 衛 の三 本家 の系 統に 分 け られ る。 各本家
の創始年代、
当主 の代 数 は伝 わ って いな い。 来住 戸 はな く、 戸数増 加 はす べて 分家創 出 によ ると みら れる
。天 明年 間 より 約 二百年間も 続 いて いる 契約帳
(写真 参照) には毎年
の契約当番名
が、 明治
の
一時 期を 除 いて、 継続 的に 記録 され て いる
。そ れを 整理 す ると
、天明寛
政年聞 に八 戸、
享和十戸、
文化十 二戸
、文政天保前期十
三戸
、天保 後期 より 明治末期 まで 十 三戸 であ った らし い。 天保以降
の戸 数減少 は、 文政 三年 (一 八 二O
)
と翌 年に 流行 病 で十 五名 の死 者を 出 した こと
、天保
四年 (一 八三 三) の奥 羽大凶 作な どに 起因 して いる と考 えら れる
。神社別当を勤
め有 力戸
の
一つ であ った 惣七 家 は、 流行 病 で働 き手 を失 い、 幕末 には 絶家 する ほど であ
っ
たの で、 水呑 とし て分 出 した 分 家 の中 には その 危機 に耐 えら れな か った
も
のが あ った とし ても 不思 議 では ない
。文化 およ び慶 応年 間 の二 回、 塩野 平 で大 火が あ った
。そ れが 原 因で 転 出し た例 もあ るが
、大火 の前 後 で戸 数 の 増減 はみ られ な い。 転出 戸に 代 わる 新分家 が現 われ てい るか らで ある
。前 述 の宝暦名寄帳
は、 契約帳 の最 古 の 記録年 代 より 三十 年古 いも ので あり
、
そこ には 十八 名が 記載 され てい る。 この 十八 名 と いう数 字は 当時 十八 戸が 塩野 平 にあ った と解釈 す るよ り、他村
者 で塩野平
に耕 地を も っ者 も含 てめ いる とみ なす のが 整合 的 であ る。明治
二十年頃と
推定さ
れ
てい る名 寄帳
民
、時代が かけ
離
れて いる が、
他村
者を含
んで いる
。ま た、 契約当 番を水呑が 勤 めた か、 契約帳 にム ラの 全戸 は載 って いな いの では な いか
、と いう 疑問 があ ろう
。し かし
、 これ に対 して は明治末
期 の戸 数 から 推 して 徳川 期 にそ
れ以 上 の戸 数が あ った とは 考え 難 いこ と、 慶応年間
の人 別帳 に水 呑と 明記
第二
章
人口
・家 族
・親
族
る。 さ
れて いる 名前が
、契約当番
名 の中 にみ られ るこ とを 反証 とし て挙げ られ
1 人 口
階層に
つい てみ ると
、農地改
革時 に地 主は 二戸
、小作は
五戸 であ った
。
「住民基本台帳」
(昭 和五 十五 年十 一月 現在) によ ると 塩野 平 は、 人口 三本家 はそ の中間 にあ った
。地 主 二戸 は自 作す る 一方 で、 主 に他 部落 の人
一O 一人 (男 四十 七、 女 五十 四〉、
十八 世帯 から なる
、き わめ て小 規模 な ム 小作 五戸 は いず れも 明治・ 大正 期 の新 分家 であ り、
に土 地を 貸 し、小作料と
して いず れも 年貢米百数十俵を受
け てい たと いう
。
本家 より分与さ
れた 耕地 の外 に、 本家ま たは 他人
か
ら土 地を 借 りて いた
。
その 内 二戸 は転 出し てい る。 現在 の経営耕地
面積 をみ ると
、旧 地主 は旧 小作を水
田
・果 樹園と もに しの ぐ面積を所
有し
てい るが
、最 大最小 の面積を
も
っグ ルー プ は旧 中間層が
相対的
に
上昇な
いし
下降
し てい る。 しか し最大面積
をも っ農 家 で水 田・ 果樹園を合
わせ て 二二 五 aで あり
、そ の 相互 間 の階 層差 は大 きく はな い。 慶応年間
の水 呑四 戸 の内 二戸 は明治中期ま
でに 転出お よび 絶家 し、
他
のニ 戸は農地改
革時 に中 間層、
現在 では経 営耕 地面 積 の大
き
い方 に属 し てい る。 この よう な塩野平
の状 況 に対 して 近隣 の農
村集
落 から は、 塩野平 では皆が 旦那 の旦 那契約 を して いる と羨 まし がら れた と いう
。
全戸 が平等的
だと いう わけ であ る。 (松本)
契約講
の社 会人類学的研究
H
五歳階級別 人 口 構成
年 齢 総 数 男 女
総 数 101 ( 1 00 . 0 ) 47 ( 100 . 0 ) 54 ( 100 . 0 )
。 - 4歳 1 2 ( 1 l . 9 ) 5 ( 10 . 6 ) 7 ( 1 3 . 0 ) 5 - 9 1 0 ( 9 . 9 ) 4 ( 8 . 5 ) 6 ( 1 l . 1 ) 1 0 - 14 5( 5 . 0 ) 4 ( 8 . 5) 1 ( l . 9 ) 1 5 - 1 9 8 ( 7 . 9 ) 4 ( 8 . 5) 4 ( 7 . 4 ) 20- 24 2 ( 2 . 0 ) 1 ( 2 . 1 ) 1 ( l . 9 ) 25 - 29 8 ( 7 . 9 ) 2 ( 4 . 3 ) ó ( 1 l . 1 ) 30 - 34 1 0 ( 9 . 9 ) 7 ( 1 4 . 9 ) 3 ( 5 . 6 ) 35 - 39 2 ( 2 . 0 ) 1 ( 2 . 1 ) 1 ( l . 9 ) 40 - 44 5 ( 5 . 0 ) 1 ( 2 . 1 ) 4 ( 7 . 4) 4 5 - 49 9 ( 8 . 9 ) 6 ( 1 2 . 8 ) 3 ( 5 . 6 ) 5 0 - 54 6( 5 . 9 ) 2 ( 4 . 3) 4 ( 7 . 4 ) 5 5 - 59 5( 5 . 0 ) 3 ( 6 . 4) 2 ( 3 . 7 )
60- 64 7( 6 . 9 ) 2 ( 4 . 3) 5 ( 9 . 3 )
65- 69 4( 4 . 0 ) 3 ( 6 . 4) l ( l . 9 )
70- 74 3 ( 3 . 0 ) 2 ( 4 . 3) 1 ( 1 . 9 )
75- 79 2( 2 . 0 ) 2 ( 3 . 7 )
80 - 84 3 ( 3 . 0 ) 表 2
八
「住民;芝 本 台 帳」
( 資料 )