• 検索結果がありません。

米軍基地の過重負担・格差の固定化という不利益

ドキュメント内 Microsoft Word - H271020第5意見書(印刷用) (ページ 99-191)

(1) 沖縄への米軍基地の過重負担・格差が形成された経緯 ア 沖縄における米軍基地の形成経緯

(ア) 日本本土と沖縄の米軍基地面積の推移

日本本土及び沖縄における米軍基地面積(本書面の第3にお いては、米軍基地面積は専用施設面積を示す)の推移は以下の とおりである。

日 本(1972年以 降は 沖 縄を除 く面積 ) 沖 縄

1945(S20)年 4万 5000 ㌈

(約 182 ㎢)

1951(S26)年 124 ㎢

1952(S27)年 1352.636 ㎢

1954(S29)年 162 ㎢

1955(S30)年 1296.360 ㎢

1957(S32)年 1005.39 ㎢

1958(S33)年 660.528 ㎢ 1958(S33)年 176 ㎢

1960(S35)年 335.204 ㎢ 1960(S35)年 209 ㎢

1965(S40)年 306.824 ㎢

1970(S45)年 214.098 ㎢

1972(S47)年 196.991 ㎢ 1972(S47)年 278.925㎢

1985(S60)年 82.675 ㎢ 1985(S60)年 248.61 ㎢

2013(H25)年 80.919 ㎢ 2013(H25)年 228.072㎢

100

(イ) 沖縄への海兵隊移駐及び普天間飛行場が航空基地拠点とさ れた経緯等

a 海兵隊基地の沖縄へのシワ寄せ

⒜ 1950 年代を通じて、日本の米軍基地面積は大きく減少し、

他方で沖縄の基地面積は激増した。すなわち、1950 年代初 頭、沖縄の米軍基地面積は 124 平方キロメートル(1951 年・昭和 26 年)であったのに対し、日本本土の米軍基地

面積は 1352.6 平方キロメートル(1952 年・昭和 27 年)

となった。

こ の 沖 縄 に お け る 基 地 面 積 の 激 増 の 大 き な 要 因 と な っ たのは、日本本土から沖縄への海兵隊移駐であった。

⒝ 沖縄戦の主力を担った海兵隊部隊のほとんどは、降伏後 の日本本土に移って初期の占領政策に従事した後、米国本 土に帰還した。沖縄の占領政策を行ったのは、米国の陸軍 と海軍であった。

米国本土で一旦解散した海兵隊の部隊は、朝鮮戦争を契 機に、1953 年(昭和 28年)に第3海兵師団として再結成 され、日本本土に派遣された。キャンプ岐阜とキャンプ富 士に司令部が置かれ、神奈川県横須賀市、静岡県御殿場市、

滋賀県大津市奈良県奈良市、大阪府和泉市・堺市、兵庫県 神戸市などに分散駐留した48

1950 年代には、日本本土でも米軍基地や演習は住民から

48 NHK取材班「基地はなぜ沖縄に集中しているのか」23頁。

101

目に見える存在であった。対日平和条約により日本が主権 国家として独立を回復したにもかかわらず、多くの米軍基 地が存在し続け、時には住民たちが訓練に巻き込まれて死 傷者が出るような状況に対し、日本本土の各地で熾烈な反 対運動があった。

すなわち、石川県の内灘試射場への反対闘争、浅間山演 習場反対闘争、妙義山接収計画反対闘争や、北富士、岐阜 に お け る 海 兵 隊 基 地 に 対 す る 住 民 の 熾 烈 な 反 対 闘 争 な ど が起きていた。

1957 年(昭和 32 年)1 月に発生した、群馬県の相馬が 原米軍演習場で、薬莢拾いをしていた農家の主婦をウィリ アム・S・ジラード三等義兵が射殺するという事件(ジラ ード事件)は、日本社会に大きな衝撃を与え、米軍への批 判が相次ぎ、国会でも野党が米軍による犯罪を追及し、深 刻な政治問題へと発展した。岸首相は、マッカーサー駐日 米大使に国内の対米不満を強調し、米陸上兵力の全面撤退 を訴え、アイゼンハワー大統領は米陸上兵力を遅滞なく日 本から撤退させることを決断し、海兵隊の沖縄移駐が加速 された。

1957 年(昭和 32 年)6月 21 日の岸首相とアイゼンハ ワー米大統領の共同声明において、独立国家となった日本 と米国との対等が強調され、米国が「明年中に日本国内の 合衆国軍隊の兵力を、すべての合衆国地上戦闘部隊のすみ やか な撤 退を含み 、大幅に削 減する。」 ことを約束した。

102

そして、1958年(昭和 33年)にはすべての地上戦闘部隊 の撤退、すなわち、海兵隊の日本からの撤退が実現し、そ の多くが沖縄へと移駐した。

この海兵隊の日本本土から沖縄への移駐については、そ の軍事的根拠も定かではなかった。1954 年(昭和 29 年)

4月1日、統合参謀本部は、極東米軍の包括的な再配置計 画を作成したが、この計画では、日本駐留の第3海兵師団 を米国本国に 1955 年7月から9月にかけて撤退させると なっていた。1954年(昭和 29年)7 月 26 日、ウィルソン 国防長官は、日本から本国に撤退予定の第3海兵師団を沖 縄に移駐させることを提案し、各軍で詳しく検討される前 に、僅か2日後の国家安全保障会議で承認をされた49。こ の決定に対し、東京のハル極東軍司令官は、移駐コストと 土地接収の観点から海兵隊の沖縄移駐に反対し、陸軍 1 個 師団の移駐を進言した。また、統合参謀本部の下部機関で ある統合戦略計画委員会が、同年 11 月にまとめた検討結 果では、ソ連との全面戦争が勃発した場合には、第三海兵 師団はヨーロッパに派遣されることが予定されており、第 三 海 兵 師 団 を 沖 縄 に 移 駐 さ せ る こ と は 実 際 的 で は な い と していた50。翌年5月、那覇総領事館のスティーブンス総 領事 は、 アチソン 駐日大使に 、「国防長 官の決定はだれも 説明できない。深刻な事態に陥っている土地問題は解決で

49 平良好利「戦後沖縄と米軍基地」96 頁。

50 平良好利「戦後沖縄と米軍基地」311 頁。

103

きなくなるだろう」と打電した51

1957 年(昭和 32 年)末に提出された前記ナッシュ・レ ポー トは 、「沖 縄の海兵隊は 機動性に欠 ける」と問題点を 指摘していた。海兵隊の役割は、戦争となった場合に真っ 先に戦場に駆けつけ、敵前上陸をはかることであり、その 機動性を欠いているということは、海兵隊の沖縄駐留は軍 事的合理性を欠いているということにほかならない。軍事 的合理性を欠いたまま、日本国内の反米軍基地感情の鎮静 化という政治的目的のために、海兵隊の沖縄移駐が急がれ たことは明らかであった。

日本本では、1957 年(昭和 32 年)中には伊丹飛行場、

内灘演習場など、1958年(昭和 33年)中には新潟飛行場、

小牧飛行場、キャンプ岐阜など、1959 年(昭和 34 年)に は北海道演習場、辻堂演習場、キャンプ千歳などが返還さ れていき、近畿、中部、四国にはほとんど米軍基地がなく なり52、日本本土における反米基地感情は急激に鎮静化し ていった。

1950 年代初頭の日本の独立回復時から1960 年(昭和 35 年)の安保改定までの間に、日本本土の米軍基地面積は4 分の1以下に減少していた。

⒞ 一方、対日平和条約第3条により日本から切り離された 沖縄では、あらたな米軍基地建設のために、悲劇的といわ

51 屋良朝博「砂上の同盟」87頁。

52 林博史「米軍基地の歴史」93 頁、

104

ざるをえない事態が生じていった。

1950 年代前半には、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる 軍用地の強制接収も行われた。

そして、1956 年(昭和 31年)にはキャンプ・シュワブ、

辺野古弾薬庫、1957 年(昭和32 年)にはキャンプ・ハン セン、北部訓練場、キャンプ・マクトリアス、1958年(昭 和 33 年)にはキャンプ・コートニーと、北部の海兵隊新 基地を中心と して、沖縄の米軍基地が拡張されていっ た。

沖縄の米軍基地面積は、1951 年(昭和 26年)には 124 平方キロメートルであったものが、1960 年(昭和 35 年)

には 209 平方キロメートルにまで増加していた53

b 航空機騒音被害の沖縄へのシワ寄せ(普天間飛行場が第 36 海兵航空群のホームベースとされた経緯等)

⒜ 普天間飛行場が第 36 海兵航空軍のホームベースとなっ たのは 1969年(昭和 44 年)のことであるが、日本本土の 基地負担の軽減のためであった。

米国防総省が 1968 年(昭和 43)年 12 月に策定した在 日米軍再編計画では、朝鮮半島有事の際に、海兵隊の航空 機 は 到 着 ま で に 数 日 か か る た め 決 定 的 な 役 割 を 果 た せ な いことや牧港補給地区の第3海兵補給群は財政的・組織的 に非効率などの軍事的理由を挙げ、普天間飛行場の完全閉 鎖のほか、第 26 連隊上陸団を米本土へ移転、第3海兵補 給軍を陸軍第2補給部隊に統合するなど、在沖海兵隊の大

53 本書面において、基地面積は、米軍専用施設面積を示すものとする。

105

幅な削減が提案されていた。

完全閉鎖の対象とされた普天間飛行場は、1960年(昭和 35年)に海兵隊航空基地として使用開始された当時は飛行 場 と 周 辺 居 住 地 域 と の 間 に 遮 蔽 も な か っ た も の で あ り 、 1969 年(昭和 44 年)の時点においても、ヘリコプター部 隊は僅かに 4 機が展開するのみであった。

しかし、日本本土における米軍基地負担を軽減するため、

普 天 間 飛 行 場 の 完 全 閉 鎖 を 含 む 在 沖 海 兵 隊 の 大 幅 削 減 の 計画は見送られ、一転して日本本土の航空部隊の移駐先と されることとなった。

国防総省は、当時、撤退圧力が高まっていた神奈川県の 厚 木 飛 行 場 に 展 開 す る 航 空 機 の 移 転 先 と し て 岩 国 飛 行 場 と普天間飛行場を選定し、普天間飛行場は、完全閉鎖どこ ろか、日本本土に展開している航空機の移転先とされるこ とになり、1969 年(昭和 44 年)11月に第1海兵航空団第 36海兵航空群のホームベースとされた54

日 本 の 首 都 圏 の 米 軍 航 空 機 騒 音 等 の 軽 減 の 必 要 と い う 政治的事情により、軍事的理由からは閉鎖が検討されてい た普天間飛行場が第 36 海兵航空群のホームベースとさた ものであり、そもそも普天間飛行場が海兵隊航空基地の拠 点とされたこ とに、 地理的必然性 はなかったものである。

⒝ 他方、1960 年代後半から 1970年代前半にかけて、日本

54川名晋史「在日米軍基地再編を巡る米国の認識とその過程―起点として の 1968年―」国相安全保障第 42 巻第 3 号

ドキュメント内 Microsoft Word - H271020第5意見書(印刷用) (ページ 99-191)

関連したドキュメント