‑一 言Z
lこ う は の
「 で 准 は ( な て い ら か し と
て)党本を検ずるに︒覆肩
衣の名無し
︒ ﹂
と註をつけて
いることから思うに︑インドに於いては︑覆肩衣と言う
物があったのではなく︑皆︑僧祇支と呼ばれる物で訳語 が覆肩衣であると理解すべきであろう︒阿難尊者因縁の
覆肩の衣は︑右肩僧祇支と呼ぶべき物と思う︒これとは
別に中国に至りて覆肩衣が出来たと考えたい︒
一 一 、
ネタ/2註9
図
編
+ +l ‑ o o
﹃大宋僧史略﹄巻上に﹁後説の宮廷の人が︑僧の自窓
の日に偏担右肩なるを見て︑一
つの
一肩衣を施した︒
これ
を編杉と言う︒両肩に衿と袖をつけて僧祇支の体裁をな
くした︒これは親より始められた
︒ ﹂
(意
訳)
﹃翻
謬名
義
集﹄巻七僧祇支の項にも竺道祖の伝を引いて﹁親
の時
代︑
7 9 ‑
僧を宮廷内に請して自窓せしめた︒宮廷の人︑僧の編担
を見て好とせず︑衣を作って僧に施した︒つまり左辺祇
支上につなぎあわせて︑これを偏杉右辺と称した︒今僧
祇支の名を隠して︑しかも両袖をあわせ呼んで偏杉と言
ぅ︒作る時は後ろを開いて領(えり)をぬいととのえる
べきである︒
これは本来の方式を残すためである
︒ ﹂
註初(意訳)また﹃韓民要覧﹄巻上偏杉の項にも同文を載せ
﹁今脊を開いて領を接するは︑蓋し貌制の遣なり
︒ ﹂
と
して後競の時代に偏杉が作られたとする︒ここに言う親
は皆後貌(西貌ともいう紀元五三五
1
五五六)の事であり︑この王朝の諸王が仏教に帰依していたと言う事が義
註別海の﹃悌教標峨義築註﹄巻之中に詳しく述べられている︒
主2
﹃ 悌
制比
丘
六物園﹄にも﹁中国の往古は僧祇支を服してい
た︒
後親の時に至り︑始めて右袖を加えて両辺を縫い合わ
せ︑これを偏杉と言った︒領(えりくび)より載(た)ち
て裾を聞き元の形を残す︒
故に
偏杉
左肩
が本
当の
僧祇
支で
︑
偏杉右辺が彊屑であることがわかる︒
今人
此に迷う︒
偏杉
の上にまた彊屑を加えたのである︒
律を
学ぶ
者は
︑必
す翠
骨
するべきだと思う
︒﹂
(意訳)としている︒
以上の事から中国の習俗から片肌を脱ぎて素肌を見せ
ることが嫌われ︑右肩を隠す偏杉右辺と称する覆肩衣が
作られ︑僧祇支の上に覆肩衣を重ね合せて二衣が出来た︒
ここに両肩が隠されそれぞれに袖が付けられ僧祇支の体
裁が崩れ︑その名も偏杉と変っていった︒両袖が付いた
にも拘わらず︑その成り立ちが重視され偏杉と呼ばれた
事がわかる︒その上に︑律を学ぶ者はこれを服着せよと 言うのは︑この衣が元は仏の制聴の袈裟から起こっているからであり︑ここを重視しなければならぬとするものであると理解したい︒
一 一 一 、
裾 許
図
梧は﹃望月例教大辞典﹄裾の項の如く︑浬繋僧︑泥恒
僧と作り下棺︑内衣とも訳すとされる︒
註 忽 註
mω
註川 副
﹃十
請律
﹄︑
﹃南海寄錦内法侍﹄︑﹃大唐西域記﹄から梧
が聴衣とされた因縁とその量︑そして布や粗末な絹の生
地を壁を作りて腰に付け︑別紐にてしばったものであろ
うことがわかる︒しかし︑中国にては壁の数︑量の大小︑
製の単複については意に任せていたと察せられる︒
詑お尼僧の梧については︑﹃南海寄館内法侍﹄に﹁唯々梧
の細かい処に僧と尼僧の違いがある︒尼僧の梧は党語で
は倶蘇浴迦と云ふ︒訳して篇(せん)衣と言う
︒﹂
(意
訳)として︑比丘と比丘尼の槍には形に違いがあるとし
﹃望月例教大辞典﹄の摺の項の如く︑この倶蘇
荘お図洛迦は阪修羅
W C E E
のことで篇(せん)衣と訳される︒ ている︒
この篇の字から竹寵の様に筒状に出来ていたものと想像
でき︑比丘のものは巻スカートの様であるのに対して比
丘尼のものはスカートのように筒状に出来ている物をは
いたのではないかと考えられる︒因みに現代中国語でも
梧子と書いてスカートを言っている︒
四
現在の我が国に於ける編杉・裾
偏杉という字は︑資料に使用した諸本ともにんべんの
偏を使用しているのに対し︑﹃法服格正﹄と﹃新訂浄土
宗法要集﹄は︑ころもへんの編の字を使用している︒漢
和辞典の﹃大漢語林﹄には︑ころもへんの編杉をのせ︑
﹁僧侶の衣服の
ご︒
として記載されている︒僧侶の衣
服を現わすことを考えれば︑ころもへんの編杉が適して
いるのでこの字を使用すべきではないかと思う︒
現在の仏教界に於いて編杉・梧はどのように使用され
ているのであろうか︒南都の東大寺︑薬師寺︒天台宗︒
真言宗の高野山︑豊山派︑智山派︒真言律である霊雲寺
派に問合せて見たところ︑日常的に使用している宗派は 真言律の霊雲寺派だけである︒南都の東大寺︑薬師寺︒
真言宗豊山派︑智山派に於いては使用されることは無い︒
もしくは︑個人的には使用されることであるとのことで
あった︒天台宗と真言宗の高野山では日常的には用いな
いが︑特別な折には着用されるとのことである︒
この
特
別の折というのは︑授戒や特別の行︑高野山ではこれに
加えて︑加行の折など受者が着用しているようである︒
まれに天台宗︑真言宗高野山では伝戒者である︑大阿闇
梨が着用することもあるとのことであった︒また︑先に
上げた︑まれに使用されことがあるとしたのは真言宗豊
81
山脈で︑自行の折で有ると一言う︒編杉・梧は各宗とも次
第に使用されることがなくなりつつあり︑使用されると
しでも自分自身の行︑つまり︑自行の折着用されている
のが現状の様である︒天台宗では写経会の折︑着用され
ることもあるようであるが︑これも化他行というより自
行の範囲であると考えたい︒
以上の事から︑先に述べたように︑編杉・棺は仏の制
聴の衣として伝えられ︑自行の衣服として使用されてき
たので︑律家では特に重視されたのではなかろうか︒
編杉・梧は紗や木綿なと質素な生地で単衣に作られ︑
色も︑木欄︑茶︑鼠︑黒などの壊色が使われる︒
編杉の特徴は︑背が襟のみ綴られ︑襟から下は綴じら
れずに開いている︒着用の時は︑左前に着る︒
つま
り︑
右の任(おくみ)が上となる︒前左身頃の紐と後ろ左身
頃の紐を結び︑前右身頃の紐と後ろ右身頃の紐を結ぶ︒
註冊
︒
図つまり前と後ろの身ごろがそれぞれ交差する形となる︒
編杉の成立課程を考慮して︑僧祇支を先につけ︑後から
覆肩衣をつけたとすると自然と左前に着る形となり︑こ
れを守っているのであろう︒まれに︑右前の編杉も有る
とのことであるが︑これはむしろ特殊な物であると思う︒
今日の梧は簡略化されてきているのか︑両脇に折襲が
一つずつ付けられているだけの物で
︑そ
の着
用の
仕方
は︑
梧を開いて中心を背に合せ︑着物を着るがごとく身につ
け︑前中央にて組で結ぶ︒
編杉・措着用の時は︑まず梧を付けて︑その上に編杉
を着するのである︒
おわりに
編杉・樗は︑我が宗において特殊な物の扱いとされ︑
一般僧侶の白から遠のいているが︑法衣の源流を考える
時︑欠く事の出来ない法衣として伝えていかなければな
らぬ物と考えたい︒その必要性として︑用途を問われる
ならば︑仏の制聴衣の名残と︑自行のための法衣との立
場を考慮して︑僧侶の喪主としての衣体︑並びに僧侶の
往生衣として使用していったらどうかと提案してみたい︒
註
註
‑
大 日 本 仏 教 全 書73
服 具 P
叢 850 害 1
第 851
浄土宗全官官第ロ巻
註2
註3
大日
本仏
教全
室田
町ω
服具叢書第
註4
大日本仏教会香川服具叢書第
註5大日本仏教全量百九服具歯車害第
註6大日本仏教全室田丸服具叢書第
﹃摩詞僧祇律﹄巻第お大正新修大蔵経第辺巻p問中註7
P1
1ω
p p p p 210 203 165 69
¥ ¥ ¥ ¥ 253 209 190 142
註8
正蔵第幻巻
pm
十調律﹄巻第臼u中﹃
註9﹃禰沙塞部和隆五分律﹄巻第初
p m
中
p m
上 正蔵第
m μ
巻
註叩﹃緯門真早版儀﹄方量償相篇第6
正蔵第必巻
p m
中註日
﹃大 唐西
域記﹄巻第2
註ロ
﹃例
制大
物園
﹄
正 蔵 第 45 正 巻 蔵 十 第
一
P 51、901巻 著 中 衣 法 式
正蔵第M註日
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巻 第2
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大日本仏教金書ね服具叢書第
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法 侍 巻 第2
十二︑尼衣喪制
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僧史略﹄巻上正蔵第砧巻
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﹃翻 訳名
義集﹄
巻第
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﹃輝氏要覧
﹄巻上 註幻
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﹃十 議
律﹄巻第
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﹃ 大 唐西域記
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中 蹄内 法 得 巻 第 2
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﹃望月例教大辞典﹄より写す
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註幻図﹃望月例教大辞典﹄より写す註お図﹃望月例教大辞典﹄より写す
‑ 85 ‑
註
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編 杉 前 側
編杉後側