【 1 】 前 回 レ ポ ー ト の 再 確 認
[Ⅰ]第三項排除論
1)双方の対象の相違(アルカイックな古代初期の王権と近代資本制社会)、及び、論理的 方法の相違(ニーチェ・フロイト的方法とマルクス的方法)はあるが、今村自身がジ ラールにヒントを得たと言っていることを含めて、敢えてジラール・今村的論理、若 しくは第三項排除論とする。
2)a) ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』(邦訳、法政大学出版部)に於ける第三項排除 論(共同体の負の集積を一身に背負う、イケニエ(汚辱の具現としての糞便の王)⇔
聖性的支配者)としての王権の生成の構造=不可視の構造であり、二項対立を批判し たもの。
b) 今村仁司『排除の構造』に於ける第三項排除論(共同体=社会の商品交換のカオス
=矛盾を負荷するものとしての貨幣(=第一次・第三項排除)⇔資本の循環(資本を
今村は第二次・第三項排除と謂う)は、記号論的限界を超えたベクトルを持つと謂う。
[Ⅱ]学史的背景
いずれも構造主義の学史的背景に位置づけられるものであり、ポスト構造主義の学者に 依る構造主義の第一世代、なかんずくレヴィストロース、アンリ・ピアージに対する批判 的コンテキストから出てきたものと言ってよい。彼らの批判は、レヴィストロースの人類 学の成果を認める(親族構造の解明や構成の思考に於ける神話作用の分析など)一方で、
①それが社会構造を静態的に、かつ水平的にしか把握できなかったことを批判し、②その 原因が、その記号学的な方法による二項対立・置き換え・還元にあることを言明するが、
それ以降のアプローチは大きく二つに分流する。その一はジャック・デリダ、丸山圭三郎 らに見られる記号学‐言語学そのもの原理的再構成の立場(但しデリダの場合はロゴス主 義的記号学の解体論の作業に収斂し、丸山の場合はソシュールに原理的に立ち戻って、記 号‐言語の生産の場そのものを再検討する作業に収斂する)であり、その二は記号学それ 自体が、社会構造論の構築の上で限界があるという立場であって、ジラール、今村、及び ジャン・ボールドリヤールはここに属する。(なお、ミシェル・フーコー、ルイ・アルチュ セールがポスト構造主義者から尊敬を集めているのは、レヴィストロースと比較して極め て示唆的である。)
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[Ⅲ]第三項排除の問題
第三項排除論をモデルとして考える場合、ジラールプロパー、今村プロパーとしても未 決性が多い。
∵ジラールの場合、イケニエ論は卓越しているが、聖性論は断片的であって、図式的に言 うと、<糞便の王>と<聖性の王>との内在的な生成過程が明確でない。
この内在的な相互規定が不明確なのは、今村の(貨幣=第一次的第三項排除⇔資本=第 二次的第三項排)も同様である。文献学批判(ニーチェ)と精神分析学批判(フロイト批 判)とが、ない交ぜになっているジラールのコンテキストは相当に難解であるが、今村の 場合、マルクス『資本論』の価値形態論を援用している上で、よりコンテキストは手繰り やすい。
彼は自身の意図に反して(ということは宇野弘蔵に対して批判的たらんという意図はあ るが)、宇野弘蔵的な価値形態論に引きずられているため、資本(第二次第三項)への転化 を論理的に説明できなくなっているからである。(この点は、それ自体一つのテーマをなす が、ここでの課題ではない。)
∵ジラールも今村も第三項排除の論理を、歴史貫通的な共時的なモデルとしては系統化 できていない。しかし、これこそ当人よりも今後の研究者の努力を待つべきであろう。(但 し、ジラールも今村もバタイユをアイドルにしている)。∵ジラールでは古代に、今村では 近代資本制社会にモデルの歴史的対象が限定されてしまっている。
[Ⅳ]第三項排除の歴史学研究に於ける意義
前項Ⅲに於ける論理上の問題性やモデルとしての不完全性にも係わらず、ジラール・今 村的な第三項排除論は、古代史研究上、逸することの出来ない大きな意味を持っている(と 考える)。それらは二点ある。
1)ジラール的に儀礼・儀式とは、王権支配の構造のドラマチックな空間化でありながら、
そのアリバイをも、レプレゼンテーションするものであり、今村的には儀礼・儀式と は第三項排除過程の再演=追認でありながら、その端緒の否認である。
2)ジラール的には王権支配の不可視の構造は、共同体のどの空間にも定位を持たないも のであり、今村的には第三項排除は永久に「内なるもの」‐「外なるもの」の両義性 として存在するものである。
[Ⅴ]第三項排除論から見た古代日本の天皇制
1)古代日本の天皇制は、八世紀に、その思想的・儀式的体系化をみたものであり、例え ば、ジラールの王権論などから見ても、相当に新しい歴史性を持つものである。
2)にも係わらず、天皇制こそ第三項排除論から反照されて然るべき問題であり、自体が 第三項排除である。また、林氏が端緒的にレポートした非農民層のあるものは、第三 項ʼ→第三項ʼʼとして初めてその本質が反照されるのではないか。(と考える。)
98 3)日本の古代史を、なかんずく天皇制の問題を記紀をベースにしながらも、儀礼・儀式
の分析の中から抽き出していくことも重要なアプローチの一つである。(と考える。)
[ 2 ] 前 項 Ⅳ 、 Ⅴ の 究 明
1)前項Ⅳに於ける第三項排除論の意義は、①儀式・儀礼の位相=第三項の再現及びその アリバイ、②第三項排除自体の位相の問題であるが、それらは先に追尋する必要があ る。それらを以下に①ʼ、②ʼとして追記する。
①ʼ儀式・儀礼は第三項排除の過程的再演である。
a) ex.a 王の即位礼・王権内部の秘儀 (ジラール系列)
ex. b 企業の株主総会、取引所、各経済白書 (今村系列)
b) それらは、しかし第三項排除のアリバイ証明であり、端緒の否認である。というの は、①そもそも第三項排除のヘソの緒を抹消すること、②聖性としての王権、自明性 としての資本を現前させること、③第三項の構造それ自体を二項対立へ還元すること
(神 話化すること)等などと考えるべきである。(特に①③は『古事記』のテキスト クリティーク等に於いて肝要である。)
②ʼ前掲①ʼで断案した儀式・儀礼の諸規定からみると、儀式・儀礼とはジラール的に 言えば、定位なき者の定位であり、今村的に言えば「内なる外」‐「外なる内」の中心 化である。今、日本古代史に於ける天皇制の儀式・儀礼化に即してこの点に関説すると すれば、以下のサブ項が得られよう。
a) 天皇制の儀式・儀礼は天皇を共同体的基盤に定位させる錯認化作用をもつ。(もとより 天皇制に定位はない)。
b) 天皇制の儀式・儀礼は天皇を共同体=律令制国家の共同体的基盤の「中心」に在ると する錯認化作用を持つ。(もとより天皇制は共同体の中には存在しない)。
c) 上掲a)、b)の断案は天皇のサブシステムである身分層(天皇)ʼにも該当するであろう か?
いずれにせよ a)、b)の断案は「農業共同体の中心的信仰(情念)としての天皇制」なる 学識に対して大きな反照を提供する。即ち、天皇制は共同体の中心‐周辺という社会分業 論→経済社会構成によっては解明されない。(近代天皇制の論究史では、神山茂夫、丸山真 男、吉本隆明などの論策がこれに該当する)。
2)前掲Ⅴで掲示した問題を、1)の①ʼ②ʼ等で断案したコンテキストでいくらかでも 展開してみることとする。
①西郷信綱『古事記の研究』(岩波新書)のテキストクリティークを試みてみる。
a) 『古事記』を説話‐神話‐服属儀礼の重層化したテキストとして構造論的に解説し ており、ここに数々の独創的な知見、見識を散りばめた名著であって、『古事記』を歴 史主義的な解釈から守ろうとする姿勢に於いて際立っている。(上山春平等の俗説との
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b)にも係わらず、次のような新嘗祭、大嘗祭の規定の貧しさには驚くばかりである。「宮 廷では年毎に行われる新嘗祭、天皇即位の年に行われるものを大嘗祭として区別する ようになったが、規模こそ違え、どちらも稲の収穫祭であり、このときの天皇は新穀 を食べることにより、首長としての力や資格を更新したり、身に付けたりするのであ った。」(68p)
∵このような儀式的レベルは、F.エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』で擬制 氏族的国家、初期部族国家の水準に比定したものにすぎない。
∵西郷が追求した服属儀礼とは、このような農村共同体の分業レベルから分離しない程 度のものであったのか?
c)上掲 b)の批判的感想をジラール・今村的な第三項排除論に依って意味づけていくと したらどうなるか?卓抜な西郷のコンテキストを第三項排除論的な視点で鳥瞰すれば どのような意味が抽出されるのか試みてみると、以下のように西郷の論の進行が如何 に二項の対立、置き換えから成り立っているかに驚くのである。
※A
須佐男命←―――→天照大神(日の神の娘)→天宇受売命(田の神の娘)
↓ ↓ 天つ罪 無罪 ↓ ↓ 汚辱 聖性 ↓ ↓
根の豊洲国 高天原の中心
↓ ↓
神ヤラヒ 死と再生(「こもる」)
↓ ↓
大祓の儀式 大嘗祭
※B |
ホノニニギ←―――― |―――→隼人の国 ↓ | ↓
即位・降臨 | 服属(国つ神)―(ヤマツミ←→ワタツミ)
↓ | ↓
(新穀を)食べる | (新穀)を捧げる ↓ | ↓ ↓
(天皇)妻とる イケニエ(巫女)
(木花佐久夜比売)