2.2「経済学」講義(案)経済学レクチャー(骨子)続き 2.3「アメリカ経済およびファンドマネーについて」
2.1 新古典派経済学についての諸規定
Ⅰ.緒言
私は、宇野弘蔵「経済原論」及び P.スラッファ「商品による商品の生産」についてのテ キスト読解を行なう過程で<新古典派経済学>という術語を、限定や一般化抜きに(主要パ ラグラフにまで)使用してきた。たとえ常識体のものであろうと、何らかの一般化を行な わなければ、テキストの読解自体も、厳密を欠くのではないか、と考えるようになった。
それと同時に読解の進捗の裡に、私自身のアプローチと、<新古典派経済学>とのカテゴリ ッシュな相違を積極的に明らかにしたいとも考えるようになった。それが本稿レジュメの テーマである。
Ⅱ.常識体の一般的規定
<新古典派経済学>の常識体の一般的規定は、簡単なものであるにすぎない。ただ予備的 な枠組は、a) あくまで私製のものであること、b) 積極的な学史的作業仮説ではないこと、
の二つにすぎない。このうち、a) は自明であろうが、b)についてはいくらか説明が必要で あろう。例えば、私はヴィルヘルム・パレートや、アルフレッド・マーシャルは、オリジ ナルな秀れた学者であると確信している。しかし私の<新古典派経済学>の一般化のなかで は、彼らは、そもそも、新古典派経済学者ではない、ということになる。(註1)
即ち新古典派経済学とは、彼らの厳密な条件設定や豊かな問題意識及び創造性にあふれ た理論的矛盾を全てスポイルしたうえで、精密化を重ねてきた、いわばステレオタイプ化 された学説体系をしか、意味しない。(註2)。従って、この学説体系を一般的な枠組として、
抽出すれば良い。(註3)
それらは以下のとおりである。
(1) 社会は、アトム化された諸個人から成る等質的な社会である、と前提する学説、である。
(註4)
(2) アトム化された諸個人は、法制的に自由であり、かつ合理的な資産選択を成しうる、と 前提する学説である。
(3) こうした等質的な社会は、供給者と需要者との自由な競争と選択との領域としての<
市場>を分離する。そしてこの<市場>は、a)ミクロとマクロに分岐するが、ミクロ
103 市場の諸変量は、マクロ市場の諸変量へと集計しうる。b)マクロ市場は、無差別曲線の 導出とバスケット財の集計とによって導出される総供給函数(曲線)と総需要函数(曲 線)との集計を通じて、一般均衡解(一般均衡価格)を導くことが出来る、とする学説 である。(註5)
(4) 価格メカニズムを通じて、一般均衡解を導出する<市場>は、合理的かつ自生的であり、
一般均衡価格は近似的に二つのコーセイ、即ち公正(justice)と厚生(welfare)を充足し うると考える学説である。
私が傍点を付した部分は、パレートやマーシャルが全て、理論的な懐疑に沈潜し、一部 もしくは全部的に自己の理論から破棄した命題である。こう言えば、前述したステレオタ イプ化された学説体系としてのみ、<新古典派経済学>を、一般的規定とする、という内容 を理解していただけると考える。しかし、より積極的なカテゴリッシュな抽出作業は、こ のように、簡単にはいかない。以下の行論で、それを行なう。
[図](P.サミュエルソン&W.ノードハウス「経済学」’85 出典に依る)
(註 1)だからと言って、新古典派の内部にあって、学史的な作業仮説をすることの意義を、私 は否定するのではない。例えば、J.レージェン「経済思想における効用と価値」におけるパレ ートの研究には、多くを教えられた。(上山隆太他訳「経済学のメソトロジイ」平凡社刊 ’89 所 収)
(註2)思想史の作業仮説にたとえれば、例えば<ロシア・マルクス主義>のリストから、レー ニンやトロツキイ及びボリシェヴィキ革命の創生期の活動家や理論家を全て捨象して、ただス ターリン主義的形態だけを体系化する、というアプローチを意味する。
(註3)ある学説のステレオタイプ化された継続には、理論体系のステレオタイプ化(精細化を 含めて)だけではなく、支配権力とのネットワークや、アカデミズムの制度内に於ける知の権 力的配分など、理論外の社会的要素が係わっていることも肝要であろうが、ここでは一切捨象 する。ここでの関心は、理論自体のステレオタイプ化、だけである。
(註4)後述するように、彼らの「社会」は、よくA.スミスの「市民社会」と同一視されるが、
両者は根本的に性質を異にしている。
(註5)一般均衡論の導出過程の難点を分析したテキストとしては、前掲レージェンの労作(註 1)の他に、荒川章義「思想史のなかの現代経済学」( ’99 岩波新書)がある。又、ケインズ の理論、というよりはマクロ動学-後掲(註16)の視点から、一般均衡論を体系的に批判した テキストとしては、J.ロビンソン「異端の経済学」(宇沢弘文訳 ’83日本経済新聞社)をあげ ることが出来る。又、<均衡>という概念に潜在する二項対立の図式そのもの(これは、前掲、
荒川のテキストでも、叙述されているが)の批判を、レヴィストロースの、人類学の批判とし て展開しているのが、社会哲学の分析での、ルネ・ジラール「暴力と聖なるもの」(古田章雄 訳 ’85 法政大学出版会)や今村仁司「排除の構造」(’92 ちくま学芸文庫)の作業仮説であ り、彼らは第三項の排除のカテゴリイを提起している。私は、ジャンル外(歴史研究)のサー クルでは、折口信夫の学説を、第三項の排除論を先取りしたものとして位置づけようととした ことがある。(後述《註 30》を参照)。なお、この二項対立→均衡という図式は、アメリカの グローバリズム(対外政策)の文化論的枠組にも通底するが、ここでのテーマに属さないので
104 触れない。
Ⅲ.アメリカ流<新古典派総合>について
私たちは 1980 年に入って、アメリカの<主流派経済学>が交替したことを知っている。
即ち、60 年代末からのスタグフレーションが収拾されないまま、強度のインフレーション と国民経済に於ける双子の赤字が累積するという景気局面を通じて、それまで主流派経済 学といわれてきたアメリカ型ケインズ主義<新古典派総合>は、新古典派経済学の諸潮流 にその座を明け渡し、かつまたその新古典派経済学の諸潮流が80年代に入って、折りから のアメリカ型グローバリズムの経済政策上のフレームワークとなり、世界を席巻したので あった。
この、アメリカ型グローバリズムと、イディオムとして半ば一体化した新古典派経済学 的思想は、トレンドとしては、ヨーロッパでは行き止まったものの、日本では、小泉内閣 の財・行政改革の理論的なフレームワークとなっている。しかし、これらは経済学の流行 を示す、1つのトピックスである。これに対し私のアメリカ型新古典派総合に対する関心 は、このトピックスの解明に在るのではなく、あくまで<新古典派経済学>のカテゴリイ を追求することにある、にすぎない。以下に A.<新古典派総合>の理論的性格、B.<新 古典派総合>に於ける折衷論の内容、C.<新古典派総合>に於ける<折衷>がもたらした 理論の形態規定、の序列で検討していくこととする。
A:
この課題を遂行する為、ここで<新古典派総合>の中心人物とされている P.サミュエル ソンの世界的な経済学教科書(註6)に補説として述べられているスタグフレーション論
(「スタグフレーション」とは、景気の沈滞を意味する「スタグネーション」と物価の持続 的上昇を表す「インフレーション」の合成語です。稲門コミュニティサービス-満田引用 ) の核心的なパラグラフの検討から、始めよう。それらは、以下である。(図.:参照)。
「急激に高くなった石油商品、または賃金コストの与える影響は、ビジネス・コストを増 加させたことであった。これはスタグフレーション―インフレーションと結合したスタグ ネーション―へと導いていった。
価格が上昇した結果、AS曲線(総供給曲線のこと―三浦)はASからAS´へとシフ トしたため、均衡は1973年のEから1975年のE´へシフトした。産出量がQからQ´へ と減少しているのに、価格は上昇した。こうして、経済は魔力即ち、より低い産出量とよ り高い価格―に苦しんだのである。同じようなパターンが1979年の二度目の石油価格の上 昇のあとに続いた。」
「経済学は、これらの問題に対して科学的に正しい解答を何も与えられない。むしろ解 答はインフレーションと失業の間に苦痛を分け合う倫理的に公正な方法についてわれわれ が深く包含している・・・信念を伴うであろう」
105 このパラグラフがP.スウィージーとW.ノードハウスのスタグフレーション論の水準とそ の理論的性格を集約していると言って良い。マクロ政策を担当している政府や役所の官僚 ならば、AS曲線ではなく、AD曲線のシフトに着目するだろう。一体、AD曲線を、ど ちらにシフトさせるべきなのか。(右方シフトなら、産出量の抑制、左方シフトならインフ レーションの抑制となる)を問うであろうし、新古典派経済学の一潮流たるサプライ・サ イダーならAS曲線のシフトについて具体的な論述がないことを批判するであろう。ここ で、明瞭なのは、AS、AD曲線のシフトを論理的に解明する分析トウールそのものが、
このパラグラフでは示されていないということである。
私はここで、このパラグラフと比較するうえで、N.カルドアのスタグフレーション論を とりあげる。カルドアのスタグフレーション論は極めて示唆に富むものであるが、以下に 私製の要約を試みることとする。(註7)
(1)M.カレツキイにならって、マクロ経済の体系を Primary.Sector(第一次部門)と
Industrial.Sector(第二次部門)に分ける。第一次部門では「市場価格」は文字通り、生産
者と消費者の需要と供給を近似的な値として連動する傾向がある。しかし、第二次部門で は価格は生産管理的なのであって、価格は需要に沿って動くのではなく、在庫調整を含め た生産上の調整によって設定される。つまり、ここでは「生産費用決定的」とならざるを 得ない。(註8)
(2)第一次部門と第二次部門との交易条件は、国際経済の舞台での一次産品輸出国と工 業製品輸出国との交易条件のモデルからも透視しうるように、中・長期的に時間をとれば、
工業製品輸出国に圧倒的に有利であることがわかる。即ち、一次産品の価格の上昇は工業 製品によって容易に吸収され、結局、一次産品の生産者の実質所得を減少させる。
(3)しかしスタグフレーションのメカニズムは、このような第一次部門と第二次部門と の交易条件の優劣に在るのではない。第一次部門の価格の上昇を十分に吸収した「生産費 用決定的」な、第二次部門のインフレーションは、高い価格を貫徹しながら、二つの大き なデフレ効果に直面するのである。その1は第一次部門からの買い控え(貯蓄)であり、
その2は当該政府の、インフレーション抑制の為の財政・金融政策である。このデフレ効 果が産出量を抑制し、インフレーションはスタグネーションと結合するのである。(註8)
(4)第一次部門の、外部抑制的な条件(気候、天候的な諸条件)、生産性の低さ、(商品 の)回転期間の長さを前提にしつつ、―これに第一次部門の一次産品の投機資本による撹 乱を加味すれば―スタグフレーションのくり返しはないとは言えない。そこでカルドアは
「国際緩衝在庫制度」(International Buffer Stock)を提唱するが、これは彼の生前も今も、
実現していない。
スタグフレーションという大きな現象の解明は、カルドアの論で完結するものではない。
国際経済の景気局面と、管理通貨制というエレメントも又重要である。(註9)しかし、カ ルドアの説明は、少なくともAS曲線のAS´曲線へのシフトを過程的に説明しているば かりでなく、AD曲線の下方シフトをも説明しているのである。そして、もっとも重要な