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社会運動と満州移民事業展開の相関

ドキュメント内 学位名 博士(経済学) (ページ 97-137)

第4章 恐慌下社会運動と満州移民

第3節 社会運動と満州移民事業展開の相関

満州移民の展開は、経済状況に左右されず、方 や農民運動の展開は、それに大きく規定されてい る。したがって、満州移民事業は、農民運動の歴 史と断絶する形で展開していると推定されるが、

統計的に見てどうなるのであろうか。

まず、各郡市の送出状況と全農県連の組合員数 を比較してみると、両者の間にそれほどの相関は 認められない(表 4-8)。高橋の推測を拡大解釈す れば、農民運動と満州移民との間には逆説的な関 係が見られるはずである。しかし、半分の郡市に おいてそうした関係は確認できない。確かに大日 向村のある南佐久郡は、全農県連が確立した地域 であり、農民運動が盛んであった地域の一つに数 えられる。しかし、大日向村を除いた南佐久郡の 送出比は 28.9 ‰であり、なお送出が盛んであっ た地域といえる。郡市間の比較では、農民運動と 満州移民との間に積極的な関係を見出すことはで きないのである。

高橋の推定は大日向村という分村計画を策定・

実施した一村落から導かれているものであり、その意味では郡市間の分析だけでは、それ に充分応えたことにはならない。そこで町村単位の分析も試みてみたい。まず、長野県で

表4‑8:開拓団送出比と

全農県連組合員数

地域 郡市 送出比 組合員

(‰) (人)

北信

下 水 内 郡 24.0 57 上 水 内 郡 8.0 120 下 高 井 郡 21.3 49 上 高 井 郡 11.3 190

更 級 郡 11.2 225

埴 科 郡 12.7 990

長 野 市 3.4 0

東信

小 県 郡 13.7 268

上 田 市 3.3 0

北 佐 久 郡 12.9 92 南 佐 久 郡 39.7 36

中信

北 安 曇 郡 10.2 0

南 安 曇 郡 11.6 139 東 筑 摩 郡 15.1 30

西 筑 摩 郡 40.6 0

松 本 市 5.7 0

南信

諏 訪 郡 19.4 0

上 伊 那 郡 17.4 22 下 伊 那 郡 45.0 115

長野県 18.8 2,333

注:1)諏訪郡には岡谷市を含む。

2)黒地は中央値以上であることを示 す。

出典:表2‑1および表4‑2より作成。

分村移民団の母体となった 14 ヵ村における二・四事件における「党同盟」関係者の検挙 者を見てみる(表4-9)。

2名の検挙者を出している2ヵ村のうち、富士見村では、全協繊維の影響下とされた魚 行商と共産党シンパとされた教員柴草要であり、柴草は教労・新教メンバーとして「長野 県教員赤化事件」検挙者 138 名に名を連ねている。また、川路村では、一人は全労通労 関係の郵便局員、もう一人は、農民だが共青(共産青年同盟)の関係者である。ほか、千 代村でも農民だが共青同盟員が、上久堅村では共青関係の大工が検挙されており、泰阜村 のみで全農全会派の農民が検挙されている。したがって確かに、分村実施村では農民運動 が低調であったといえる。しかし、市部を除く「党同盟」関係者が検挙された町村は全体 の 25 %であるが、分村実施村では 36 %であり、分村実施村で恐慌下の社会運動全般が 必ずしも低調であったわけではない。

続いて、事件の検挙者のうち、終戦時には市制に移行していた平野村(岡谷市)、飯田 町・上飯田町(飯田市)、上諏訪町・豊田村・四賀村(諏訪市)の分を除き、「党同盟」

と分類されている者のなかから町村部に住所を置く者 232 人を対象に、移民戸数との比 較をした(表 4-10)。この表では、対象 371町村を送出比が高い順に 10 分割し、それぞ れの階級に含まれる検挙者数を割り出した。全農全会派の関係者の検挙者は、最も送出が 盛んな階級で最も少なく、階級値が下がるほどに検挙者数は増加する傾向にある。これは、

表4‑9:分村移民団送出母村における二・四事件検挙者数 (単位;‰、人)

開拓団名 入植式 送出母体 送出比 検挙者数

四家房大日向村開拓団 1938. 2 南 佐 久 郡 大 日 向 村 423.0 0 富士見分村王家屯開拓団 1939. 2 諏 訪 郡 富 士 見 村 198.7 2 老石房川路村開拓団 1939. 2 下 伊 那 郡 川 路 村 147.2 2 大八浪泰阜村開拓団 1939. 2 下 伊 那 郡 泰 阜 村 148.9 1 公心集読書村開拓団 1939. 2 西 筑 摩 郡 読 書 村 161.8 0 窪丹崗千代村開拓団 1939. 3 下 伊 那 郡 千 代 村 120.5 1 新立屯上久堅村開拓団 1939. 3 下 伊 那 郡 上 久 堅 村 208.5 1 羅圏河大門村開拓団 1940. 2 小 県 郡 大 門 村 118.2 0 老石房川路村開拓団 1941. 3 南 佐 久 郡 海 瀬 村 49.4 0 南陽伊那富開拓団 1941. 4 上 伊 那 郡 伊 那 富 村 23.1 0

旭日落合開拓団 1942. 4 諏 訪 郡 落 合 村 86.4 0

蘭花楢川村開拓団 1944. 3 西 筑 摩 郡 楢 川 村 48.3 0 石碑嶺河野村開拓団 1944. 8 下 伊 那 郡 河 野 村 94.0 0 推峯御嶽郷開拓団 1945. 5 西 筑 摩 郡 三 岳 村 51.2 0 注:1)前掲『長野県満州開拓史』各団編で分村移民とされている開拓団を抽出した。その際、

転業移民は除いた。

2)南佐久郡海瀬村分村移民は、1941年3月と5月に川路村分村に入植した。

出典:表1‑3・1‑4、前掲『昭和十四年二月現在 長野県社会運動史』、790〜814頁、前掲『長 野県満州開拓史』各団編より作成。

1 畠山次郎は農民運動と満州移民事業を関連づけることが必要であることを明言してい る(前掲『実説大日向村』、52 頁)。大日向村のみを対象としているため、その説明に は実証が乏しいものの、その着眼点と導かれた結論は充分評価できよう。

2 前掲『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』。

3 前掲『満州開拓史』増補再版、229頁。

4 高橋泰隆「日本ファシズムと満州分村移民の展開」満州移民史研究会編『日本帝国主 義下の満州移民』龍渓書舎、1976年11月、所収、381〜382頁。

階級の規模を勘案しても同様にい える。「党同盟」関係者の検挙者 数 も ほ ぼ 同 じ 傾 向 を 示 し て い る が、この場合、最も低い階級の検 挙者が階級規模割合からすると最 も低い値を示している。また、上 位階級の検挙者数も少なくない。

小作争議に代表される農民運動、

ひいては広汎な社会運動が恐慌下 に存在していても、満州移民事業 は展開されているのである。

このように、大日向村などの分村実施村では、恐慌下の小作争議が殆ど無かったことは 重視すべき問題である。それは、「中心人物」や「中堅人物」の移民推進活動を妨げたで あろう村内の対立構造が存在しなかったためという理解がなされるべきである。しかし、

村内の対立構造は二・四事件により長野県全域でほぼ解消・喪失しており、事件は満州移 民を受容する土壌を全県的につくり上げたといえよう。

即ち、満州移民は農民運動との連続性を断たれたところで展開されているが、それは満 州移民の展開と恐慌下社会運動とが無関係であることを意味しない。移民の推進の障壁と なる社会運動が二・四事件により壊滅させられたがゆえに、生きるために小作争議を繰り 広げた農民の意識は、「中心人物」や「中堅人物」による移民推進論を通じて満州移民へ と向けられ、その結果として、多くの長野県民が満州移民に動員されたのである。

表4‑10:満州移民送出比と二・四事件検挙者数

階級値 現住戸数 検挙者数

党同盟 うち全農

99.4‰ 22,920 11 1

36.6‰ 24,509 25 12

26.0‰ 25,499 20 10

19.7‰ 22,651 14 5

15.8‰ 28,092 17 5

12.8‰ 31,573 30 14

10.4‰ 31,170 39 11

7.8‰ 29,487 40 24

5.3‰ 30,836 23 10

2.2‰ 29,246 13 7

出典:前掲『長野県満州開拓史』名簿編、前掲『長野県史』

近代史料編別巻統計2、前掲『昭和十四年二月現在 長野県社会運動史』、790〜814頁より作成。

5 前掲『日本ファシズムと民衆運動』、431頁。

6 前掲『日本ファシズムと民衆運動』、420頁。

7 長野県の農村運動については多くの研究があるが、本稿では前掲『日本ファシズムと 民衆運動』、青木恵一郎『長野県社会運動史』社会運動史刊行会、1952 年以外にも、大 江志乃夫編『日本ファシズムの形成と農村』校倉書房、1978 年 6 月、西田美昭編著

『昭和恐慌下の農村社会運動』御茶の水書房、1978年12月を参照している。

8 前掲『長野県社会運動史』、326頁。

9 前掲『日本ファシズムと民衆運動』、260〜261頁。

10 長野県特高課『昭和十四年二月現在 長野県社会運動史』京都大学人文科学研究所 所蔵、554頁。

11 安田は上伊那地区を中信と分類しているが(前掲『日本ファシズムと民衆運動』、259 頁)、上伊那郡は南信に属する。

12 前掲『極秘 長野県赤化運動ノ全貌並ニ調査表』、19頁。

13 前掲『日本ファシズムと民衆運動』、259〜260頁。

14 前掲「世界恐慌から戦時体制へ」、172頁。

15 前掲『昭和十四年二月現在 長野県社会運動史』、557〜558頁。

16 1924 年 9 月、松本女子師範附属小学校訓導川井清一郎が修身授業において国定教 科書を使用しなかったことを、視察中の県学務課長畑山四男美が問題視したことが発端。

事件の進展に伴い、川井は依願退職に追い込まれ、首席訓導として川井を擁護し続けた 伝田精爾も引責辞任の形で退職した。これに対し信濃教育会は、川井擁護の論陣を『信 濃教育』誌上に展開し、県当局の弾圧に強く抗議した。これは決して偶発的な事件では なく、前提として県当局による自由主義教育弾圧の意向があり、それが表面化したもの であった。信濃教育会にとって川井とは自らの進める教育方針に則った授業をする教師 であり、信濃教育会主流派の末端に位置していた。これが、白樺派教員たちの受難事件 を傍観した信濃教育会が、川井訓導事件でのみ強い抵抗を示した背景にある。またこの 抵抗は、信濃教育会が事実上支配していた長野県教育行政を確保するためのものでもあ ったといえる。

17 例えば長野県と同じように「教育県」を自負していた山形県教育会には自主化運動 は見られない。信濃教育会やその下部組織では、1910 年前後から教育経験者を選挙で

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