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昭和恐慌下の農民運動と教員運動

ドキュメント内 学位名 博士(経済学) (ページ 85-91)

第4章 恐慌下社会運動と満州移民

第1節 昭和恐慌下の農民運動と教員運動

第1項 農民運動の展開

昭和恐慌期に発生した東筑摩郡麻績村、南安曇郡小倉村、そして埴科郡五加村における 小作争議は、長野県の三大小作争議といわれている。これらの共通点は、全国農民組合(全 農)によって指導されていた点と、各村が全農左派である全国会議派(全会派)と深い関

わりを持っていた点である。この時期の長野県農村では、左翼的農民運動が活発に展開さ れていたのである。しかし同時に、排外主義の高揚や軍部の抬頭を背景に、右翼的農民運 動も発生している。自治農民協議会および日本農民協会による農村救済請願運動は、その 代表例と見なしてよい。1932(昭和7)年5月から開始された3ヶ条請願および8月の5 ヶ条請願で、長野県は全国最多の署名者数を集めた。長野県は、左翼のみならず、右翼 的な農民運動も盛んだったのである。さらに、麻績村や小倉村における 3 ヶ条請願の署 名者数は、300 人以上に上っている。昭和恐慌期の長野県下農民運動は、経済的困難を 克服すべく左右両派が同一村内に併存しつつ、その活動が激しさを増したことに特徴があ る

32年末の時点で、長野県下 226団体(協調組合・地主組合を含めると238 団体)のう ち全国的組織に参加していた組合は 60 団体(26.5 %)であり、さらにそのうち 47 団体 が全農全会派であった(表 4-1)。また青木恵一郎によると、圧倒的多数を占める単独の 組合も全農全会派の指導と影響の下におかれていたという。これに対し安田常雄は、こ れらが完全に組織化されていないことに着目し、そこから全農全会派を含めた県下農民運 動の脆弱性を指摘する。県特高課による資料では、全農全会派について「農民組合中其 ノ運動最モ活溌ニシテ尖鋭ナルモノ」とし、単独組合については、組合数こそ多いものの

「活動ニ至リテハ見ルベキモノ必ズシモ多カラズ」としている10。何れにせよ、昭和恐慌 下における長野県下の農民運動は、全農全会派が優勢であった。

県下全農全会派(全農県連)の主要な活動時期は、1930年の県下農民戦線の統一から33 年2月までの 2年間であり、組織が確立した地区は、北信(下高井・下水内・更埴)、東

表4‑1:長野県下農民団体組織状況―1932年12月末

団体種別 組合数 組合員数

(人) (%) (人) (%)

全 農 全 会 派 34 15.0 1,710 12.9

同 支 部 準 備 会 13 5.8 697 5.2

全 農 総 本 部 派 8 3.5 473 3.6

日 本 農 民 組 合 2 0.9 176 1.3

日本農民組合総同盟 3 1.3 134 1.0

単 独 組 合 166 73.5 10,114 76.0

小計 226 100.0 13,304 100.0

協 調 組 合 9 1,697

地 主 組 合 3 126

総計 238 15,127

出典:長野県特高課『昭和十四年二月現在 長野県社会運動史』京都大 学人文科学研究所所蔵、555頁より作成。

信(南佐久・北佐久・上小)、中信(中信)、南信(上伊那)と全県にわたった11。しかし、

郡市別の組合数・組合員数の分布状況を見ると、全農県連による農民運動の展開地域は北 信・東信が主であり、中南信における基盤はそれに比べ脆弱であった(表4-2)。

社会運動の先進的地域である南信諸郡(諏訪・上下伊那)で全農県連の基盤が脆弱であ った点は注意を要する。県特高課の資料でもこの時期の農民運動は東北信中心の記述であ り、南信での活動を確認できない。その原因は、信州郷軍同志会が分析するように、「三

・一五及四・一六事件ニヨリ中心人物検挙サレ」、1933年にも「残党幹部ノ検挙」があり、

「気息炎々全ク萎微シテ振ハザルニ至ツタ」ためであろうママ ママ 12。即ち、南信地方はその先進 性ゆえに早期に弾圧が加えられ、全農県連の活動時期にはその運動の地盤が失われていた のである。安田は次のように論じている。

表4‑2:全農県連地区分布

郡市 支部 組合員 確立地区

(32年春)

支部数 (%) (人) (%)

下 水 内 郡 5 8.8 57 2.4 下水内

上 水 内 郡 1 1.8 120 5.1

下 高 井 郡 5 8.8 49 2.1 下高井

上 高 井 郡 4 7.0 190 8.1

更 級 郡 1 1.8 225 9.6

埴 科 郡 10 17.5 990 42.4 更埴

長 野 市 0 0.0 0 0.0

北信計 26 45.6 1,631 69.9

小 県 郡 9 15.8 268 11.5

上 田 市 0 0.0 0 0.0 上小

北 佐 久 郡 6 10.5 92 3.9 北佐久

南 佐 久 郡 6 10.5 36 1.5 南佐久

東信計 21 36.8 396 17.0

北 安 曇 郡 0 0.0 0 0.0

南 安 曇 郡 4 7.0 139 6.0

東 筑 摩 郡 3 5.3 30 1.3 中信

西 筑 摩 郡 0 0.0 0 0.0

松 本 市 0 0.0 0 0.0

中信計 7 12.3 169 7.2

諏 訪 郡 0 0.0 0 0.0

上 伊 那 郡 2 3.5 22 0.9 上伊那

下 伊 那 郡 1 1.8 115 4.9

南信計 3 5.3 137 5.9

県計 57 100.0 2,333 100.0

注:支部数には支部準備会を含むが、原資料では年次が明らかでない。

出典:信州郷軍同志会『長野県赤化運動ノ全貌並ニ調査表』(飯田市立図書館所蔵)、

青木恵一郎『長野県社会運動史』社会運動史刊行会、1952年、293頁より作成。

長野県の農村社会運動は、中信地方を除けば、運動の主力地域が北信・東信という、

「千曲川水系」にそった縦断構成を示し、南信地方には、ほとんど見るべき農村社会 運動は存在していない。13

南信地方に関しては先述の通りであるが、ここで注目すべきは、運動の展開地域が水系に 沿った縦断構成を示しているという指摘である。こうした縦断構成は、同時期に展開して た教員運動においても確認できる。

さて、その後の満州移民事業の展開を視野に入れた場合の、恐慌下農村社会運動の動向 を確認しておきたい。先述した農村救済運動には、満州移住費の補助要求が盛り込まれて おり、前年来の満州侵略の影響が明確に現れている。農村救済運動が展開した1932年は、

満州移民の試験移民期の初期に該当しており、8 月 30 日には拓務省の移民案が議会を通 過した。これに対し、同じく 1932 年に全農全会派が提唱した「農民委員会」運動では、

小作料・土地問題のほかに、いっさいの農産物の損害に対する国庫保証、勤労農民負 担の税金免除ならびに滞納棒引、肥料、電燈料、鉄道運賃等の独占価格反対、農村失 業者の失業保険の実施、出稼ぎ女工の家族委員会の組織など、14

多様な要求を掲げておりながらも、直接的には、満州侵略の影響を看取できない。実際に 全農県連に指導された長野県の小作争議における要求もほぼこれに沿ったものであり、そ こに満州問題は意識されていない。しかしながら、長野県特高課は、全農県連の闘争を以 下のように把握していた。

全農県連ハ(中略)

(イ)小作料ノ減免

(ロ)立禁土地取上絶対反対

(ハ)立毛勤産ノ差押絶対反対

(ニ)勤労農民負担ノ税金免除並滞納棒引

(ホ)借金棒引

(ヘ)治維法、治警法、暴力行為法其ノ他勤労農民ヲ弾圧スル一切ノ法令撤廃

(ト)帝国主義戦争反対、、、、、、、、

(チ)ソビエト同盟ヘノ労農代表派遣

等々ノスローガンヲ高ク掲ゲ「飯ト仕事、土地ト自由ヲヨコセ」ト叫ビテ果敢ナル闘 争ニ出デタリ。15(傍点―引用者)

全農県連は満州侵略を意識しつつ活動を展開していたといえよう。このような運動方針を

掲げていた全農県連の活動は、二・四事件によって事実上壊滅するのである。

第2項 教員運動の展開

一方、この時期の長野県教育界には新興教育運動が浸透していた。全国と同様に長野県 でも、昭和恐慌の影響が教員給の不払い問題や欠食児童という形で教育界に顕在化し、運 動に参加した教員たちの動機づけとなっていた。長野県での新興教育運動は、1930(昭

和6)年に結成された諏訪郡永明小学校の研究会「金曜会」を母体にして、31年10月新

興教育同盟の準備組織が創られ同校を「拠点校」として展開されていった。それ以後1933 年 2 月までという活動時期は、全農県連のそれとほぼ一致する。また運動主体である日 本労働組合全国協議会日本一般使用人組合教育労働部長野支部(教労長野支部)は、北信 に更埴・長水、東信に上小・佐久、中信に中信・木曽、南信に上伊那・諏訪・下伊那の全9 地区に組織され、こちらも県下全域にわたる。しかし後述するように、主力地域は南信で あり、農民運動とは状況を異にしていた。

全国的に新興教育運動は、教員をプロレタリア階級として、資本家階級との階級闘争を 志向しているが、長野県での主たる闘争相手は信濃教育会であった。川井訓導事件16を経 て、より強化された信濃教育会による教育支配体制は、時として一部教員の意向を抑圧す るものであった。さらに、信濃教育会の自主化は全国的には珍しいが17、同時期に展開し ていた青年団の自主化とは異なり、役員選挙は形骸化し、必ずしも一般教員の意向を反映 したものではなかった。例えば下伊那郡の場合、1921 年に自主化を達成した郡青年団の 運営は青年自身が担ったが、下伊那教育会では1920年に自主化した以後戦後に至るまで、

大日本教育会長野県支部下伊那分会時代を含め、会長は例外なく飯田小学校長が務め、自 主化の機運をつくった青年教師たちが会の運営に参加することはなかった。当該地区の中 心校の校長が会長に就く形態は、他の郡市教育会もほぼ同様である。

新興教育同盟諏訪支局によるものと思われる1932年6月の『信ノ教育諏訪版』第1号 には、公選を主張する記事がある。翌 7 月の『信濃教育諏訪版』第 2 号では、会長選挙 公選の主張が「光輝ある伝統の下に屈服してしまつた」結果を受けて、今後の方針が挙げ られている。その最後に、「教育会のなしてゐる仕事と一般教員の要求との距りを明瞭に し以て会長のみならず幹部の選挙の必要を痛感せしめること」が、「今から実行に着手」

すべき事項であると結んでいる。この点は、直接運動に関与した教員たちによる証言でも 明らかになっている。

ドキュメント内 学位名 博士(経済学) (ページ 85-91)