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信濃教育会の「海外発展」思想

ドキュメント内 学位名 博士(経済学) (ページ 63-69)

第3章 満蒙開拓青少年義勇軍の送出

第2節 信濃教育会の「海外発展」思想

義勇軍送出には送出割当が送出分布上決定的な要因であり、その実施や達成は教師が大 きな役割を果たしている。長野県では信濃教育会が教師を強力に指導しており、送出割当 を決定する義勇軍編成協議会への参加、義勇軍幹部の選定、拓務訓練の実施など、信濃教 育会による義勇軍送出事業への関与は多岐にわたる。

募集手続きの実態は、信濃教育会の関与をより直接かつ鮮明に浮かび上がらせている。

1944 年 1 月の長野県の募集要領には、義勇軍入隊の申請に必要な願書や戸籍謄本など関

係書類が、市町村区長→各教育部会→地方事務所→県拓務課と経由することが明記されて いる一方で、1944 年度大東亜省満州事務局の『満蒙開拓青少年義勇軍』に記載されてい る募集手続きでは、ただ市町村→都道府県知事となっている20。また、1938年1月と翌39 年 2 月の「長野県報」にも募集要項があるが、この時点では信濃教育会(各教育部会)

は関係していない。教員を対象とした内原訓練所での拓殖講習の参加に関しても信濃教育 会が深く関与している。県学務部長は、1940 年 6 月に実施される拓殖講習に関して、応 募人数を超過する場合には「各郡教育部会長」が「銓衡」し、また学校長が応募者を「部 会長ニ推薦」して「部会長」が県に報告するよう定めている21。また、『満州開拓史』が

「義勇軍運動の全般からみて、最大の弱点」22と指摘している幹部・指導員の養成は、長 野県においては信濃教育会が担った。1939 年 12 月、信濃教育会は教育部会に幹部候補 生の推薦を求め、その結果校長・訓導ら 14 人が推挙された。そのなかには、かつて二・

四事件で検挙された小林済が含まれている23。こうした信濃教育会による指導員の推薦は、

以後も継続された。農村経済の好転などが送出の低下を招き、満州移民事業の全面的崩壊 を義勇軍の送出によって何とか食い止めていた時期に、信濃教育会の義勇軍送出事業への 関与の度合いは強くなっているのである。

このように、信濃教育会は長野県において義勇軍送出事業の中核的役割を果たした組織 であるといえ、その背景を考究することは長野県の義勇軍送出事業を論じる上で避けるこ とはできない。そこで、この節で「海外発展」思想について、次節で二・四事件による急 速な右傾化について論及し、この両面から信濃教育会と義勇軍送出事業の関わりを考えて みたい。

第1項 満州事変までの「海外発展」思想

信濃教育会の機関誌『信濃教育会雑誌』において海外志向が確認できるのは、1889年3 月の第 30 号である。同号に掲載された帝国憲法発布祝賀式の席上での、長野県尋常師範 学校長浅岡一の演説は、ビルマ植民地化の要因を「無智貧窮」と「上流ノ者」の「文弱」

に求め、「文弱ニ流ルルノ弊ヲ矯正スルハ尤モ緊急ノコト」と主張するものであった24。 長野教育談会が長野教育会を経て信濃教育会となったのは 1886 年のことであるから、信 濃教育会は設立当初から海外志向を持っていたことになる。

日清戦争期には、信濃教育会の事業のなかで海外志向は顕著になっていない。しかし、

『信濃教育会雑誌』では、1894 年 10 月の第 97 号掲載の渡辺敏(雪窓居士)「満清征討

の一挙より得たる新材料を利用して忠勇の気象を養ふの傍実業を重んじ学芸を貴ぶの観念 を生ぜしむる趣向」のように、アジアへの侵略を正当化する思想が明確に主張されていた。

また、移住が積極的に採り上げられるのは、1899 年 3 月の飯田幸造「移住心」である。

ここでは諏訪郡原村などの事例から「開拓に汲々し急崚なる坂路より山頂に至る迄殆ど化ママ して田園桑圃となり立錐の余地なきに至れり」、、、、、、、、、、、 25とし、北海道や台湾への移住を提案して いる。当時政府が進めていた北海道移住政策に反応していることが窺える。

1903年6月の信濃教育会総集会での伊沢修二の講演「信濃教育ト対外思想」において、

移住先としての満州が登場する。ただし、こうした満州への志向は、当時それほど特異な ものではなかった。「極東現時の問題は必ず満州の保全に付て之を決せざるべからず」26

と主張した、いわゆる「七博士建白意見書」提出者の一人、東京帝国大学教授戸水寛人は、

アメリカ大陸を移住先として「最適当」としたことに加えて、「日本人の移住に適当な場 所は其外にまだ朝鮮もあり満州もある、夫故日本人は力を尽して朝鮮及満洲に移住の便利 を図る方が宜」しいと述べている27。日露戦争が朝鮮や満州の支配権を争奪した戦争であ ったことを考えれば、当時の風潮として、満州への志向は特異なものというよりも、むし ろ一般的・全国的なものであったといえよう。1906 年には文部省が陸軍省などに、教育 者や学生の「団体満韓旅行」に便宜を与えるよう要請している。ともかく長野県において も伊沢の講演以後、日露戦争期に入ると教育界の満州・朝鮮への関心が急速に高まった。

こうしたなかで信濃教育会は、県とともに会員の満韓旅行を奨励し、1906 年 7 月に 220 人が出発した28

日露戦争期の信濃教育会の事業は、1904 年 4 月に帝国教育会によって企画された出生 軍人遺族児童の学資義捐金募集への協力、同年 11 月に幹事細川周太による軽井沢療養中 の傷病兵慰問、同年の夏期講習会の講話を無報酬にして講習料を陸軍恤兵部に献金する、

などである29。日清戦争期の事業と比較すると、戦争そのものに関連する事業に変化して いることが窺える。それに加え、莫大な戦費による影響は教育費にも波及している。1904 年 2 月に文部省は教育費節約に関する訓示を通達した。信濃教育会が県費補助を受けて 進めていた図書館設立事業は、それによって一時中止となった。日清戦争期と比較すると 信濃教育会の事業は、政府の施策に対する協力の度合いを強めている。これは、日露戦争 がより総力戦化していたことと関係があろう。

第 1 次世界大戦参戦で日本が中国・満蒙の解決に乗り出した時期に、信濃教育会の海 外志向は会を挙げての「海外発展」運動として事業化していく。1915 年 1 月、信濃教育

会は「植民教育調査」に着手し、委員を三村安治・中村国穂・高松良・藤森克・内堀林平 の 5 人に委嘱した。これに前後して『信濃教育』(『信濃教育会雑誌』より改題)には、

彼らの手による論稿が次々と発表されている。同年 3 月の信濃教育会議員会に県からの 諮問案が示され、その一つに「植民思想ノ養成ニ関シ教育上如何ナル施設ヲナスベキカ」

というものがあった。この説明には、

世界戦乱ノ今後ニ於テハ愈々我ガ同胞ノ国内ニ蟄居スルヲ許サズ。即チ此ノ機運ニ際、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、

シ、大和民族ノ興国的精神ト膨張的気風ノ作興トヲ促シ、其ノ出稼ギタルト移民タル、 トヲ問ハズ、汎ク海外各地ニ新天地ヲ開拓スルニ足ル人士ノ養成ニ努ムベキハ、蓋シ 世ノ先覚ヲ以テ任ズベキモノノ責務ト謂ハザルベカラズ。(傍点−引用者)30

とある。第1次大戦参戦の目的が中国権益獲得にあった以上、それに乗じている県の諮問 は、侵略的政策の一環に組み込まれているものといってよい。信濃教育会は県の諮問に対 し調査委員を設けたが、このメンバーは「植民教育調査」のそれと完全に一致する。委員 がまとめた答申書は、県の希望でさらに増訂を施して、1916年10月に『海外発展指針』

にまとめられ、希望者にも頒布された。同年 9 月に「移植民調査」の委員 6 名(内堀を 除く先の委員と春日賢一・今井新重)が委嘱されているのは、このためであろう。またこ れに並行して中村は、更級郡視学として海外発展の講演会や幻灯会などを開き、信濃教育 会最初の「海外発展」の実地運動を展開している。

信濃教育会は、1916年6月の総集会で、信州教育に関する5大宣言を決議した。

惟フニ大正ノ 聖代ハ帝国ガ世界的地位ヲ開拓スル好機ニシテ、国運発展ノ策日一日、、、、、、、、、、、、

ヨリ急ナルモノアリ。吾人国家教育ノ大任ニ膺タル者、焉ンゾ淬礪ノ至誠ヲ輸サザル ヲ得ンヤ。茲に本会総会ヲ開クニ方リ、左ノ綱領ヲ宣言シ、以テ本来ノ目的ヲ実現セ ントス。

一、国体ノ尊厳ヲ体得セシメ、大ニ立憲的精神ノ発揚ニ努ムルコト 一、質実剛健ノ気風ヲ養成シ、大ニ体力ノ増進ヲ図ルコト

一、世界的知見ヲ拡充シテ、大ニ海外発展ノ実ヲ挙グルコト、、、、、、、、、、、、

一、科学的知見ヲ高学シテ、盛ニ殖産興業ノ精神ヲ醍醸スルコト

一、益々本県ノ所長ヲ発揮シテ、汎信州主義ヲ鼓吹スルコト、、、、、 31(傍点−引用者)

3 項目の「海外発展」は、「帝国ガ世界的地位ヲ開拓スル好機」と照応している。信濃教 育会の「海外発展」事業は、国策的見地に立脚していたといえよう。国策的見地との関連 は、信濃教育会の「海外発展」運動の中心的人物である佐藤寅太郎、津崎尚武、中村国穂

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